大石寺第26世日寛師。江戸時代の大哲学者と言えよう。六巻抄の深さ。日蓮正宗にはこれほどの大碩学を生む素地があったのだ。日興上人が起こした富士門流はやはり偉大である。

三重秘伝鈔
「三世間とは五陰と衆生と国土となり。五陰とは色・受・想・行・識なり、言う所の陰とは正しく九界に約し、善法を陰蓋するが故に陰と名づくるなり、是れは因に就いて名を得。又陰は是れ積聚なり、生死重沓す、故に陰と名づく、是れは果に就いて名を得。若し仏界に約せば常楽重沓し、慈悲覆蓋するが故なり。次ぎに衆生世間とは十界通じて衆生と名づくるなり、五陰仮に和合するを名づけて衆生と曰うなり、仏界は是れ尊極の衆生なり。故に大論に曰わく、「衆生の無上なるは仏是れなり」と。豈凡下に同じからんや云云」
五陰を『陰蓋』覆い隠すという意味と、『積聚』積み集まるという意味と二重に解釈されている。その上で、善法を陰蓋する因の面、この場合、生死重沓、生死の苦悶が重なると拝すれば良いのだろうか。一方で、仏界に約せば慈悲覆蓋という果の面、これを常楽重沓と表現されている。よって因果に即して配されている。日蓮仏法は従果向因である。日寛師はこの従果向因の観点からこの文を用いられているのだろう。

何と深い洞察なのだろうか。大聖人の仏法の偉大さをよく顕されている。

日寛師が偉大な点は「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」と大聖人と我々凡夫との隔絶を取り除いた点であろう。日蓮仏法の解説者としては最適者であった。

諸法実相抄に「仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」と仰せの通り、我々凡夫こそが無作三身(法身・報身・応身)をそなえた仏の実体である。

当時の大石寺は体系化した教義が確立しきってなかった。日寛師が、大聖人が末法の教主であり、末法の仏である事を明確にした功績は極めて大きい。


以下は当体義抄文段である
一、本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華等文。
 即ちこれ、文底秘沈の妙法、我等が旦暮に行ずる所の妙法なり。迹門は開三顕一の妙法、文の妙法、熟益の妙法なり。本門は開近顕遠の妙法、義の妙法、脱益の妙法なり。文底は本地難思の境智の妙法、意の妙法、下種の妙法なり。当に知るべし、迹門は華の如く、本門は蓮の如く、文底は種子の如きなり云云。「本地難思」等とは、総勘文抄に云く「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」云云。下の文に云く「地水火風空とは即ち妙法蓮華経なり」云云。五百塵点劫の当初なり、故に本地という。「知」とはこれ能証の智なり。「我が身」等とは所証の境なり。故に「境智」という。我が身即ち地水火風・妙法蓮華とは、即ちこれ本有無作の当体蓮華なり。是の如く境智冥合して、本有無作の当体蓮華を証得する故に、「即座開悟」というなり。当に知るべし、「凡夫」とは即ち名字即、これ位妙なり。「知」の一字は能証の智、即ちこれ智妙なり。以信代慧の故に、またこれ信心なり。信心はこれ唱題の始めなるが故に、始めを挙げて後を摂す。故に行妙を兼ぬるなり。故に知んぬ、我が身は地水火風空の妙法蓮華経と知しめして、南無妙法蓮華経と唱えたまわんことを。即ちこれ行妙なり。「我が身」等はこれ境妙なり。この境智行位は即ちこれ本因妙なり。「即座開悟」は即ちこれ本果妙なり。これ即ち種家の本因・本果なり。譬えば蓮の種子の中に華・菓を具するが如きなり。当に知るべし、前には一念の心法に約して境妙を明かし、今は本有の五大に約して境妙を明かすなり。心に即して色、色に即して心なり。人法体一の本尊これを思え。 
言うまでもなく、本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華とは、南無妙法蓮華経のことであるが、この妙法の当体を、まず本地を尋ね、境智の二法から論じ、本有無作と開くのである。
日寛師は、本因妙・本果妙。因果俱時。人法体一の本尊まで解釈している。


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