創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2019年01月

現在、創価の一般会員に下付されている御本尊は、栃木県・淨圓寺が所蔵していた日寛師が享保5年に書写した略式御本尊である。(一説には、日寛師が入信して日が浅い信徒の為の『入門用』に書写されたものと言われている)

この御本尊の一部を改竄してからカラー複写したものだと指摘されている。具体的には、左下の霞んだ文字の所を明瞭にして、左端の授与書を削除して、文字の線を太くしたり伸ばした、とのことである。仮に、それが本当であっても大幅な改竄では無いだろう。根本的に大きな変更を加えてはいない。ならば、そこまで大きな問題とは思わない。

しかし、気掛かりなのは、この略式本尊は十界の諸尊が全て勧請されていないどころか、何と五界の諸尊しか勧請されていないのである。

大聖人の顕された真筆の御本尊でも、特に初期の頃は十界全てが勧請されていない御本尊が結構ある。だから絶対の条件というわけではないだろう。

ただし、大聖人の晩年・特に弘安期以降は十界全てが勧請されている御本尊が多い。佐渡以降から相貌・座配を様々に模索された結論がこの時期にあると見るべきだろう。

また、御本尊のサイズにも拠るだろう。信徒に下付される際に折りたたむなど小さなサイズの御本尊は略式の相貌にされたのだろう。逆に持仏堂など(皆が集まって祈願する場所)に安置する御本尊は十界全てが勧請されている相貌になっている。

「十界の諸尊が全て勧請されている御本尊でなければ仏界が湧現できない」とまでは思わないが、やはり我々は凡夫である。日蓮大聖人や日興上人とは違う。大聖人の御境涯ならば『楊枝本尊』のように『南無妙法蓮華経・日蓮』だけの相貌があれば他に足りないものはなかっただろう。

しかし、我々は凡夫なのだから。欠けている御本尊では、荘厳なる虚空会の儀式をイメージすることが難しい。従って十界の諸尊が欠ける事なく勧請されている御本尊(広式)が望ましい。

御書にも「十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」(日女御前御返事)と仰せのように、十界全てが揃っている広式が望ましい。

そして看過できないのは、宗門と決別する前までは十界の諸尊が全て勧請されている本尊(日顕法主・日達法主が書写)であったのに対して、なぜ日寛師の五界略式本尊を選んだのか、会員には何の説明もされていないことだ。

御書には大御本尊に関する記述は全くない。ゆえに未だに真偽は不明のままである。江戸時代の日寛師以降、もう300年以上も論争が続いているが決着は全くついていない。このままだと永遠に謎のままだ。

大御本尊の真偽の問題をハッキリさせる事が重要だろう。第三者機関に依頼し科学的に検証すべきだ。選択肢としては筆跡鑑定や筆法鑑定や放射性炭素年代測定などがある。これらを組み合わせて精度の高い検証をして貰いたい。そうすれば大御本尊の模刻がいつの時代のものか明瞭になる。その結果、鎌倉時代ならば信憑性が高まるし、室町時代以降ならば後世の作ということになる。その為には宗門が調査に全面的に協力する必要がある。そして結果を公表すべきだ。

『日興跡条々事』に関しても、宗門は「日興上人真筆の原本がある」と主張しているのだから、それを出せば良いのだ。中立の機関による筆跡鑑定や筆法鑑定を行い日興上人の真筆か否かを検証すべきだ。問題の空白部分に関しても何らかの事実が導き出されるかもしれない。

真偽がハッキリする事によって、大聖人の御本尊へのお考えが(書写や板本尊への模刻をどう考えておられたか等々)明らかになる。現在、そして未来の信徒の為にも真実を明らかにすべきだと考える。未来の信徒達が同じ迷いに苦しまないように。

宗門には、このような大局観な見地に立って、是非とも「中立的な調査」に協力して頂きたい。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

アナトール・フランスの『神々は渇く』の主人公エヴァリスト・ガムランは純粋な青年であった。革命下のフランスに於いて様々な人物の影響を受ける。若い頃は特に影響を受けやすい。

だが、今や彼は、賢人(ロベスピエール)の声に啓蒙されて、より高い、より純粋な真理に目覚めた。彼は革命的な形而上学を会得したのだ、そして、そのおかげで、彼は自分の精神を、粗雑な当てずっぽうの域を超えて、勘違いなどの余地の無い、絶対的確実の領域にまで高めることが出来た。

「事態はそれ自身錯雑し、混乱に満たされていた。そして、色々の出来事はいかにも複雑で、容易にその真相を捕捉しがたいほどだった。しかるにロベスピエールはそれを単純化して彼に示してくれた。善悪を単純なハッキリとした型に分けて見せてくれた。

例えば連邦主義者のなかには地獄の責め苦があるというように。ガムランは、一人の信者が救いの言葉と呪いの言葉との区別を知った時のような、深い歓喜を味わった。

今後革命裁判所は、往年の宗教裁判所みたいに、絶対的罪悪と言葉の上の罪悪とを識別できるに違いない。ガムランはもともと宗教的な気質の持ち主だったので、暗い熱情でこれらの啓示を受け入れた。彼の心は奮い立った。そして、今後自分が犯罪の有無を識別する場合にその基準とすべき心情を把握したかと思うと、我ながら天にも昇る心地だった。おお、信仰の宝庫よ!お前さえあれば、もう大丈夫だ。」

彼は共和主義思想を信奉しロベスピエールに心酔する。それは信仰心そのものだった。そしてロベスピエールの単純化された思想によって物事の判断の基準が出来上がった。

近視眼的で視野狭窄とも言うべき善悪の判断基準で陪審員としての仕事をこなしていくことになる。その結果、多くの無実の人を有罪として裁き、ギロチンにより命を奪ってしまうのである。悲劇そのものだ。

現実は複雑である。それを踏まえて丁寧に一つずつ応接していかねばならない。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


昔、私がバリ活だった頃、物事や人物の見方が非常に狭い視野しか持っていなかったことに気付いた。創価組織のフィルターを通じて物事を判断していた。池田名誉会長のスピーチや書籍の内容によって人物や物事を判断していた。「この人は創価を高評価している。だからこの人は正しい人なんだ」「この人は池田先生に評価されていた。だからこの人は偉人である」等々。このような『創価の物差し』が判断基準だった。我ながら何という稚拙な思考だったのか、今振り返れば恥ずかしい限りである。

しかしバリ活の多くは似たような判断基準だろう。「この人は潮で創価を褒めていたわ。信用できる人よ」「この人は創価の選挙について批判していたわ。信用できないわ」等々

自分自身で評価・判断するのではなく、創価組織の見解をそのまま鵜呑みにするだけ。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

現代は様々な思想・宗教・哲学が存在している。かつてこれほど幅広い選択は無かっただろう。

若い人は『会いに行けるアイドル』に熱中したり(アイドルが本尊)応援の為に人生の時間と金を限界まで費やしたり、オンライン・ネットゲームに熱中したり(ネトゲが本尊)。ガチャによる重課金が社会問題として扱われた。かつて無かったようなライフスタイルが新たに出現してきた。

一方で会社人間(会社が本尊)もまだまだ多い。近年では、ブラック企業と呼ばれる悪質な企業が、労働者の『やりがい搾取』してこき使う問題も指摘されている。

或いは趣味や習い事を何よりも優先させる人も多い。旨い物を食べ歩くのが好きで週末になると必ず有名店を巡る人もいる。地域の祭りが一年間の中心として生活する人達がいる。岸和田のだんじりや諏訪の御柱祭など(祭りが本尊)

ギャンブル(ギャンブルが本尊)、パチンコや競馬に人生を費やす、アルコール中毒(酒が本尊)、麻薬(麻薬の快楽が本尊)、

現代では、拝金主義が圧倒的に多い。「金さえあれば」資本が根源である。

日本会議のように国家主義・天皇を本尊とする信奉者も多い。

己の理性を本尊とする人もいる。

(日本では)戦前から共産主義を本尊にした人も多かった。現在もいる。

その国・社会・時代における大衆心理。(戦時中の日本の風潮)。そのような思想・風潮に人は無意識のうちに支配されているものだ。マスメディアが作り出す。戦時中はお国の為に、天皇の為に奉仕することが美徳とされていた(本尊)。

人間は必ず何かを本尊とする。その本尊によって影響を受ける。その本尊の思想レベルが低いか高いかの違いだ。高い思想レベルの本尊を持たなければ次元の低い本尊を受け入れる。具体的にいうと、何の哲学も無い一般人は拝金主義の風潮に陥りやすいのが現実だ。だからこそ高い次元の本尊を根本としなくてはならない。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


創価は中国に対し布教活動を一切していない。加えて、中国政府による人権弾圧・宗教弾圧に対しても抗議の声明を一切出していない。

創価バリ活の人達に聞くと「それはきっと意味のある事なんだよ。今はわからなくても将来わかる時が来る。」
「池田先生は、50年後100年後を見据えて手を打って下さっている」
という答えが返ってくる。

あの鯛焼き支部長も「(執行部は)布石は着実に打っている印象を持ってます」と誇らしげに言っている。

もちろん、何の根拠もない。ただ信じているだけである。

「中国との折衝という壮大なテーマは、本部の方々、池田先生に近い方々が、間違いのない方法で進めてくださっている。着実に中国は平和への道を進んでいるし、将来の広宣流布の布石は打って下さっている。我々は彼等を信じておまかせして、自分たちの地域のことに集中すべきだ。」バリ活の人達は、このような思考回路なのである。

そんな夢物語を妄信してる間にも、現実には中国共産党によって、ウィグル人やチベット人の方々は『強制更生施設』に送られて『再教育』という拷問に等しい苦役を強いられている。創価の活動家は、この事実を完全スルー状態なのである。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

かつて「静かに創価学会を去るために」の記事にて鯛焼き氏の経緯に触れた事がある。今回はこの鯛焼き氏が立ち上げたブログ『シニフィエさんとの対話』(このブログタイトルに関して、シニフィエ氏側は勝手に名前を使わないで欲しいとの苦言を呈している)の内容に触れてみたい。

支部長としては

長年第一線の活動家として頑張ってきた、創価の現役の支部長である。創価組織を守ろうという気持ち(=使命感)は誰よりも強い。支部長としては、部員さんから見れば頼れる存在なのだろう。地元の地域の人達とも折り合いは上手くつけていると思われる。

組織人間の典型

『ものを考えない人』よりも性質が悪いのは『創価組織が絶対に正しい』という発想で論理を構築する人である。この鯛焼き氏こそ組織第一・組織人間の典型であろう。アンチからは『創価脳』と酷評されている。長年の創価組織での薫陶によって形成された思考である。

以下、特徴的な要素を挙げてみる

本尊論

年末年始にかけて、ダメ出し氏と本尊論の応酬が続いていたようだが、鯛焼き氏の本尊論は傍から見ていても余りにも苦しい。

彼の主張によれば、御本尊の相貌があれば全てが『本門の本尊』として認定できるという。創価オリジナルでも、手書きでもOKとの事。あまつさえ排泄物にさえ文字を印字すれば、それも(理論的には)本門の本尊になるという。そして、それを祈る人間の気持ち次第で『(鯛焼き流)三大秘法』が成立するかどうかで、OKかどうか決めるという。普通は排泄物の本尊に対して拝む気持ちになれないので成立しないと力説しているが、逆にいえば、排泄物に印字された本尊でも疑う事無く厚く信仰する人がいれば成立する、という珍説である。

更に、鯛焼き氏は後付けで『自行化他』という条件を付随させてきた。これは最初に発表した『創価学会の本尊の件』記事には無かった要素である。今までは本人の気持ちだけだったが、それに加えて他者も納得できる相貌が必要条件とのこと。(おそらく反論されて困ったので後付けしたのだろう)

創価のカラーコピー(一部改竄)本尊はOKだが、個人がカラーコピーした本尊はNGだという。創価の手書き本尊はOKだが、個人の手書き本尊はNGとのことだ。それは個人の場合は『(鯛焼き流)三大秘法』が成立しないという理由である。要するに拝む側の気持ち次第だというのだ。自分と他者が納得できればOKで、納得できなければNGとのこと。

要するに、創価組織のカラーコピー(一部改竄)本尊のみがOKで、他の組織や個人はNGだと言いたいだけなのだ。おそらくは「顕正会の御本尊もNGです。なぜなら創価に許可なく勝手に本尊を複製すると和合層を破る事になるから」と主張するのだろう。どこまでも「創価のやることが常に正しい」という前提の説である。

とうとう鯛焼き氏は、更に後付けで「前提として『正しい和合僧団』に属することが必須」だと言い出した。これが何を意味するのか明らかである。正しい和合集団とは創価の事であり、宗門や顕正会・その他は、全て正しくないということだ。つまり創価の会員以外が御本尊を拝んでも『(鯛焼き流)三大秘法』が成立しないからNGだと言っているのだ。

この鯛焼き流の本尊論を読んで納得できる人は皆無と思われる。何故にこれほど酷い説が出てくるのか。それは『創価組織のやっていることが正しい』という絶対条件から発想をスタートしているからだ。どれだけ矛盾があろうとそれを正当なものとして肯定しなければならない。その為には、あのようなオカシな解釈をせざるを得ない。当然、穴だらけの理屈になってしまうので、その都度、何とか辻褄を合わせようと補完解釈を付け加えることになる。結果、ますますオカシなものになる。

過去の『永遠の師匠』の発言との相違

戸田会長や池田名誉会長による大御本尊などの関連についての発言と、現在の創価執行部による教義の相違に関して。鯛焼き氏が曰く「それは宗門との関係が切れる前の発言だから」「現在は謗法の巣窟になっているから」と宗門との対外関係の悪化が原因との説明をしている。

しかし冷静に考えて欲しい。本尊とは教団の根本教義ではないか。その教義が対外関係の変化によってコロコロと変わって良いのだろうか。そうなると、何十年か先に宗門と関係が改善した時には同じように本尊を変更するのだろうか。まるでカメレオンのような本尊論である。

組織の具体的な活動内容は、時代の変化や、外部組織との対外関係の変化によって都度変更があっても仕方が無いだろう。しかし根本の教義だけは変更してはならない。



中国への認識

かつてシニフィエ氏との対話の中で、海外布教・特に中国布教に関して言及していた。「国内としては会員数は減少しているが、今後は海外布教で補うのを期待している」「これからの世界広布のカギは中国だと思ってます。北朝鮮とかイスラム圏でも将来的には布教可能になって増えるとは思いますが、まずは13億を有する中国でしょうね。中国で布教可能になれば一気に世界広布は進みます」「(執行部は)布石は着実に打っている印象を持ってます」という趣旨の発言をしていた。

なるほど人口13億の巨大国家のポテンシャルに魅力を感じ夢を抱く気持ちはわからないでもない。だが、ちょっと待って欲しい。創価は中国とのパイプを50年近く前から築いてきた。しかし現状はただの一人の会員も誕生していない。この数十年で中国布教は一歩も進んでいないのだ。

そもそも中国は当局の統制下に置けない自由な信仰は絶対に許さない。管理下に置けない組織的な活動を警戒しているからだ。法輪功や地下教会における苛烈なまでの弾圧を知らないのだろうか。中国に人権という言葉は実質的には無い。集会・結社の自由も現実的には無い。こんな国でどうやって布教を進めるというのだろうか、教えて欲しいものだ。

そんな架空の世界を語るよりも、現実に中国で起こっているチベット民族や新疆ウイグル自治区の方々への人権弾圧(もはやそれすら生ぬるい表現かもしれない。大虐殺と呼ぶべきか)を直視すべきだろう。これらの記事(記事1記事2記事3)を読めばどれほど苛烈な仕打ちか想像できるだろう。そして現役の支部長ならば、中国に対して毅然とした抗議のメッセージを発信するように創価中央組織に強く訴えるべきだろう。

池田名誉会長は中国の公的機関から様々な名誉称号を授与されているのだから、虐げられている中国人の生命と尊厳と人権を守る為に、発言するのは当然の責務ではないだろうか。(これは以前の記事・創価の中国人権弾圧への黙認でも指摘させて貰った)

(チベット民族やウィグル民族の信教の自由と人権を守るために、創価が毅然とした態度を示すことで中国に変化を促す。それにより中国における信教の自由が実質認められるようになる。よって将来的に創価の布教につながる。という論法ならば、これならば一応の理解はできるのだが)

常連のTS氏

なお、当該ブログには常連にTS(鯛焼きサポーターの略)氏という興味深い人がいる。彼はいわゆる『バリ活』では無く、言うなれば『ゆる活』という活動スタイルをとっている。彼は鯛焼き氏のような「創価が絶対に正しい」という組織人間ではなく、創価の現状の問題点もズバズバ指摘できる人である。特に選挙支援活動や数字ノルマに追われる活動内容に警鐘を鳴らしている。今の創価組織には珍しいタイプのメンバーである。

このTS氏と鯛焼き氏は、対アンチ(対シニフィエ)という点では考えが一致しているが、創価の活動方針にテーマが移ると意見が割れることが多い。コメント欄でTS氏が鋭い指摘をするのだが、鯛焼き氏は巧みに論点をずらして流そうとしている。TS氏も創価会員なので同族意識もあり、また他人のブログでもあるので、それ以上は追及するのには遠慮している。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

創価は、過去の池田名誉会長との対談相手の存在を無かったことにしたり、人間革命の改訂で見逃せない改変を行い続けている。

(以前の記事でも指摘したが)
人間革命の改変
『都合の悪い』対談相手の扱い

オーウェルの『1984年』で、主人公のウィンストン・スミスの仕事は歴史の改変である。党にとって都合の悪い事態になった場合、数字を変えたり、初めから無かったことにして辻褄を合わせる。

旧ソ連に於いては、スターリンの政敵となった人は歴史から抹消された。トロツキー等々。全国の図書館に対して当該人物の記述を抹消するように指示が出されたという。こうして「トロツキーって誰だっけ?」と人々の記憶から消されていった。


池田名誉会長は歴史に関して、著書『人生の座標』でこう語っている。
正しい歴史を残すことが、人類の平和と幸福の道を残すことになるのです。歴史は、歪めたりしてはいけない。歴史を"つくって"しまっては小説になってしまう。悪いことを隠し、格好のよいことだけを残しては、歴史書ではなく虚飾書になってしまう。歴史は客観的に正確に書き、証拠・証人を大事にしなければならない。

後世の為にも、有りの侭の正しい歴史を残さねばならない。


袂を分かった原島嵩氏や福島源次郎氏や石田次男氏などの評価も、単なる『反逆者』としてレッテルを張るのではなく、丁寧に調査し見直す必要があると感じる。そうして総合的に評価し直す必要があるのではないだろうか。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

アンチ創価の筆頭である「(旧)静かに創価学会を去るために」の管理人シニフィエ氏は「創価は10年後、20年後に壊滅寸前にまで衰退するでしょう」と豪語する。また別の記事では「創価は、ある日突然「解散します」で終わるんじゃないでしょうか」などと嘯いている。

本当にそうなのだろうか。

結論から言えば、壊滅など有り得ない。アンチのバイアスによって極端な視野しか持たない人物も哀れである。

創価の地盤はブロックであり地区である。どれほど強固な組織か知らないのだろうか。『永遠の指導者』が8年も9年も表に出なくなっても、教義の根幹が変わろうとも、人間革命がどれだけ改定を加えられようとも、政治の路線が変わろうとも、池田平和思想に反する安保法案に賛成しても、そんなことで揺らぐことは決してない。(以前、記事で指摘したが地区のメンバー同士が疑似家族的な密な関係になっている)

今の年配の人達が卒業して次の世代になれば会員数は大きく減るだろう。それによって国政への政治参加は維持できなくなるだろう。だが創価組織によって純粋培養された人達も依然として多く残る。

顕正会は勢いを増している。宗門も一定数は存在する。他宗教を参考にしても、立正佼成会・天理教など緩やかな衰退傾向であるが一定の勢力は維持されている。

池田思想(池田哲学)というのは綺麗な言葉が並んでおり一般受けが良い。海外のメンバーにも好評とのことだ。池田名誉会長は「平和の為に、世界中を回って各国の指導者たちと対話を積み重ねて、実践し続けてきた」という作られたイメージがある。創価は対話を重視して、宗教や国の体制が違うからといって対話を放棄しないというイメージがある。

現代は思想が混迷を極めている。トランプ大統領の登場あたりから特に顕著だ。分断と憎悪の連鎖。人種による差別。移民の徹底排斥。だが心を痛めている人達も多い。そのような人達には創価は綺麗なイメージとして映るのではないだろうか。

特に日本に於いては、親が創価だからという理由で子供の頃から創価教育によって純粋培養された人達が一定数『再生産』されている。(これは創価だけではないが)。やはり若いころからの刷り込み教育が一番効果が大きいと思われる。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
 この段階でコメント頂いても削除致します)

池田名誉会長のスピーチや対談、創価の新聞やメディア等々のプロパガンダから、創価の運動は民衆を賢くする運動だったはずだ。

池田名誉会長は「民衆が無知ではいけない、騙されてはいけない」と警告した。「創価の運動は大衆を賢くする運動である」と

過去の様々な政治体制を例に。ナチスやスターリン統治下の民衆。プロパガンダ教育により民衆は信じ込まされた。故に不幸になった。無知ゆえに不幸になる。その指摘は正しい。

かつて池田名誉会長は「政治家が偉い、学者が偉い、科学者が偉い、民衆は無知で従うしかない。私はこういう顛倒した世の中を変えたいのです。それが創価の運動なのです」と訴えた。創価の運動に邁進すれば民衆は賢くなるらしい。

ところが創価の活動家達は賢くなったのだろうか。選挙の候補者の票だけお願いにいって、当選した後は全部お任せ。政治の監視など一切しない。ただ上部組織から降りてくる打ち出しをこなすだけの日々。数字に追われる日々。その運動の先に何があるのかを考えることすらしない。検証もしない。

一つの戦いが終われば、直ぐに次の戦いの打ち出し目標が降りてくる。次から次へと。会員達にはこれまでの活動を落ち着いて整理し評価する時間を与えられない。

たまに聖教新聞の記事でSGIのメンバー達がイベントを開催した特集を見て「世界広布は着実に進んでいるんだ!」と実感するのである。(ただしSGIの国別の正確な実数は公表すらされていないのだが、つまり会員が増加してるか減少してるかすら定かではない)

結果として、賢くなるどころか、大量の『ものを考えない人』を生み出してしまった。

(以前に、ものを考えない人ノルマに追われる創価の活動家反対意見を許容しない構図本部組織に従順になる構図で指摘させて貰った)

そもそもピラミッド型の組織運営に問題があったのだろうか。

共産主義体制は前衛と後衛、指導者層とそれに従う労働者層とに分かれる。「純粋だがものを考えられない素朴な労働者層」のために指導者層が導いてあげるという前提である。上位の指導部に絶対的な信頼を置く。指導部が間違っているなど有り得ない。ところがどうだ。現実の共産主義の指導者層は腐敗し、近視眼で長期的なビジョンもなく、数々の計画は大失敗し、民衆を塗炭の苦しみに落とした。「お任せ」した結果がこれである。

その非に気付いて、それに異議を唱え警鐘を行った人はどうなったか。指導者層の腐敗や、歪みや、不都合な現実を指摘したジャーナリスト、市民、その人達はどうなったか。国に混乱を招いた反逆者としてレッテルを張られ。悉く弾圧され処刑され消されていったのだ。

「今の指導部は間違っている」「改善が必要だ。」ピラミッド型の上意下達の組織に於いて、このような声は言論は必ず封殺される。

このような組織統治の下では、下からの改善など実質不可能である。組織が間違った方向に進んでも、それを是正することは出来ない。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村


↑このページのトップヘ