法華経の如来神力品は結要付嘱と呼ばれている。釈尊が法華経の肝要をまとめて、それを付嘱するという極めて重要な品である。では一体、誰に付嘱したのか。意地の悪い輩は「上行菩薩だけに付嘱したという記述箇所は存在しない」などと難癖をつけてくる。そのようなものに惑わされない為にも、サンスクリット原典から正確に読み取る必要があるだろう。

以前の記事でも指摘したが、岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、テキストとして用いるのは疑問である。従って植木訳を参考に検討する。

すると、その時、世尊は、先ほどの[大地の裂け目から出現した菩薩の]群衆を従え、 大群衆を率いた群衆の師である それらの[四人]の偉大な人である菩薩達のうち、群衆を従え、大群衆を率いた群衆の師であり、 偉大な人である菩薩の ”卓越した善行をなすもの”(上行)という名前の一人の指導者に向かって仰られた。

”卓越した善行をなすもの”(上行)よ、素晴らしい事である。素晴らしい事である。 この法門のために、あなた達は、そのようになすがよい。 如来は、[既に]あなた達を完成させられているのである。
ここで
如来は[既に]あなた達を完成させられているのである
という文言に着目すると、
「如来(直々の化導)によって完成させられている菩薩」ということは、

従地涌出品にて
今、大地の裂け目から出現したところの[菩薩]たち、アジタよ、これらのすべての偉大な人である菩薩たちは、[私が]このサハー(娑婆)世界において、この上なく正しく完全な覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を完全に覚って後、私がこの上なく正しく完全な覚りに向けて鼓舞し、励まし、喜ばせ、成熟させたものたちである。

また、この菩薩のための法において、私はこれらの良家の息子たちを成熟させ、確立させ、導き入れ、確定させ、悟入させ、完全に覚らせ、完全に清らかにしたのである。
とある通り、これは釈尊が自ら、遥か久遠の昔から教化してきた菩薩、つまり地涌の菩薩達のことを指すのは自明の理であろう。

当然ながら、ここには迹化の菩薩や他土(他方)の菩薩は含まれていない。これらの菩薩達は「既に完成させられている」存在では無いからだ。

従って、その対象は、上行菩薩、及び、率いている無数の地涌の菩薩達ということになる。更に「あなた達は」と複数形で呼びかけているので、(上行菩薩と、率いている)地涌の菩薩達が付嘱の対象になると解釈するのが妥当である。


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