創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2019年05月

(メモ段階)

戒壇本尊は、楠木を用いて掘られた板本尊であり、表面が黒漆で塗られており、更に彫った文字に金箔加工がなされている。

日蓮正宗の公式見解として
「弘安二年(1279)十月十二日に出世の本懐として『本門戒壇の大御本尊』を顕されたのです。この御本尊は末法万年の流布を慮られて、楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(「日蓮正宗入門」より)
つまり、大聖人自らが、紙幅の御本尊ではなく、楠の板に直接に曼荼羅を図顕されて、それを日法に彫刻することを命じたとの見解なのである。





大聖人御在世の時代に於いて、果たして板本尊の漆・金箔加工は可能だったのだろうか。

大石寺系は弘安二年に戒壇本尊が図顕されたと主張している。ところが、同じ弘安二年に書かれた御書を見ると、
「五尺のゆきふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし、衣もうすくて・かんふせぎがたし・食たへて命すでに・をはりなんとす、かかるきざみに・いのちさまたげの御とぶらひ・かつはよろこび・かつはなけかし、一度にをもひ切つて・うへしなんと・あんじ切つて候いつるに」(上野殿御返事)
身延山中で厳しい寒さを耐えれる衣類はなく、食物さえ確保できず、餓死を覚悟されている窮状だったのだ。こんな状況で漆・金箔加工をする経済的余裕などあるはずがない。




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(メモ段階)

最近よく思索するのは、トルストイの不朽の名作『戦争と平和』である。私も若い頃から何度も読み直した素晴らしい作品である。

BBC版では2016年に最新の映像技術によってドラマ化された。あのBBCが2年半をかけてドラマ化した渾身の作品となっている。

とにかく圧巻の映像美である。エカテリーナ宮殿をはじめ、白樺の並木道や、ロシアの美しい田園風景、樫の老木の大樹、ボロジノ会戦のパノラマの光景、等々枚挙に暇がない。これらを映像化してくれただけでも価値がある。

しかし同時に映像作品の限界も感じた。一例を挙げれば、小説の中での、ボロジノ開戦前のアンドレイとピエールの会話が、ただの恋愛話にすり替わっているのである。これは残念だ。原作を読んだことが無い視聴者層に配慮したのだろうか。しかし、この会話の中にこそトルストイが訴えた『ロシア魂』そのものが語られているのだが。

当記事では、映画・ドラマ批評のような事をするつもりはない。ただただトルストイ原作の深さを再認識させられ、深く思索し続けている。

あの英雄ナポレオンの言葉すら「蠅の唸り声」と突き放し、歴史は一人の英雄が作るものでは無いとするトルストイの透徹した歴史観。強く惹かれるものがある。
われわれの一人一人が偉大なナポレオンより、人間として以上でないまでも、決して以下ではない、とわたしに語りかける人間の価値というものが、


精神の英雄プラトン・カラターエフ

物語後半でプラトン・カラターエフというロシアの農民兵が登場する。ナポレオンが武力の英雄なら、カラターエフは精神の英雄として描かれている。ピエールは捕虜生活の中で彼に感化される。信仰観まで変化をもたらす。後に
彼(ピエール)は目的を持つことができなかった。なぜなら彼は今や信仰を持っていたからである。それはある種の法則か、あるいは言葉か、あるいは思想に対する信仰ではなく、生命ある、常に感じられる神に対する信仰だった。以前に彼は自分に課した目的の中にそれを求めていた。この目的の探求がとりもなおさず神の探求だった。そして、ふいに彼は捕虜生活の中で、言葉や考察によってではなく、直感によって、子供の頃から乳母に聞かされてきた「神様はほらそこにいらっしゃるでしょ、神様はどこにでもいらっしゃるんだよ」ということを感じたのである。彼は捕虜生活の間に、カラターエフの中にある神のほうが、フリーメーソンの信仰する宇宙の建造者の中にある神よりも、偉大で、無限で、究めがたいものであることを知ったのである。




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(メモ段階、文章化はこれから)

大石寺第4世の日道師(1283~1341:鎌倉時代~室町時代初期)による伝記『三師御伝土代』は、日蓮大聖人の伝記としては最古の部類となり、信頼性の高い文献とされている。ちなみに三師とは日蓮大聖人・日興上人・日目師のことである。この三師に関する伝記をまとめた著作である。

内容は、大聖人に関する重要な出来事。清澄寺での修行時代、立正安国論提出、松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、竜の口の法難、佐渡流罪、御遷化に至るまで簡潔に記述されている。

現在の大石寺の教義で最も重要とされているのは「弘安2年10月12日、戒壇本尊が建立された」出来事である。「出世の本懐」としている。だがこの著作の中のどこにも戒壇本尊・板本尊の存在は明記されていない。つまり日道師は最重要事項を明記していないことになる。果たしてそんなことがあるのだろうか。


日興上人御伝草案の中に
日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云、日秀日弁は市庭滝泉寺を擯出せられ給ふ。
熱原の法難の経緯が記述されている。この法難を契機に、大聖人は御本尊を認められたとある。だが、ここで肝心の戒壇本尊のことは一切明記されていない。

古語辞典を確認すると、この「遊ばす」というのは、「なさる」よりさらに尊敬の意の高い言い方で使われる。つまり「御本尊を書写なされた」と読むのが自然である。

御真筆の本尊を見ればわかるが、脇書部分に授与された者の名前が書かれている。例えば、日頂師に授与した御本尊には『日頂上人授与』と書かれている。

これらのことから普通に考えれば、この文章は『日興上人授与』と書かれた御本尊を認められたことになる。(大聖人は、普段は『伯耆房』『伯耆殿』と呼んでいた。それが上人という最大限の讃嘆に変わった。)

更に、弟子の日秀・日弁の二人にも上人号が贈られたとある。このことから考えるに、熱原の法難で戦い抜いた弟子達に対して最大限の讃嘆をされたということだろう。その最たるものが伯耆殿への『日興上人授与』と書かれた御本尊を授与したことだろう。ここからも、いかに大聖人が熱原の法難を重視されていたか伺える。




大石寺系は「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」の箇所を「日興上人と共に、戒壇本尊を建立された」と強引に解釈して、『師弟合作』と言い張って、戒壇本尊図顕の根拠にしているようだ。だが、この主張には相当な無理がある。仮に、この解釈で読み進めると、弘安2年10月12日に日興上人が身延の大聖人の元にいなくては辻褄が合わなくなる。ところが、その日には大聖人は日興上人に宛てて「伯耆殿御返事」を認められている。この中で様々な具体的な指示を与えられている。身延にいればわざわざ手紙で指示する必要もない。別の場所にいたからこそ手紙で指示を出す必要があったのだ。つまり、身延にいなかった何よりの証左である。このように大石寺系の解釈は余りにも無理があるのだ。





日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
ここで注目すべきは「本門教主は久遠実成無作三身」の箇所だろう。大聖人の御書から無作三身があるだけで偽書扱いする連中がいるが、最古の文献でも無作三身の概念は用いられていた事が確認できる。

また、「本地は寂光、地涌の大士上行菩薩」とある。昔から本仏論争で解釈が分かれる所である。しかし、そもそも上行菩薩自体が菩薩仏であり、久遠の昔からの寿命無量阿僧企劫であったことを考えれば、末法の仏としての自覚を持っておられたことは明白である。



仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな
日道師は「仏滅後二千二百三十余年」と明確に指示している。一方、ここでも戒壇本尊の讃文「仏滅後二千二百二十余年」と記述が相違している。



これらの事項から総合的に整理すると、日道師の時代には戒壇本尊が存在しなかったと考えるのが自然だろう。




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