宗教は所詮は三世の生命への力用に尽きる。死は避けられない。誰しも必ず死は訪れる。これを避ける思想・哲学・宗教など無価値であろう。死の厳粛な審判の前には蓄えた知識など何の役にも立たない。ただ実践の完全燃焼しきった生命でしか太刀打ちできない。知識をこねくり回すだけの人が多いが、死後の世界には何の役にも立たない。

釈尊が仏法を説いたのも。生老病死が避けられないことへの対応であった。三世の生命に渡って幸福になる道であった。大聖人も同じである。

命のリミットが迫っている人に

現実に、いま、末期癌などの重い病気で命のリミットが迫ってる人がいる。このような状態に置かれた人にとって、僅かな知識を増やしたところで何の満足ができようか。

だが、日蓮仏法では、このような人でも唱題行で三世に於いて幸福になれるのだ。

天台の修行は

天台の止観の十乗観法の修行は一般庶民には極めて困難である。非常に高い能力を必要とする。それこそ千人・万人に一人が悟達できる難易度だろう。それでは実際の上では一切衆生を救済したことにはならない。ゆえに大聖人は唱題行という究極の実践法を弘められた。

専修念仏では

唱題行として法然の念仏は有名だが、修行法としては平易なため一般庶民からも多くの支持を得て、僅かの間に急速に浸透した。この点は着目すべき点であろう。

だが悲しいかな専修念仏では幸福にはなれない。娑婆世界とは縁のない阿弥陀仏を本尊として拝んでもダメである。『捨閉閣抛』と法華経までも捨てているのだから一切衆生の成仏への道を閉ざしているのである。



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