創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2018年10月

他記事のコメント欄にて『気楽に~』の渡辺氏の情報を頂いた。



(追記:当該動画は2019年2月下旬頃に削除された模様)

早速見てみたが、感想は・・・絶句である。

このやりとりの中で、彼の人間性の本質が全て出ている。

特に動画の21分あたりを見てみると、まるでキャバクラでの客とキャバ嬢の会話が展開されている。よくもまぁこのような品の無い会話が出来るものだ。しかも自分から卑猥な発言をして相手の女性を下ネタに誘導しているのである。(具体的な発言内容を書くのは、余りにも卑猥過ぎる為に控える。直接動画を閲覧して頂きたい)誰がどう見ても、下心丸出しのスケベなオッサンそのものだ。このような下ネタ満載の会話で、はしゃいで興奮している渡辺氏には心底軽蔑する。

彼は常に、創価バリ活や法華講員の人達に対して「屹立した信仰者たれ!」と『覚醒』を呼びかけていた。これが彼が説く『屹立した信仰者』の振る舞いなのだろうか。なんと御立派な姿なのだろうか。

何の為に宗教があり、信仰をするのか。その目的の一つは、人間性を磨くことである。

彼の過去の言動をまとめてみると、創価ネタで散々遊んだり、伊勢神宮に参詣したり、挙句の果てには、女性に対して下心丸出しの卑猥な発言を連発しているのだ。日頃から仏教に関して御自慢の『我見解釈』を披露しているが、仏教から一体何を学びとったというのだろうか、そもそも何の為に仏教を学んでいるのだろうか。単なる知識欲を満たす為としか考えられない。


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(まだ思索メモ段階の為、当該記事へのコメントは御遠慮ください。
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先日、沖縄県知事選挙が実施された。数人の立候補者がいたが、自民・公明が推薦する佐喜真候補と、オール沖縄として推薦する玉城デニー候補との一騎打ちであった。この佐喜真候補とは日本会議のメンバーであったとされる。辺野古移設に関しては明確に反対せず、実質的に容認の立場であった。

公明党は前回の名護市長選挙に続いて、またもや自民推薦候補を推薦する戦略に出た。

沖縄のことは言うまでも無く沖縄県民が決めることだ。本土が押し付けるべきではない。その結果を尊重すべきだろう。

一歩踏み込んで考えてみたい。沖縄県民の多数が「米軍基地は必要ない」と結論を出したならば、それがない状態での防衛体制を構築すべきだろう。その場合、自衛隊の大幅増強・再配備も必要になって来るだろう。防衛費の負担も増えることになる。しかし、それをいつまでも誤魔化し続けるのは卑怯ではないか。自分の国を自分達で守るという事を真剣に考える時に来ている。

組織あげての大量動員

今回の沖縄県知事選挙では創価組織が大量の動員をかけたという。 
公明の支持母体である創価学会は県内に数千人規模とされる大勢の人員を投入。選挙期間中3度沖縄入りした小泉進次郎氏の街頭演説会のうち2回で支持者を大勢動員した。県外からも電話作戦で佐喜真氏への投票を促すなど総力戦を展開した。
(記事ソース)
前回の知事選では公明党は”自主投票”でしたが今回は新基地賛成の候補を全国動員で応援している。我が家にも関西から幹部がきて、”オール沖縄は共産党。デニーでは経済発展ができない”とデマ宣伝を繰り返している。
(記事ソース)

実質的には、辺野古に新基地建設を容認している佐喜真候補を推薦し、組織あげて大量動員して応援する。創価・公明党がやっていることは押し付け以外なにものでもない。

動員された会員は沖縄に乗り込み、佐喜真候補へのお願いに回ったり、候補者の演説が盛況のように見せる数合わせの為に聴衆に加わる。それが池田名誉会長への報恩感謝に直結するとばかりに頑張るのだ。彼等は沖縄県民がどれほど米軍基地に苦しめられてきたか、基地の無い状態を願っているのか、その気持ちなど考えもしない。組織の言う通り何も考えずに動くだけだ。そしてこんなものを法戦と称し日蓮仏法の実践法だと主張する創価組織のやり方には心底呆れる。

今回、玉城デニー候補の陣営で創価会員の三色旗が目立ったが、あの方々の気持ちもわかる。沖縄県民の心を踏みにじる行為を許せなかったのだろう。たとえ組織に睨まれようが移設反対の意志を示さねばならないという止むに止まれぬ行動だったのだろう。


(以降、時間をかけて記事を書き上げていく予定、まだまだ一部)



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現世のみに限定すれば、生命は公平とは言えないだろう。

生まれながらに重い病を抱え、長く生きることが出来ずに死んでいく赤ちゃんが存在するのだ。この現実を避けては通れない。

例えば、先天性の重度の心疾患を抱えて生れてくる場合など。現代の医学では助けようが無い。助かる可能性はゼロである。

この赤ちゃんは生まれてすぐに死亡してしまったのだ。一方で病気一つせずにすくすくと育っている大勢の赤ちゃんがいる。現世のみで見れば、こんな不公平なことはないだろう。

キリスト教などの一神教の信徒は「この赤ちゃんの死にも意味があるのです。神様がお決めになった事には全て意味があるのです」「赤ちゃんの魂は神様の元に召されて幸せに過ごすでしょう」と答えるのだろう。しかし、このような不条理には到底納得ができない。一神教は本質的に不公平を是認しているのである。それを尤もらしい理由を付けてるに過ぎない。

一方、これをイプシロン氏のような無神論者は「運が悪かった」で済ますつもりだろうが、そんな詭弁は最早通用しない。

生命が公平である為には。やはり三世の生命というものが確かに存在する。この赤ん坊は過去世の悪業により現世の果となった。そのことを避けては通れないだろう。

法華経の薬草品・サンスクリット原典(鳩摩羅什訳には無い)に「この人の過去世の悪い行い(悪業)によって病気が生じたのである」と明記されている。



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大聖人の御遊学に関して考察を続けている。

まずは御遊学を経済的・社会的に支えていたのは何であったのだろうか。第一に考えられるのが清澄寺であろう。当時の清澄寺は北条家の庇護下にあり、経済的にも裕福であった。遊学の費用をバックアップする余裕もあっただろう。清澄寺としても、優れた学僧を排出し保持することは寺院の箔をつける意味でも重要であっただろう。

次に領家の尼という存在。御書を拝すると領家の尼に対する記述がみられる。様々な支援をしていたと推察できる。


・16歳から立宗宣言の32歳までの間、御遊学の期間が16年という長い間であるが、

鎌倉遊学後には『戒体即身成仏義』を著述されている。21歳の時点での著述とされている。この中で、法然の浄土宗・念仏は無間地獄であると明確に破折されている。だが、清澄寺が天台密教が主流であった為か、慈覚・智証の法華・真言『理同事勝』の教学を受け継ぎ、第四段の真言の密教戒を最高位として位置付けられている。

この後、比叡山を始め各所に御遊学されることにより、『理同事勝』は誤りであり、法華経が最勝であることを覚られたと思われる。なお、30歳で京都にて、『五輪九字明秘密義釈』を書写されているが、これは東密の内容であり、(いずれ来るであろう台密・東密に対する破折)比較検討用の御研鑽の為に書写されたと思われる。

畿内御遊学の間は、様々な階層(公家や他宗の僧侶など)の相手と交流を深めたと推察される。文での交流もあっただろう。しかし現存する資料は残っていない。だからといって大聖人の彼等との交流がなかったと断定するのはナンセンスである。

また、大聖人は非常に裁判に精通されていた。領家の尼に対する力添え。訴訟事務に関してのエキスパートであるはずの富木常忍に指示するほどの知識を持たれていた。京畿の御遊学中に御成敗式目・裁判資料などの御研鑽を深められたと考えられる。

大聖人は比叡山にて、学頭南光坊俊範に師事され12年間の修行をされた。この御遊学の中で、比叡山延暦寺を『理想の戒壇のモデル』であり『理想の修行の場』との認識を強く持たれたのだろう。

32歳の立宗宣言までには、法華経の為に不惜身命の覚悟を決められたと推察される。「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに」内面の精神の格闘は壮絶なものであっただろう。



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創価は毎年の行事に必ず『財務』という寄付を募る。寄付を行う会員を『広布部員』と命名している。この財務こそ創価の巨大な力の源泉である。

表向きは「広布基金は真心なので自由です」といいながら、年後半になってくると財務を推進する打ち出しがある。広布部員の会合もある。役職を持つ活動家はこれを推進せねばならない。

「財務をやりきれば福運がつく」だの、「自分の境涯の限界まで財務を頑張りましょう」。貯蓄の余裕すらなくなっても。「足りないときに宇宙銀行から自在に引き出せる境涯になります」などという指導もあるようだ。しかし、その根拠はどこにあるのだろう。そんな曖昧なものをアテにして生活していけというのだろうか。


「御聖訓に学ぶ御供養の精神」という記事に次のように記載されている。
法華経の行者に供養する功徳は、妙法を弘める人の功徳に等しく、広宣流布が拡大すればするほど、計り知れないほどの多くの功徳が、供養をした人に集まってくるのです。
ここで、「法華経の題目を弘められている人」とは、今日においては、現実の上で大聖人の御遺命である広宣流布を進めている創価学会をおいて、ほかにはありません。
(聖教新聞 2018年11月6日)
御書から『ご供養の精神』を強調して、財務の正当性をアピールしている。しかし当時の檀徒達は大聖人に対して真心の供養をしたのである。教団に対する布施ではない。一方、財務はあくまで創価という組織に対する寄付である。「法華経の行者に対する供養」を「教団への寄付」に勝手にすり替えているのである。そこに日蓮仏法の裏付けなど微塵もない。



そもそも、この財務は戸田会長の時に開始された。財務に参加できる会員も限定されていた。信心強固として認められ金銭的に余裕のある人のみが財務部員になれた。いわば特別な扱いであったのだ。これが財務の原点であった。

そして、その方針は次の会長の代でも貫かれていた。

池田名誉会長はかつてこのような発言をしている
邪教などは、みんなうまい事を言って、金を巻き上げ、教祖のために、教団の勢力のために、それも本当に人々を救えるならば許せるけれども、全部が地獄に落ち、民衆が教祖にだまされ、そして教祖は立派な家ばかりつくり、民衆は最後には乞食みたいになってしまう。これが、邪宗教の姿です。創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはいたしません。
(聖教新聞 1962年(昭和37年)6月16日)
この方針を貫いていれば、財務というイベントは残っていないはずだ。ところが、今や毎年恒例の行事になっているではないか。しかも会員全員が参加になっている。では、一体この発言は何だったのだ。


原点である法華経を拝すると

創価の財務は、法華経に説かれている内容を正しく継承しているのだろうか。原点である法華経の精神を確認したい。
 阿逸多、若し我が滅後に、是の経典を聞いて能く受持し、若しは自ら書き若しは人をして書かしむることあらんは、則ち為れ僧坊を起立し赤栴檀を以て諸の殿堂を作ること三十有二、高さ八多羅樹、高広厳好にして、百千の比丘其の中に於て止み、園林・浴池・経行・禅窟・衣服・飲食・牀褥・湯薬・一切の楽具其の中に充満せん。是の如き僧坊・堂閣若干百千万億にして其の数無量なる、此れを以て現前に我及び比丘僧に供養するなり。是の故に我説く、如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人の為に説き、若しは自らも書き若しは人をしても書かしめ、経巻を供養することあらんは、復塔寺を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須いず。
このように法華経では、自行化他に励む人には、遺骨を納める塔(ストゥパ)を建てたり、僧坊を作ったり、僧団への供養をしたりする必要はないと明確に説かれている。その理由は、この行者が法華経を受持・読誦するならば、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからであると述べられている。法華経の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としない。

これが法華経の精神なのである。創価が、毎年の財務を「これに勝る大善はない」などと『信仰の柱』のように指導しているのが大きな誤りであることが明白である。

教団への布施に執着する様を見ていると、法華経の精神よりも小乗仏教の教団運営の姿勢を継承しているのではないだろうか。


真心が大事だと言うのならば

広布部員などと命名する必要すらない。組織をあげて大々的にやる必要などない。ボランティア的なスタイルで自主性に任せれば良いのだ。組織(教団)に対して寄付をしても良いと思う人だけが自発的にやればいい。




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