創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2018年08月

時々ニュースで子供の虐待の事件が報じられることがある。平和なこの日本でも、子供の虐待が潜在的に存在していることを実感させる。

虐待の具体例

例えば、小さな女の子が、両親によって日常的に虐待されているケースを考えてみたい。

児童相談所も軽視して見逃してしまう。近所の人も気付いてくれない。誰も助けてくれない。

次第に両親の虐待はエスカレートし、暴行の度合いも激しくなる。殴る蹴る、常に体にアザが残る。肉体的な暴力だけではなく言葉の暴力も加わる。「おまえなんて生きていてもしょうがない子なのよ!」と存在すら否定する。小さな女の子にとってどれほどのショックを受けただろうか。どれほど深い絶望に陥ったのだろうか。この子は自分が悪いと思い込みノートに反省文を書く「もっと良い子になるから、お願い許して」と・・・。

食事も制限され、一日一食、いや与えられない日すら出てくる。体重は激減し、見るからに痩せていく。やがて、もう食事もとれない程衰弱してしまう。そしてついに暴行に耐えられずに、ぐったりした姿になり倒れてしまう。そこで慌てて病院に緊急搬送するが、手遅れで助からず死んでしまう。

何の罪も無い天使のような子供が、このような残虐な目に遭う。

生命が今世限りならば

もしも生命が今世限りならば、一体この子の人生とは何だったのだ?

家庭での温かい触れ合いの記憶もなく、友達と楽しく遊んだ思い出も作れず、恋も、青春も謳歌できず、社会に出て自分の能力も活かせず、この世において何も為せず、ただ虐待されるだけの地獄のような日々。それに怯えるだけの日々を送る。両親からの度重なる暴行は極限までエスカレートし、ある日突然に人生を強制終了させられたのだ。

この子は、頑張って自力で現状を打開することは不可能だったのだ。(避けられぬ不幸・避けられぬ死)

これをイプシロン氏のような無神論者は、ただ単に「可哀想だが、運が悪かった」で済ますのだろうか。彼等は都合の悪いことは一切答えない。普段から偉そうに講釈を並べているが、彼等の主張などいざという時には何の価値もないのは明白である。

生きている間は地獄の日々ばかりで、そして、この子の死後は無になるとでも言うのだろうか。その一方で、裕福な家に生まれ、何不自由なく恵まれた環境で、愛情をたっぷりと注がれて育てられている子供がいる。その子との違いを「単なる運」で済ますのだろうか。それでは余りにも不公平すぎるだろう。

仏法の眼から見れば

仏法の眼から見れば、この女の子は、過去世に因となる悪業を犯した。それが今世に果となり現れた。この子の悪業は精算され、次に生まれたら、そのような酷い目に遭わされることが無く、幸せな子供時代を送ることが出来るようになる。そう捉えるのが一番公平ではないだろうか。

加えて、この虐待を続けた親は悪業を積み、次の生で必ず報いを受けなければならない。己の犯した罪を因として、次生で虐待される側となり大いに苦しむ果となる。そうでなければ生命は公平とは言えまい。



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随分と前から法華経の安楽行品に関して思索を続けている。この安楽行品の解釈、或いはこの品自体に関しての疑問がどうしても解決しないのである。様々な角度から検証しているが、考えがまとまらず自分の中で消化しきれていない。

安楽行品の概要

安楽行品の内容は、この章の冒頭で、文殊師利菩薩が釈尊に対して「世尊滅後の悪世に於いて、菩薩達はこの法門をどのようにして説き明かすべきでしょうか」との問いを発する。それに対しての釈尊の回答が、『四つの在り方(四法)』いわゆる身・口・意・誓願の『四安楽行』と呼ばれる修行法である。当品はこの四安楽行を中心に説かれている。

身安楽行の「適切な交際範囲」とは

第一の法(『身安楽行』)が説かれている内容で、これには『行処』という菩薩が善い行いをする為にどのように振る舞うべきかという具体的な訓戒が説かれている部分と、もう一つは『親近処』という菩薩にとっての適切な交際範囲が説かれている。

この親近処について、対象として(社会で蔑まれている)旃陀羅、豚肉を売るもの、鶏肉を売るもの、猟師、屠殺者、役者と舞踊家、棒術家、力士達に近づくべきではない、親しくなるべきではない、と説かれている。このように、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して避けるように警告しているのだ。

ここで「近づいて親しくなってはいけない」というのは「一切相手にするな」ということではなく、自分から個人的に近づいてはならない、という意味合いのようだ。教えを説くなとは言っておらず、誰でも法を求めてやってくる人には、分け隔てなく教えを説きなさい。というのが法華経の精神である。

そうであっても、法華経の経典に、わざわざ個別の職業とカーストの身分層を指定して記述することには強い違和感を覚える。経典にこのような記述があれば、誰も近づこうとしないだろう。避けるようになるのが自然だろう。

法華経は一切衆生に仏性を認めており、本来そこには人種や職業やカーストによる差別などないはずだ。社会に於いて一番下層で蔑まれている人でも、ブッダになれると説かれている。しかしながら、上記の旃陀羅や個別の職業に関する記述がある事によって、法華経の平等の精神を誤解させてしまう可能性があるのではないか。

法華経とは関係なく独立したものか?

この安楽行品に関して、仏教学者の植木氏は著書の中で、
この安楽行品は、いろいろ検討してみると、法華経とは関係なく独立して作られたものと考えるしかない。一般社会から非難されないように、修行の戒律をまとめたもの、という性格が強い。安楽行品には、律の規則と同様、世間的を気にする教団の論理が見え見えなのです。」
という見解を示している。当時、この品を編纂した人達は修行僧達で、彼らが所属していた教団の戒律要素を次々に入れたという見解なのだ。そもそもこの品自体が法華経成立とは別に作られたものだと結論付けている。

その根拠の一つとして、この前品である勧持品からの流れの違和感にも触れている。前後のつながりがおかしいとの指摘だ。

勧持品から安楽行品のつながり

ここで法華経のストーリーを確認してみると、勧持品では、出家者達が最も厳しい娑婆世界を避けた上で「釈尊滅後に、娑婆世界以外で布教します」と誓願する。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して一段の覚悟を促す。その視線に気付いた菩薩達は獅子吼で応えて、最後の偈において不惜身命の覚悟で滅後の布教を誓う。彼らは、ありとあらゆる(三類の)増上慢の輩たち(国王・大臣・婆羅門・居士・及び余の比丘衆)からの種々の迫害(数数見擯出、罵詈毀辱、刀杖を加うる)を予期しており覚悟を決めている。このように菩薩達の決意が最高潮に達した所で勧持品は終了する。

ところが、その次の安楽行品になると「釈尊滅後の悪世に於いてこの法門をどのように説き明かすべきか」という問いに対して、釈尊の回答が四安楽行なのである。その中の身安楽行では自ら交際範囲を制限するように警告している。どうも前品に比べて一気にトーンダウンしたように感じてしまう。

更に、第二の法(口安楽行)では、打撃を受けることもなく、非難の言葉を受けることもない、追放される(擯出)こともない、つまり迫害されることが無いことが説かれている。加えて、第四の法(誓願安楽行)を具えた菩薩は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・国王・王子・大臣・人民・婆羅門・居士たちによって、称賛され、尊重され、尊敬され、供養されるとある。これらの箇所には勧持品とは全く逆のことが説かれているのだ。

このように見てみると、確かに勧持品と安楽行品とのつながりには違和感を覚える。

勧持品から従地涌出品の方が

ストーリーの流れを考えれば、勧持品の次は従地涌出品に進んだ方が自然に思える。勧持品の中で、釈尊滅後の娑婆世界に於ける布教がどれほど困難であるか最大限に強調された。それを担う本命中の本命(上行菩薩が率いる)地涌の菩薩がいよいよ登場する。

安楽行品の価値は

ただし、『四安楽行』自体は極めて真っ当な内容であり、仏法者として重要な姿勢が説かれている。これらが間違っているとは思わない。法華経の精神に反するものではない。更に『髻中明珠の喩え』の段では法華経最勝が説かれている記述がある。これは極めて重要な箇所である。従って、当該品が全て「法華経とは関係なく独立して作られた」ものとは思えない。

私が違和感を覚えているのは、上記の通り「適切な交際範囲」での個別職業と特定カースト層の記述部分と、当該品が配置されている順番である。順番に関しては、この安楽行品は勧持品の前に置くべきだった。

正宗分で重要な品なのに

仮に、観世音菩薩普門品・妙音菩薩品・普賢菩薩勧発品・妙荘厳王本事品・陀羅尼品・薬王菩薩本事品の6品が、後世の挿入であったとしても。これらの品は流通分と位置付けられており、中核部分ではない。

しかし、この安楽行品は、法華経のストーリーに於いて本筋中の本筋の品である。それが「法華経とは関係なく独立して作られたもの」だとしたら、根底から揺らいでしまうではないか。上記の流通分6品とは重みが違うのだ。

大聖人が、種種御振舞御書などで、諸天善神へ諌暁された重要な依拠となる品である。当該品の中で「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」「天の諸の童子、以つて給仕を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と諸天が法華経の行者を守護することを誓っているのである。

この経典の裏付けが無くなってしまうのだ。

「摂受」を説いている品

大聖人はこの安楽行品を『摂受』を説いている品と位置付けられた。「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし」(開目抄)と仰せの通りである。同じく開目抄で「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし」との見解を示されている。また、摩訶止観や弘決を引用され、仏説には二種類あり、一切の経論は摂受・折伏の二つを出ることはないとの見解を示されている。これらの御文から、大聖人は当該品に対する違和感は無かったと推察される。

大聖人は、当該品を摂受を代表する品であると重要視された。それを思うと「法華経とは関係なく独立して作られたもの」という見解を簡単に受け入れるわけにはいかない。結論を軽々に下すのではなく、今後も慎重に考察を進めていきたい。



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創価は巨大な中央集権組織である。日本全国に広大なピラミッド型組織を作り上げている。だが果たして、純粋な信仰を貫きたい人にとって、今の創価のような、全国統一的な組織活動など必要なのだろうか。

選挙支援=全国統一活動の典型

特に顕著なのは選挙支援活動である。選挙の時期になると、全国一斉に選挙態勢になる。本部中央組織から活動の指針の打ち出しが下りてくる。こうして末端の隅々まで統一的な活動が求められる。末端の会員の行動は、友人・知人・家族親類などへ候補者のお願いに回るのである。その行動の結果を、逐一上へ報告をあげなければならない。地区から支部へ、支部から本部へ、本部からゾーンや県へ、総県へ、最終的に本部組織へ吸い上げられる。水も漏らさぬ管理体制である。

選挙終盤になると恒例の「今回は相当厳しい」という激が飛び、活動家達へ更に鞭が入る。そうすると今まで当たって無い友人・知人を何とか探し出し必死になってお願いに周る。最早やっていることは選挙事務所のスタッフそのものである。これのどこが信仰活動なのだろうか。『集票マシーン』と言われても仕方が無い。

個人の幸福に全く関係ない全国統一活動

そもそも信仰の目的は、私達一人一人が日蓮仏法を根本に日々の生活に反映することだ。それぞれ個々の課題なのだ。そこに選挙支援活動など全く関係がない。新聞推進や書籍推進などが主体になるべきではない。個人の幸福の為の信仰活動のはずなのに、なぜ一々に中央組織まで報告する必要があるのだろうか。

創価はこれらの組織活動を『幸福の軌道の公転の役割』だと指導している。地球が太陽の周りを公転するように、宇宙の正しい軌道に乗っている活動だという意味らしい。しかし、この説明には相当無理がある。正しい軌道である根拠は一体何処にあるのか。何の根拠もないのである。

こんなものを『自分自身の戦い』『信心の戦い』に位置付けていること自体が間違っているのだ。こんなものを主体にしてる事自体が『組織おすがり信仰』に直結してしまう事に気付いて欲しい。

組織活動をするなら各地域ごとに

本当に必要な組織活動は、身近にある地域単位で考慮すべきだろう。それぞれの地域で課題が違っているのだ。地域のメンバー同志が話し合って活動方針を決めれば良い。その課題を重点的に克服する。『上位下達』の打ち出しをこなすだけの現在の組織活動よりも、それぞれの地域の特色に合わせた活動形態に切り替えた方が遥かに良いだろう。

地域単位に組織分割すべき

もっと踏み込んでいえば、現代に於いて、信仰の世界に巨大な中央集権組織など必要ない。信仰組織に専属職員など必要ない。有志達がボランティアで運営すれば良い。肥大化した巨大組織をそれぞれの地域単位で分割して、やっていけば良い。これが本当の意味での地域密着組織の姿だろう。



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「気楽に~」渡辺氏の粘着ぶりは前回の指摘記事でも紹介したが、ますます酷くなっているようだ。もはや暴走の域まで達しているようである。

Twitterで、相手に難癖をつけて、勝手に粘着し始めた挙句に、「なんで答えれないの?」「なんでずーっと誤魔化すの?」「話をすり替えた」「反論まだぁ?」「逃げてるのバレバレ」などと相手を煽る言葉を連投しまくっている。

https://mobile.twitter.com/donmotton/status/1029922312894574593 twitter
https://mobile.twitter.com/mwP0s8t4fiA7LWQ/status/1029928618976145408  twitter
https://mobile.twitter.com/wZXjnOoENmf6TNi/status/1029714710034149376  twitter
https://mobile.twitter.com/wZXjnOoENmf6TNi/status/1029708317176750080  twitter
https://mobile.twitter.com/wZXjnOoENmf6TNi/status/1029716643373432833  twitter

この執拗な連投を見れば、彼の異常性は明らかだろう。見ているだけで気分が悪くなるほどだ。

相手に執拗にプレッシャーをかけ、即答を求め続ける。相手の都合などお構いなし。特に「ゆきちゃん氏」は左手が不自由で、左肩を痛めて激痛が走ると言っているのに、そのような相手に何の配慮もせずに執拗に回答を要求し続ける。もはや人間として非道という他ない。

あまりの酷さに、相手から「自分の変質者ぶりをアピールしたいのかね。」と指摘されている始末だ

これほど粘着質で、攻撃的な変質者を見たことが無い。もうこれは立派なネットストーカー行為であろう。

彼は常日頃から、創価バリ活や法華講員の人達に対して「屹立した信仰者たれ!」と『覚醒』を呼びかけていた。果たして、これが『屹立した信仰者』のやる行為なのか。「恥を知れ」と言いたい。

何の為に宗教があり、信仰をするのか。その目的の一つは、人間性を磨くことである。

人間として最低の行為を繰り返す、この輩は仏教徒でも何でもない。日蓮仏法を捨てた者はこのようになるという典型的な見本であろう。


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「気楽に~」渡辺氏。いままで散々指摘してきたが、いよいよこの輩が正体を露呈してきた。
だいたい日蓮という人の法華経解釈そのものがどこかイっちゃってる感じがしますよね?(笑) 道元の法華経解釈の方が、より釈迦の思想に近いと思います。 法華経を根本としつつ、道元と日蓮という二人の解釈が出たことをもっと考えるべきかと思います。twitter
まるで日蓮が頭がおかしい人物かのように断定しているのである。「イっちゃってる感じがしますよね?(笑)」と揶揄するほど馬鹿にしているのだ。もはや日蓮に対する敬意など微塵も無いのである。これを見て怒りを覚えない日蓮信徒がいるのだろうか。

一体、この輩は何時まで日蓮に粘着するつもりなのだ。そもそも自分から「私は日蓮から離れて龍樹思想の信仰を求めています」と告白しているではないか。ならば、もう日蓮に固執する必要など微塵もないだろうに。日蓮について語る資格など一切ないのは明白である。さっさと敬愛する龍樹や、一目置いている道元あたりを讃嘆する記事でも書けば良いだろう。

この輩が本当に関心のある対象は龍樹思想である。実は、少し前に「中論」のネタ記事を幾つか書いていた。だが、読者の食いつきが悪く不評だったので、その後は二度と書かなくなった。その埋め合わせに、食いつきが良い創価関連や宗門関連や日蓮関連のネタを中心に書いているのだ。

要するにこの輩は、自分のブログやTwitterの喧伝の為に創価ネタや宗門ネタや日蓮ネタを書いているに過ぎないのだ。しきりにアクセス数を自慢しているのが何よりの証拠だろう。何の宗教的信念もない軽薄な最低の人間なのである。

法華経に説かれる登場人物で、最も中心的な菩薩は、神力品にて滅後の付嘱を受ける上行菩薩と(率いている)地涌の菩薩であり、実践(弘通)の上で最も重要なのは不軽菩薩であるのは明らかだろう。

仏教美術の人気のテーマは

仏法の北伝ルートでは、インドからシルクロードを通じて中国へ伝来し、やがて朝鮮半島へ、到来するのだが、それらの地域での仏教美術について着目してみたい。かつて、シルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市であった敦煌。その敦煌近郊に有名な莫高窟があるが、そこに描かれる壁画で一番多いのは観音菩薩と弥勒菩薩であったようだ。中でも観音菩薩が一番人気であったらしい。

残念ながら、地涌の菩薩と不軽菩薩は、法華経のストーリーを紹介する程度に僅かに描かれる程度であるらしい。同様に、中国や朝鮮半島でも、絵画や彫刻の作品のテーマになることは無かったようだ。

観音信仰が広がった理由

では何故、観音菩薩が人気であったか。それは観音菩薩の名前を唱える人は誰でも、交通事故や、種々の災害や、強盗や殺人などのあらゆる災難から守られると説かれている。或いは、男の子が欲しい人には男の子が、女の子が欲しい人には女の子が授かる願いを叶えてくれると説かれる。さらに、この菩薩の助けを求める人の為に、いつでもどこでも相手に応じて33種類の姿で現じて救出してくれると説かれているからだという。

この現世利益信仰に飛びついたのが、シルクロードの商人達であったり、中国の一般層や支配層であったのだ。

敦煌では、シルクロードを往来して貿易を営む商人達の発願で観音像が多数描かれた。旅の無事の祈りを込めたのだ。キャラバンが中国から西域を目指す時に、砂漠の中を通らなければならない。過酷な環境下で命を落とすリスクが高い。そこでは盗賊に襲われる危険もある。そのような時に、観音菩薩の名前を呼べば救われると観音品に説かれている。これぞ彼らの望んでいた現世利益なのだ。飛びつくのも無理からぬことだ。

中国では元来、祖先崇拝が盛んだった。強固な父系社会であり、祖先を敬うことは社会秩序の維持のためにも重要であったと考えられている。よって男子がいないと祖先崇拝が断たれて、自分が死んだ後にあの世で迷うしかない。だから、男の子を産まないものは、親不孝者と見なされた。このような慣習があるところに法華経・観音の教えが伝わった。観音の説く利益を聞いた人々は、何としても男の子に恵まれたいと藁にもすがる思いで飛びついた。こうして子宝信仰として広く普及していった。

このようにして観音菩薩は、アジア全域を通じて崇拝されるようになった。

受け身の信仰姿勢

観音品は、それを読誦する人に、観音菩薩によって救ってもらうという受け身の立場を取らせようとする。観音は私達にとって『何かをしてくれる菩薩』であるが、法華経で本来の理想とする菩薩は私達『自らが菩薩となって利他行に努める』ものであった。地涌の菩薩も不軽菩薩もそうである。

このように、北伝ルートの地域に住む大半の人々は、法華経が本当に伝えたかった事が理解できなかった。地涌の菩薩としての自覚と誇りを持ち、偉大なる妙法弘通を誓願する信徒では無かった。不軽菩薩のように、相手がどのような態度を取ろうと、相手に仏性があるのを信じ抜く。そのような不屈の精神を受け継ごうとする信徒は殆どいなかったのだろう。残念である。



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現実社会で、殆どの人間が犯罪に手を染めないのは、法治国家であり、警察制度が確立されているからだろう。犯罪が判明すれば、国家によって裁かれ罰を受ける。社会的な地位を奪われ、周囲からは軽蔑され、金銭的にも苦境になる、身内からは離縁される、子供もイジメに遭うリスクが高い、まさに破滅である。だからこそ、犯罪を抑制できているのだ。

もしも露呈しなければ、人間は悪いことでも平気でやろうとするだろう。

企業が産業廃棄物をこっそりと私有敷地内に埋めていた。数年、或いは10年以上発覚しなかったが、とうとう正義感の強い内部告発者が出て、それがきっかけで発覚した。そのような事件は枚挙に暇が無い。記事1 記事2 記事3

国家の法治が及ばない所、露呈がないと思われる所、信仰を持たない人間ならば平気で悪事でもやるだろう。しかし世の中の多くの人間は何らかの宗教を信じている。イスラム教でもキリスト教でも仏教でも、死後の裁き・死後の生命が説かれている。

一神教の信者はこう思う「誰も見ていないし、監視カメラも無い。絶対にバレることはない。でも神様は見ておられる。自分が死んで、神様に裁かれる時が怖い」だからこそ、そのような条件下でも踏みとどまる抑制力になっているのだ。


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信仰活動を続ける上で、疑問や、時には批判意見が起こるのは当然であろう。それに対していかに誠実な姿勢で向き合うかが大切になってくる。それぞれ、どのように対応しているか考察していきたい。

大聖人の姿勢

日蓮仏法の原点である大聖人の姿勢を拝したい。大聖人は「智者に我義やぶられずば用いじとなり」(開目抄)と、自分が全生命を懸けて築いてきた理念・教義・行動が、もっと優れた智者に破られるまでは捨てることは無い、と宣言されたのである。ここに疑問や批判を拒否する姿など微塵も感じさせない。「批判があるなら、いくらでも来るが良い」との堂々とした姿勢であられる。

池田名誉会長の姿勢

池田名誉会長は、創価大学の第1回滝山祭で、批判意見に関して次のように述べている。
「そこで私が申しあげたいのは、創価大学に対しても、創立者に対しても、批判をしてはいけないということは一つもありません。いくらでも批判してけっこうです。また、私はご存じのように創価学会の会長であります。創価学会に対しても、信仰についてもいくらでも批判しても結構です。大学としても、学会としても、また私としても、反省すべきことは反省しなくてはならないし、改めるべき点はいさぎよく改めねばならない。諸君が創価大学に学んでいるのだから大学のことをはじめ、すべてに対して厳しい発言ができないなどという考えは、誤りである。皆さんが真剣に物事を思索し、言いたいことがあれば、何を言ってもよいし、いかなることを論じてもよい。自由奔放であっていただきたい。これだけは、はっきりと申し上げておきます。」(創価大学学生自治会編『創立者の語らい1』より)
疑問や批判があれば幾らでも上げるべきで、間違っていれば反省をし、改める必要性を説いているのである。非常に重要な発言である。組織の自己浄化作用には絶対に必要な要素であろう。

現在の創価の姿勢は

だが残念ながら、今の創価組織には、この姿勢は微塵も感じられない。会則や教義に対して疑問の声をあげれば、一応はマニュアル通りの回答はくれるが、それでも納得しない場合は、迷惑がられ避けられるようになる。それでも質問を続ければ、組織から無視されるような扱いを受ける事もある。

或いは、もっと本源的な所まで切り込む場合、つまり(選挙支援活動など)組織の方針に反対意見をあげれば、すぐに厳重な注意・指導がなされる。それでも反対行動を止めない場合は、その人を(除名という形で)排除するのである。

今の創価に欠けているのは、疑問や批判に真正面から丁寧に回答することだろう。会則変更に関しての疑問や批判もマトモに答えない。過去の歴代会長の発言との整合性の矛盾を指摘されても「事情が変わった。大謗法の地になったから」の一点張りである。挙句の果てに「ネットを見るな、信じるなという打ち出しがきている」そうである。(報道特集2017年5月27日)

現場の活動家達は疑問があっても、忌憚なく議論できる場など無い。質問をしても、その答えが「池田先生が作られた公明党だから信じる、同志を疑っちゃダメ」「本部の人達は池田先生に近い、薄給で頑張ってる同志達だから」「先生がお元気なうちに大勝利でお答えしましょう!」こんな答えにもなってないような言葉で納得せよというのである。

疑問を忌憚なく話し合える場を

宗祖や、かつての池田名誉会長がそうであったように、座談会や様々な会合の場で、疑問や批判があれば遠慮せずに意見を言える懐の深い姿勢が大事なのだろう。選挙支援活動に関しても、疑問があれば気軽に何でも話し合える場が必要なのである。


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法華経の嘱累品は、菩薩達に相対的に付嘱されている為に、『総付嘱』と呼ばれている。
この嘱累品の考察をずっと続けているが、私にとって解釈が非常に難しい品である。幾つかの疑問点・重要な個所を挙げてみる。

なお、サンスクリット語原典のテキストには、植木訳を用いる。岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、テキストとして用いるのは適切ではない。

釈尊が頭をなでる行為

鳩摩羅什訳には
爾時釈迦牟尼仏。従法座起。現大神力。以右手摩。無量菩薩摩訶薩頂。

爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて
とあり、釈尊が無量の菩薩達の頭をなでている記述がある。これを三回繰り返すのである。これを『三摩の付嘱』と呼び、天台宗、日蓮仏法では重要な意味を持たせている。

ところが、サンスクリット語原典には、
(釈迦牟尼)如来は、その法座から立ち上がって、それらのすべての菩薩達を一まとまりに集合させ、神通の顕現によって完成された右の掌で、[それらの菩薩達の]右手をとって
とあり、「(一つの)右の掌で無数の菩薩達の右手をとった」と記述されている。ここに「頭を撫でる」という表現はない。

この違いは何なのだろうか。何故、鳩摩羅什は頭を撫でるという翻訳をしたのだろうか。

何を付嘱されたのか

サンスクリット語原典にはこう記述されている。
「良家の息子(善男子)達よ、幾百・千・コーティ・ナユタもの数えきれない劫をかけて達成したこの上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)を、私は、あなたたちの手に託し、付嘱し、委ね、委嘱しよう。
良家の息子達よ、[その覚りが]広く普及し、流布するように、そのようにあなたたちはなすべきである」
この上ない正しく完全なこの覚り(阿耨多羅三藐三菩提)が対象として記述されている。
では、これは法華経そのものを付嘱したという解釈でよいのだろうか。
(なお、ここで良家の息子(善男子)達よ、と呼び掛けているが、目上の人(如来)が菩薩に対して、このような呼び方をする事は許される。従って、対象は菩薩達である)

一方、神力品では次のように明記されている。
シャーキャムニ(釈迦牟尼)という名前の正しく完全に覚られた尊敬されるべき如来がおられる。その[如来]は今、広大なる菩薩のための教えで、すべてのブッダが把握している”白蓮華のように最も勝れた正しい教え”(妙法蓮華)という名前の法門である経の極致を、偉大な人である菩薩のために説き示しておられるのだ。
あなたたちは、その[法門]を高潔な心をもって喜んで受け入れるがよい。
付嘱の内容は間違いなく『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』(妙法蓮華経)であることが判断できる。

ところが嘱累品では、神力品のように明記されていない。故に、解釈が難しい。

仮に、嘱累品でも妙法蓮華経が付嘱されたとすれば

つまり、神力品と嘱累品は全く同じ法門が付嘱された事になる。

ここで法華経のストーリーを確認してみたい。法師品以降は、釈尊滅後の弘通がメインテーマとなってくる。従地涌出品で、迹化の菩薩や他方の菩薩達は、釈尊滅後の娑婆世界での布教を誓願するのだが、それを釈尊は「止みね善男子」「汝等が此の経を護持せんことを須いじ」と制止して、
「所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
と地涌の菩薩達を呼び出す。そして神力品で(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達に法華経の付嘱を行う。いわば本命中の本命にバトンタッチを行ったのだ。ここまでのストーリー展開は無理がなく納得が出来る。

ところが、この後で、同じ法門を、迹化の菩薩や他方の菩薩達に付嘱する理由がわからない。今までの流れは一体なんだったのだ。という疑問が湧いてくる。

神力品での付嘱で虚空会の儀式は終わり、散会すれば良かったのではないだろうか。

何も託さないというのも

ただし、何も託さないというのも可哀想だろう。これまでのストーリー展開を振り返れば、釈尊は滅後の布教の覚悟を促している。勧持品では、出家者達が「娑婆世界以外を布教します」と最も厳しい娑婆世界を避けた上での弘通を誓う。それを聞いた釈尊は、何も言わずに菩薩達の方を注視して更なる覚悟を促している。そのような経緯があって、菩薩達はついに決意し、従地涌出品の冒頭で娑婆世界での布教を誓願するのだった。

ここまでの覚悟を促したのだから、何らかの役割を託すのが妥当ではある。彼らには、(上行菩薩と率いている)地涌の菩薩達のサポートとしての役割を与えれば、一番スッキリとした展開になったと思われる。

巧みなる方便

別の観点として、巧みなる方便という記述から考察してみたい
良家の息子たちよ、私は大施主である。良家の息子たちよ、あなたたちも、嫉妬することなくまさに私から学ぶべきである。[あなたたちは]この如来の知見と卓越した巧みなる方便に達して、[この如来の知見と卓越した巧みなる方便を求めて]やってきた良家の息子(善男子)たちや、良家の娘(善女人)たちにこの法門を聞かせるべきである。
これを読むと、「嘱累品で付嘱された法門は、巧みなる方便によって弘通しなさい」という解釈も出来る。

しかし、そもそも方便品に於いて「今まで衆生を教化する為に、様々な方便を用いて化導してきたが、如来が本当に説きたかったのは『一仏乗』なのだ」と釈尊は明かされた。当然ながら、これ以降は方便を用いる必要が無いはずである。それなのに、嘱累品で、菩薩達に対して「再び方便を積極的に用いて布教をしていきなさい」というのは強い違和感がある。

ただし、現実に法華経を布教をする上で、様々な譬え(比喩)を用いるのは有り得ることだろう。そのような意味で『巧みなる方便』という記述を解釈することも出来る。つまり嘱累品の付嘱では、布教の具体的な実践方法まで踏み込んで表現されていた事になる。

総括すると

このように嘱累品は解釈が非常に難しい。現時点ではこのような見解を持っているが、見落としている部分があるのかも知れない。結論を軽々に下すのではなく、今後も考察を続けていきたい。


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『生かされるまま生きる』のイプシロン氏は、こう言い放った。
まあ、未だに『宿業』だとかいってる狂信者には縁もゆかりもない話だ。
というか、『業』なんてものは脳に記憶されたデータだから、死ねばなくなるだけのことだと知れば、宿業だ罰だ云々なんてものはお笑い草にすぎんのだ。エックハルトの言葉でいうならば、業とはペイン・ボディのことだからだ。似非仏教でいう業なんてものは、自分が何度も繰り返し思考したり行為した結果、脳に蓄積された習慣であり、何度も味わってきた状況に出会うと、湧きあがりやすい思考や情動にすぎないのだから。
仏法で説かれる業を『似非仏教』だと吐き棄てているのである。これほど愚かな思い上がりは無い。

死=無に帰するのならば

以下は、彼の主張に沿って考察してみる。

死ねば全てが無に帰するならば、この世の努力など何の意味があるのだろうか。それは『社会的に成功する為』ただその一点が回答になる。それ以外は全て無駄になる。

イプシロン氏は、作家志望ではあるが、(社会的に成功した作品を)何一つ世に出せてはいない。世間的には何の評価も得られていない、何の成功も為していない。ならば、彼の今までの努力は死によって全て無に帰するのである。誰にも彼の功績など語り継がれる事もない。何も残らない(この世に於いて何の成功の実績も無いのだから、当然である)

ならば彼は、何の為に努力するのだろうか。彼のライフワークである読書など、今更、社会的な地位向上に何の役にも立たない。読書や哲学など何の価値があるのだろうか。積み上げてきた知識など何の役に立つというのだ。

それよりも、残りの人生、享楽と欲望のままに生きた方がよっぽどマシというものだ。その方がよっぽど充実した余生を過ごせるだろう。旨い物をたらふく食い、旨い酒を浴びるように呑み、娯楽に興じた方が遥かに楽しく豊かな人生と言える。

三世の業を否定すれば、勝者のみが正義となる

仏法で説く『善業・悪業』を否定すれば、この世に於いて、どんなに悪い事をしても成功した者だけが世間的に評価されるようになる。バレなければ、成功者として尊敬されるのだ。

逆に、(イプシロン氏など)どれだけ影で地道に努力しようと、社会的に成功してない人物は何の価値もないと見なされる。どれだけ人の為に尽くそうと努力しようが、それが表に出ない限り、社会的には何の評価も得られない。ただの要領の悪い哀れな人だ。そして死ねば無に帰するのだ。要するに価値のない人生だったということになる。

イプシロン氏は、社会的には無価値と見なされ一生を終え、死後も無価値として存在すらスルーされるような人生なのだ。彼はそれで満足なのだろうか。要するに、彼は『三世の善業・悪業』を否定することによって、『人生の敗北者』たる彼自身を痛烈に否定しているのである。何と悲しい事か。

世の中の大半の人々は

(死後の世界を信じない)無神論者で、世の中の殆どの人は、このような状況に置かれた時に、果たして奮起しようとするだろうか。虚無感に覆われて残りの日々をただ絶望するだけではないだろうか。中には投げやりになって、ギャンブルや犯罪や麻薬に手を染める人もいるだろう。『死後の裁き』が無い『死ねば、どうせ無になるのだ』と思い込んでいるのだから、そのような発想になるのも仕方が無い。悲しい事ではあるが。

死によって消滅しないものを信じるからこそ、人は前向きに生きる事ができるのだ。だからこそ確固たる信仰を持ち『死後も消滅しない』と確信を持つ人は強い。


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