「無量義経は偽経ではない」の続き

無量義経を「中国撰述だ!偽経だ!」と主張する学者連中は『難癖レベル』の批判ばかりだが、その中では比較的マシな方を見てみる。経典の内容批判(他は略語がどうのこうの揚げ足取りが酷過ぎる)として代表的なものが『四善根』があげられる。聞き慣れない言葉であるが、四善根位とは、見道に入る直前の準備的修行段階の事である。これは、有部論書の初期から成立していたわけではなく、修行体系が形成される中で体系化されたものである。

学者(横超博士)の言い分

「仏教の法相を解せざる如き用語のあること。声門の内凡四喜根中、 忍法のみを除いて煖法・頂法・世間第一法といい、これを三法と名づけている。 何故に忍法を脱したのか領解に苦しむ。しかも三法・四果・二道を得ることを得法得果得道と称しているが、四善根に達するのを得法といい辟支仏道と仏道を得るのを得道という如きも、これまた穏当を欠く語法である。」

要するに、『四善根』に忍法だけ抜けてるのはおかしい、と主張してるのだ。

まず大前提として、無量義経はインドで撰述されたのである。

『四善根』は四諦を観ずる事に尽きると言える。その為、観察の位とも呼ばれている。また順決択分とも呼ばれている。

四善根は有部論書の初期から成立していたわけではなく、修行体系が形成される中で体系化されたものである。『倶舎論』では非常に整理された形になっている。これが有部の完成形であろう。一方で 『大毘婆沙論』では 、説く順序が異なっていたり、様々な説を含んでいたりする。有部の教理が整備されていくのに伴って、四善根も一つの教理として整備され確立していったものである事がわかる。

この『大毘婆沙論』は『発智論』に関する広大な注釈書である。つまり発智論が根本である。その発智論では忍位が説かれていない。また異訳の『八犍度論』でも同じく忍位が説かれていない。

つまり、無量義経がインドで撰述された時代に於いて、この発智論系の教学の影響を受けたと考えられる。或いは発智論との関係が無かったとしても、大毘婆沙論で指摘されるように、阿含経典にはもともと忍位が明らかに説かれていなかったのであるから、煖法・頂法・世間第一法とする教学を持つ人物が無量義経の撰述に関係があったことになる。

もしも無量義経が中国で撰述されたならば、まずは当時の中国でも有名な『阿毘曇心論』(大毘婆沙論の綱要書)を参考にするはずである。そこでは忍位も説かれている。それなのに、わざわざ忍位だけ省いて撰述する意図が見えないのである。よって、もともとのインド梵語の経典で忍位が説かれていなかったと考えるのが妥当だろう。

次に『得法得果得道』に関する論難(難癖)に反証していく。

ポイントは経文の以下の文である
(無量義経説法品第二)

或得煖法。頂法。世第一法。須陀洹果。斯陀含果。阿那含果。阿羅漢果。辟支仏道。発菩提心。登第一地。第二地。第三地。至第十地。

・・・各各別異。其法性者。亦復如是。洗除塵労。等無差別。三法四果。二道不一。

・・・善男子。以是義故。故知説同。而義別異。義異故。衆生解異。解異故。得法得果。得道亦異。

要するに、三法を四善根に達することであるとし、二道を得することを辟支仏道・仏道であると解釈するか否かである。

ちなみに、天台大師の法華文句によれば
三法とは声聞・縁覚・菩薩の三乗
四果とは阿羅漢・縁覚・菩薩・仏の果
二道とは漸・頓
と解釈されている

天台大師は三法を四善根に達する事とは解釈しておらず、さらに二道を得する事も辟支仏道・仏道とは解釈していない。

また三法を三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)、二道を仏道修行の行と学と解釈する人もいる。

(ここから長くなるので徐々に追加していく予定)


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