創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2019年03月

想学談林「運ちゃん」氏は、釈迦の教えを以下のように『我見解釈』している。
釈迦が説き広めた教えに一番近いのは、今で言う原始仏教だと僕なんかは考えていますが、そこの教えは執着を断つ事、心を平静に保つことなどがあり

僕が思うのは道徳律というか、心を落ち着かせる要点というか

この主張には強い違和感を覚える。
道徳律だの、心の平静を保つだの、その程度の目的ならば、わざわざ難解な仏教を研鑽する必要があるのだろうか?

心の平静を得たいのならば、イメージトレーニングや、呼吸法を実践するなど、その程度でも充分だろう。

道徳律を養うならば、古今東西の道徳について説かれた書物(孔子や)を研鑽するなど、或いはボランティア活動に勤しむ、丁稚奉公の修行をする等々、幾らでも方法があるではないか。

仏教は『八万法蔵』と言われるように膨大な経典があり、余りにも複雑で難解である。しかも経文が誰が何処で書かれたのか不明なものが多く、偽経疑惑も多く、文献の証明も無かったり不確かな部分が多い。それらの検証をするだけで一生かかっても到底追いつかない程である。

そのような膨大で難解で複雑な仏教から「運ちゃん」氏が学んで得たものが、単なる道徳律だの、心の平静だの、この程度なのである。なんと浅薄な結論なのだろうか。

彼は以前にTwitterで
仏教も哲学も、自分がこの人生を生きるための参考書程度と考えるべきではないのかね。そこを「不磨の大典」と考え依存するからおかしくなる。(ソース
と言い放っているから、所詮はこの程度の認識しか無い人間なのだ。

一方、彼は『死の問題』に関して、仏教では役に立たないからといってNDE(臨死体験)にその答えを求めているのである。キューブラー・ロス氏の著作をバイブルのように重視している。生死の問題は最重要事項である。もはや彼の思想の主軸はNDEにあるといって良いだろう。

彼の仏教に対するこのような軽薄な姿勢では、これ以後も、幾ら時間をかけて仏教知識を得たとしても時間の無駄になるだけだろう。



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大聖人でなければ顕せない世界・景色があるのではないだろうか。甚深なる思想。そこから顕された配置・相貌ではないだろうか。勧請された諸尊の文字の間隔・座配・字の跳ね具合、特に中央主題の「南無妙法蓮華経・日蓮」の凄まじい躍動感は他の誰にも真似が出来ない程である。

いくら筆跡を真似ても、勧請された諸尊を似たような座配で描いたとしても、他人では表現できない甚深の領域があるのではないだろうか。

あのレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が、本物と贋作では隔絶の差があるように。構図や色彩、タッチ等々。本人にしか表現できない世界があるのではないだろうか。




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創価の活動家は、組織の魅力をこう訴える
「創価家族と言われているコミニュティーの中での、心のひだに届くような叱咤激励、君が憂いに我は泣き、我喜びに君は舞うという学会歌にあるような組織文化」があるという。

なるほど確かに会員同士の温かい交流もあるだろう。ある種の互助会のような役割はある。そこは否定しない。

しかし、それは創価だけが特別ではない。一般社会に幾らでもある。例えば重い病を抱える家族会や、障碍を持つ子供をサポートする会などは、もっと心の籠った交流がある。言葉一つ一つを大切にする。家族の悩みも一緒になって取り組んでくれる。或いは、若者に教育支援や生き甲斐を教える会もある。高齢者にきめ細やかなサポートをする会もある。そのような会は枚挙に暇がない。

この点は創価だけが飛び抜けて優れている訳でも何でもない。さらに現状の創価は、組織の打ち出しに従わない人・活動方針に異議を唱える人を、査問だの除名だのドンドン排除していっている現実がある。その温かい『創価家族』すら、組織に従順に従うという前提条件なしには成り立たないではないか。そうなると、何の制約もなく純粋にサポートしてくれる後者の会の方が遥かに勝れている。

「現証」をアピール

創価の活動家は、組織の正当性をアピールしている
「(日蓮正宗・創価学会・顕正会の中で)池田名誉会長の指導によって、詐欺と言われる創価だけが飛び抜けて世界192カ国・地域に広まっているという現証」を誇っている。まるで数こそが正義の証明だと言わんばかりである。

しかしイスラム教、キリスト教の信者数は10億人を軽く超えている。その論理でいえばイスラム教・キリスト教の方が遥かに「現証」を出していることになる。つまり人類社会から認められていることになろう。日蓮仏法よりも優れている事になってしまうのだ。

そもそも大聖人御在世の日蓮教団の数は、遥かに少数だった。念仏宗などの方が遥かに多かった。では念仏の方が優れているのか。そんなはずはない。信者の数よりも教義の内容が重要なのは言うまでもない。

要するに、教義の面での優位性を主張できないから「現証」を強調するしかないのだ。




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創価は絶対平和主義を唱えている。戸田会長が提唱した『原水爆禁止宣言』は創価内では有名であり、これが淵源とされているほど重要視されている。

ところが、牧口会長の著作『価値論』の中に気になる記述がある。
科学が純粋の真理を求めつつ、しかも討究して得られた定理が人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、この宗教も純粋なる生命哲理を最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は人間の幸福生活への実践として行動化されているのである。譬えば、原子核の分裂と云う事は今の科学に於いては最高のものであるが、この原子核分裂の定理は単なる学問として止まるものに非ずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。

(戸田城聖補訂版『価値論』「第5章 価値の系統」「第6節 宗教と科学・道徳及び教育との関係」から)
驚いたことに『平和を守るための原子爆弾』という、およそ仏教徒の発想とは思えない主張がなされているのだ。

牧口会長が戦時中に原子爆弾の情報を持っていたとは到底考えられない。となれば、この部分は戦後に補訂版を作成するときに、付け加えられた文であると推測できる。どうやら戸田会長の『科学と宗教』という論文の内容が付与されたようである。これは大白蓮華(1953年7月10日)の巻頭言に『科学と宗教(二)』として寄稿された文章と一致するので間違いないようだ。

ということは戸田会長は、原子爆弾が平和を守る為の役割を担うと考えていた時期があったことを示唆している。原爆が広島・長崎と二発も投下された後にこのような見解を持っていたとは驚きである。これにより日本が無条件降伏をしたため戦争が早く終わって平和が訪れたという意味なのだろうか。或いは、いわゆる『核の抑止力』で核保有国同士の均衡を保つという意味だろうか。

この見解から、年を経て、やがて1957年の『原水爆禁止宣言』での
たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔物である
「核兵器の使用は絶対悪である」という発言に変化していく。これは明らかに正反対の主張である。

戸田会長の平和思想とは実際にはどのようなものだったのだろうか。今後の更なる研究を待ちたい。



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