大聖人は『法華堂』や『持仏堂』と称した集会所、すなわち多くの門下が集まる信仰活動の拠点を持っていた門下には僧俗の区別なく大幅の本尊を授与されている。在家の信徒である日長に授与した御本尊は、丈234センチ・幅124センチという現存する中で最大の曼荼羅本尊である。つまり、人が大勢集まる本堂に安置する御本尊は大きな姿である、というのが大聖人の御考えであった。

一方で、個人に下付された御本尊の中には、折りたたんで収納できるようなサイズの小さな御本尊も存在する。

「本門の戒壇」に安置する御本尊は

三大秘法抄には現存する御書の中で唯一、本門の戒壇の内容が明記されている。「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」と仰せである。全世界のありとあらゆる衆生や諸天が来訪する戒壇なのである。これは日蓮仏法に於いて『象徴的な戒壇』であると解釈して良いだろう。そして、これだけ重要な本門の戒壇に言及されながら、その戒壇に安置する御本尊のことをお考えにならない方が不自然だろう。

三大秘法抄では、その後の文に「延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」と伝教大師の建てた延暦寺の戒壇が、当初は清浄で穢れの無い妙戒であったと認識され、それが慈覚・智証によって土泥のように汚されてしまったことを嘆いておられる。それはつまり、日蓮仏法で建てる本門の戒壇は、このような事になってはならないと強く願っておられたのだろう。

理想の戒壇のモデル

そして、この延暦寺の戒壇(伝教・義真時代)を『理想の戒壇のモデル』として認識しておられたのだろう。延暦寺が当時の正法の総本山であり、多くの信徒達が集う場であり、修行・教学の練磨の場であったこと。いずれ「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立」した時の『理想の総本山』としてイメージされたのだろう。

その本門の戒壇こそ、日蓮仏法に於ける『象徴的な戒壇』という位置付けだろう。ここで『象徴的な戒壇』と強調した理由は、宗門が言うような「(戒壇に安置してある)大御本尊に信を取らなければ、いくら(各家庭など)他の御本尊を拝んでも功徳が得られない」などというような対象ではないからだ。あくまで象徴的な役割なのである。

尤も、延暦寺に関しては「此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき」と仰せであり、日蓮仏法の戒壇が建った後は、延暦寺の戒壇は益が無いと明言されておられる通りである。

身延の本堂に安置されていた御本尊は

そこで考えたいのが、戒壇の大御本尊の真偽である。

日達法主の説法によると
戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」
(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)
とされるが、果たして事実だったのだろうか。

もしも、これが事実ならば、御書のどこかに明記されているはずなのだが。

資料の手掛かりになる物があれば

現存する御書には戒壇の大御本尊の記述は無い。

何か資料の手掛かりになる物が残っていれば良いのだが。弟子達に直接言い残した文言があったのだろうか、それとも当時は他の文章で残っていたのだろうか、悲しいかな歴史の中で消失してしまったのだろうか。今後も思索を続けていきたい。


「相伝」で隠す必要など無かった

大石寺系は、御書に書かれていない理由を、「一大秘法の奥義は相伝のみで伝えるから御書には書かれていないのだ」などと『相伝』という神秘的なイメージで誤魔化そうとしている。

だが、日達師の説明通りならば、身延に参詣に来た信者ならば、戒壇本尊はオープンに開示されていたのだから、何も隠す必要など無いことになる。堂々と戒壇本尊の事が御書に書かれているはずである。御書だけではなく弟子達や門下達の記録資料にも残っているはずだ。ここにも矛盾が生じている。



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