以前の記事で創価の組織が中央集権的な官僚機構であることを書いた。地域の現場では様々な意見が出てくる。しかし、それを一々受け入れるわけにはいかない。反対意見を許していたら組織運営が成り立たなくなるからだ。会員それぞれが独自性を持った活動をされたら、組織として統一的な戦略が立てれず動けなくなる。

「本部長、今度の選挙戦、今の公明党の方向性はオカシイと思いますよ」「支援活動をやらない方がいいと思います。」
「何をいってるんだ君は、広布の同志を政界に輩出して立正安国を実現するんだ。池田先生の正義を証明する戦いなんだ。お元気なうちに師匠にお答えしよう!」「法戦は宿命転換の絶好のチャンスだよ!」

「婦人部長、無理に新聞推進しなくてもいいでしょう。嫌がる人もいるんだから」
「それは違うわ。新聞推進も折伏なのよ。我流の信心ではダメよ。必ず行き詰まるわ。先生に呼吸を合わせなさい。」
「でも、マイ聖教運動などの多部購読はさすがに数字合わせでは無いんですか?」
「地域の牙城の数字を守るというのも大事なのよ。」

「あの、信心の活動に選挙支援とか新聞推進とか新聞配達とか財務とか必要ないと思うんですが・・・。」
「地球に自転と公転のリズムがあるように、信心のリズムもこの二つが大事なんだよ。学会活動は公転です。学会のリズムに合わせないと必ず行き詰まるよ。」

このように、下からの意見が通らない、最後は「信心で受け止めなさい」という常套句で無理矢理に飲まされてしまうのだ。

結果として、活動内容に反対意見のある人は非活動になったり退会したり、つまり排除され居なくなってしまう。残るのは組織に従順な人のみになる。

仮に組織が間違った方向性に進んだとしても、それを下からの意見で軌道修正できるような構造になっていないのだ。「創価の組織活動は全てが正しい」という前提で運営がなされている。果たして、信仰の世界でこの組織形態は適切なのだろうか。歴史的な見地から考察すれば、このような組織が最適な時期もあっただろう。だが現在の主権在民で信教の自由が保障されている世の中で最適かどうかは疑問である。


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