よく「日蓮は教団運営に関して、さほど関心が無かった。各門下の自主性に任せていた」と指摘する連中がいるのだが、本当にそうだったのだろうか。考察してみた。

両人御中御書を見ると、亡くなった大進阿闍梨の住していた坊を譲り状の通りに取り壊し、鎌倉の日昭師の坊に(修理して広くするように)統合せよと指示されておられる。また、冬は火事が起こりやすく拠点が火災になってしまう懸念をされ、そうなっては物笑いの種であると仰せである。そうなる前に速やかに処理しなさいとの意味であろう。坊・つまり地域の拠点会館に対して、これほど細かい指示を出されているのである。門下任せにすることは無かったのである。

また、他の御書を見ても、四条金吾への頼基陳情、主君に出す彼の陳情(答弁書)も大聖人が自ら代筆されて送られた。或いは滝泉寺申状・伯耆殿等御返事を見ると、大聖人が裁判対策に対しても非常に細かい指示を直接出されてることがわかる。

特に熱原法難は、滝泉寺の日蓮仏法に帰依した信徒達への大弾圧である。富士地方は、日興上人が中心になって布教をしていた。富士地方の日蓮教団に対する大弾圧である。大聖人は、門下達任せにはせずに、御自身がこのような教団対応・裁判に対して直接指示されているのである。

そもそも身延に入山された、身延の位置を考察してみる。幕府権力との絶妙な距離を保っている位置である。(佐渡赦免後の情勢で)鎌倉に拠点を構えれば権力側を刺激しすぎる。もっと遠くに拠点を構えれば安全になったろうが、それでは門下達と疎遠になり細やかな指導が届きにくくなる。世間的には身延という一見山奥に隠居をしてるように見せつつ、実は鎌倉方面・富士方面・千葉方面への指示連絡も緊密に行える絶妙の位置に拠点を構えられたということがわかる。最初から計画的に身延を選定された経緯では無いが、結果的に身延は上記の理由に於いて適切な場所だと御判断されたのではないだろうか。

つまり大聖人は教団運営に関して非常に細かいところまで直接指示されておられたことがわかる。この点を見誤ってはならないだろう。


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