トルストイの作品に『二老人』という寓話がある。大文豪は、晩年、シンプルな民話や寓話に特に力を注いだ。簡素な表現形式を用いることによって、神と人間の本質を追及した内容が一般大衆にでも理解できるように配慮したのだろう。私も学生時代に読んで深く考えさせられた。

簡単にあらすじを述べると、

ロシアの農村の、エフィームという真面目で厳格な老人と、エリセイという気のいい快活な老人の二人が長年の宿願であった聖地エルサレムに巡礼の旅に出る話である。ロシアからエルサレムまでの徒歩の旅であるから、老人にしては大変な長旅である。

故郷を出発してから数週間が経ち、二人は旅の道中で通りかかった小ロシア国の村に立ち寄り食料などの用品を調達するなどしていた。出発しようとしたときエリセイは喉が渇いたので、水を農家の家に立ち寄って貰おうとする、エフィームは一足先にエルサレムを目指して旅立った。後で追いつく予定であった。

エリセイは水を貰いに農家の家に行き声をかけたがどうも様子がおかしい。よく見ると家の中で痩せた男や老婆や子供がぐったりと倒れている。この村は凶作の為に食料が満足に入手できずに飢えでいまにも死にそうな状態の人が大勢だったのだ。農作業の道具なども生きる為に全て売り払ってしまったという。

エリセイは持っていた食料を家の人達に与え、水も近くの井戸から汲んできてやった。家の人達は少し元気になり、とりあえず一段落したので、再び旅に出ようとしたのだが「もしワシが行ってしまったら、この人たちはまた途方に暮れてしまうだろう」と思い暫く滞在することにした。そして、農作業の道具や食料品や生活用品を自腹で購入してやったり、様々な手助けをしたやった。早くエフィームに追いつかねばならないという焦りはあったが、目の前の苦しんでいる人達を放置できなかった。「ああ、明日は草場も田んぼも請け戻してやろう、馬も買い、子供達に牝牛も買ってやろう。それをしねえでは、海を越えてキリストさまを探しに行っても、自分の心の中でそれを見失ってしまうことになる。まずなによりもこの人たちを助けてやることだ」そう決心して、更にしばらくの間この家の為に尽くしてやるのだった。

そうして、やっと目途がたって再び巡礼の旅に戻った時には所持金は4分の一以下になってしまっていた。この額では海を越えてエルサレムまでは行くことができない。止むを得ずエリセイは巡礼を諦めて故郷に戻ることにした。

一方のエフィームはエリセイをずっと待っていたが来なかったので、先に進むことにした。もしかしたらエリセイが進んでるのかもしれないし、どこかで合流できる可能性も考えて。

やっとこさエルサレムに到着し、さっそく復活大聖堂での聖餐式に出席しようと洞窟に入っていったが、そこは同じような巡礼者達で溢れかえっており、大群衆の行列に巻き込まれて目的のキリストの棺までは辿り着けそうになかった。仕方なく遥か前方を見つめて立ったままお祈りをしていたが、お棺の上の御明が厳かに燃えている礼拝堂の方をじっと見ていたら、なんとエリセイが見えたのだ。一番目に付く一番有難い場所に立って、まるで祭壇の傍にいる司祭のように両手を広げ、その禿げ頭が光り輝いていたのだ。

エフィームは六週間逗留して、あらゆる聖地を遍歴し終えて帰途についた。帰路の途中でエリセイと別れたあの村へ立ち寄った。村は見違えるように変わっていた。以前は食うや食わずの暮らしをしていたのに、今では皆がちゃんと食べていけていた。エリセイに助けられた家の主人が事情を語ってくれた「もしあの人が来て下さらなかったら、わしらは罪の深い体のまま死んでしまったに違いねえだ。わしらはすっかり気を落として、死にかけたまま、神様や人を恨んでいただ。ところがあのお人が、わしらの足を立たせて下さった。そして、あのお人のおかげでわしらは、神様を知り、善い人さまを信じるようになったのです。」

やがて、エフィームもようやく故郷の村に戻ってきた。そして久しぶりにエリセイと再会することになる。エリセイは自分の養蜂場で休憩していた。白樺の木の下に立って両手を広げて空を見上げていた。その禿げ頭は、エルサレムの礼拝堂で主の棺の傍に立っていた時と同じように辺りに照り輝いているように見えた。その光景を見てエフィームは聖地巡礼の感想をエリセイに伝えた「自分は、足じゃ行ってきたが、魂じゃどうだか怪しいもんだ」

エフィームは嘆息した。彼は、この世では神が全ての人に、死の刹那まで、愛と善行とをもってその年貢を果たすように命ぜられたのであることを、悟ったのだった。

つまり、神が説いたことは、目の前の困っている人を見捨てずに尽くしてやること。これが『神性』そのものだとトルストイは説いたのだ。ゆえに、その心は神に通じ、エリセイの魂はエルサレムの礼拝堂の棺の一番キリストに近い位置にいたのだ。一方のエフィームは厳格に聖地巡礼を行ったが、魂までは満足させることは出来なかった。

大聖人は「法華経を持ち奉処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり」「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」と仰せである。

信仰者の本質とは身近な人々に尽くすことである。どこか特定の場所に参詣しなければ幸せになれないというものでは決して無い。ましてや選挙支援活動の票集めが幸せにつながるなど有り得ない。今の創価がやっている活動内容(全てとは言わないが)はエフィームの聖地巡礼のようになってないだろうか。組織から指示される活動方針を規律正しくこなすだけになってないだろうか。願わくばエリセイのように、会員一人一人が身近な人の為に尽くして欲しい。それが屹立した信仰者ではないだろうか。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村