「日蓮は民衆主体ではない」と主張する連中がいるが、果たしてそうなのだろうか。考察してみたい。

そのような連中は「日蓮が手紙を出していた主体は武家あり農民などの民衆ではない、よって日蓮仏法は民衆仏法ではない」と主張している。

大聖人は鎌倉を拠点に布教活動を進められた。政治の中心である鎌倉、伝統ある京都ではなく。関東を中心に活動された。当時は武家社会である。武家の主人とその夫人が門下の主体になるのは自然なことだろう。農民はそこに属していた。主人・夫人の信仰の確立がそこに属する農民や一族の信心の浸透につながる。

当時の農民や漁民等々の識字率は極めて低かった。殆どが文盲と考えて良いだろう。故にお手紙を出すよりも直接指導されたのだろう。だからといって「民衆の為の仏法ではない」という根拠にはならない。

当時、熱原の農民信徒や各地の農民・漁民などの信徒が存在した。大聖人が御遷化された後の葬送の列に、鎌倉の米町の住民も加わっていたという記録(日位著の日蓮御葬送日記)もある。これは民衆階層が大聖人仏法の布教対象であったことを裏付けるものである。

しかし、そもそも『民衆仏法』という表現が適切かどうか疑問である。大聖人は「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」と一切衆生を救う事を願っておられたのだから、そこには農民も漁民も下人も含まれるのは当然だろう。大聖人の衆生救済の御心には、武士も貴族も天皇も農民も漁民も下人も皆等しく救うべき対象なのである。つまり、わざわざ『民衆仏法』と対象を限定するのにも違和感がある。


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