創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2019年06月

(まだメモ書き段階)

今までの検証記事を整理すると、戒壇本尊は大聖人御在世、日興上人の時代には存在しなかったと断じる他ない。つまり後の世に創作されたものである。

大石寺は、これに唯授一人の血脈相承の独自教義を展開し、『戒壇本尊の内証』と同じ内証を法主が受け継いだと主張している、こんなものを日蓮仏法と言い張るのは無理がある。

純粋な日蓮仏法の上に、大石寺系の戒壇本尊と法主御内証の教義を無理矢理に捻じ込んだものになっている。これは日蓮大聖人の仏法を歪めているという他ない。

大聖人は「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と仰せである。これほど法に厳格な方なのだ。戒壇本尊・法主内証という己義をどれほど嘆いておられるだろうか。




ただし、私は大石寺の教義全てを否定しているのではない。例えば、御義口伝は、以前に記事でも書いたが、コアな部分は『大聖人の法華経講義』を受け継いでいると認識している。

富士門流、なかんずく大石寺流の教義には、大聖人の仏法を純粋に守り伝えようとした部分と、自山の正当性・優位性を主張する為に、後の世に創作された部分がある。これらが入り混じった珠玉混合の状態なのだ。

日蓮仏法の信徒ならば、純粋な大聖人の教えを求めるべきである。後世の創作に惑わされてはならない。徹底的に真偽を検証し抜くべきである。




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(メモ段階)

日達法主の説法によると
戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」
(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)







戒壇本尊の大きさは、日量法主(第48世:1771~1851年:江戸時代)の『富士大石寺明細誌』によると
「一、本門戒壇の板大漫荼羅 一幅 日蓮聖人筆十界勧請御判の下横に並べ、現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く、厚さ二寸二分、竪四尺七寸五分、横二尺一寸五分なり」
(富士宗学要集5巻334ページより)
とある。単位をcmに変換すると、厚さ二寸二分(約6.6~6.7cm)、縦四尺七寸五分(約143~144cm)、横二尺一寸五分(約65cm)となる。

このサイズと、材質が楠の板であるので楠の平均重量から、戒壇本尊の重量が推計されている。どれだけ少なく見積もっても100キログラム以上になるということだ。200キロ前後という推計もある。

それほどの重量がある戒壇本尊を、身延の質素な施設のどこに安置できたというのだろうか。大聖人は、身延に入られてからは、ずっと粗末な草庵を拠点にされていた。

大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が建立されたとしている。だが、弘安二年当時、身延に頑丈で立派な堂など無かったのだ。そのような所に無理に安置すると、堂の床が抜けてしまうのではなかろうか。そんな危なっかしい事ができるはずもない。つまり、安置できる場所など無かった。

このように状況を整理してみると、上記の日達法主の説法には、かなり無理があるのではないだろうか。



周知の事実だが、大聖人御真筆の本尊には板本尊など無い。殆どが紙に書かれた御本尊であり、僅かに絹に書かれた御本尊が存在する。

大聖人御在世の間は、板本尊に彫刻するなど一切されていない。そのような記録は一切ない。日蓮仏法の信徒ならば、この事をよくよく考えるべきである。





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