創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2019年04月


ダメ出し氏が、私の過去記事の断片を切り取って、ブログ記事にしていた。『創価活動家ブログ』として扱い、それを囲いの人達に攻撃の材料として提供している。(私に何の断りもなく)勝手に記事の断片を引用されて、このような創価叩きの材料として使われるのは非常に心外である。

最初に説明しておくが、私はアンチ創価ではない(当ブログのスタンス)。ダメ出し氏のように、全ての出来事を創価叩きに利用するような姿勢ではない。私は、いずれの組織であろうと、個人であろうと、善いものは評価し悪いものは批判する姿勢である。創価の良い点があれば正当に評価する。人間として当然の姿勢であろう。

だからといって、ダメ出し氏が『創価系・創価脳』というレッテルを貼り攻撃をするのは如何かと思われる。以前の記事でも、私のことを『創価莫迦ツドウカ』『半端な創価狂学莫迦』と酷いレッテルを貼り攻撃してきた。

なお、私の主張はブログ開始当初から終始一貫している。何も変わってはいない。戒壇本尊に関しての見解もそうである。疑問点は隠さずに記事に書いてきた。

ダメ出し氏は、他人様のブログを部分的にしか読まずに、勝手に決めつけてレッテルを貼る人物であることが明らかになった。非常に残念である。

本物は科学的検証と相反しない

私が戒壇本尊の科学的検証を提唱したのは、最大の理由は未来の信徒の為である。記事(リンク)の断片だけではなく全文を読んで頂きたい。

もしも、戒壇本尊が科学的検証・文献学的検証に耐えられないのなら、それはただの迷信の産物に過ぎない。ありとあらゆる疑惑を検証し、それでも残ったものにこそ本物の価値がある。

純粋に日蓮仏法を信じる者ならば真実を求めるべきである。妄信に陥ってはならない。

疑問を持つことも許されない

「日蓮仏法(大聖人を御本仏と崇める)を信じるものは少しでも戒壇本尊に関して疑問を持ってはならない」「歴代法主に対して疑いを持ってはならない」このような姿勢では視野狭窄の信仰しかもたらさない。

少しでも疑問を持った者を、或いは真実を求める者を「不信だ! 無信心になった! 謗法だ!」と悪事のように扱い、攻撃の対象とする。これが『大御本尊・原理主義者』の姿勢なのである。

都合の悪い事実から逃げ続ける姿勢

彼が反応すべき点はそこではない。戒壇本尊の検証された事実にこそ反応すべきなのだ

ダメ出し氏は、戒壇本尊に対しての疑惑にただの一度も答えていない。戒壇本尊が法主の書写と異なる点(リンク)、戒壇本尊が御本尊七箇相承と異なる点リンク(御本尊七箇相承が)日興上人書写の本尊と異なる点リンク、彼はこれらの点をスルーして逃げ続けている。事実を直視しようとしないのだ。

都合の良いことだけ反論し、都合の悪いことはスルーする姿勢では、日蓮仏法の真実には到達できないことは明らかである。



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もはや僧侶が必要な時代では無くなった。『職業僧侶』という点では、学会や顕正会等々の本部職員も同様である。「宗教でメシを食っている人達」こういう連中は必要ではなくなった。

僧侶が必要だった時代

昔は僧侶や寺院が必要であった。寺院にて中央集約的に管理して、教義を保つ役割が大きかった。また、書物の保管の役割もあった。一般の民家は地震や火事で焼失しやすいので、一般の檀徒に保管は任せることは出来ない。このような背景があったので、必要であった。

教義の保管・重要書類の保存という点で見れば、彼等には一定の評価はしている。

現代に於いては

翻って今の時代はどうか?と考えたとき、もはや僧侶や寺院の役割は終わった。むしろ弊害の方が大きい。「御僧侶様」「本部職員様」が上。一般信徒が下。という構図が起こりやすい。

洋の東西を問わず。例えばキリスト教の歴史を見れば、幾世紀も、教会の支配に隷属していた事実がある。魂まで教会の司教に依存していたのだ。神と自分の間に僧侶が入り込んでいた。これが不幸の根源である。日蓮仏法で言えば、自分と御本尊の間に、法主や組織や偶像(永遠の師匠等々)が入り込んでいるのである。これが『おすがり信仰』に陥りやすい遠因となる。

仏法の修行方法は時代と共に変化する

なをいかにとしてか此功徳をばうべきぞ、楽法梵志・雪山童子等のごとく皮をはぐべきか・身をなぐべきか臂をやくべきか等云云、章安大師云く「取捨宜しきを得て一向にすべからず」等これなり、正法を修して仏になる行は時によるべし、日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし、日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん(日妙聖人御書)
と仰せのように仏法の修行方法は時代と共に変化する。紙が身近にある時代に自らの皮を剥ぐ必要がないように。ネット上に御書の全てが公開されている時代に於いて「御僧侶の導きがなければ正しい修行ができない」などということはありえない。

もはや今の時代は情報がオープンになっている。御書は何処でも手に入る、ネット上でも読むことが出来る。僧侶や寺院に頼ること無く、存分に御書を研鑽できるのである。信徒一人一人が御書を根本にして日々の生活を充実させることが可能なのである。

我々在家の一人一人が、かつての僧侶の役割を自覚を持って遂行すれば良いのである。



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