創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2018年06月

(仏法発祥の地)インドの仏法には元来、草木成仏という概念が無かったらしい。では「草木成仏は、釈尊の説法に依拠しているのか否か」を考察してみたい。

涅槃経に説かれる『一切衆生悉有仏性』の意味するところは、「あらゆる生き物には仏性があり、仏になる可能性を具えている」ということである。ここで、『一切衆生』というのは『生きとし生けるもの』を意味しており、その中には草木瓦礫は含まれないようである。草や木はインドでは、瓦礫や壁・土塊と同様に感覚がないものとされていた(鳩摩羅什は知がないと訳している)『知』もなく『感覚』もない草木に成仏は無理な事だとされてきた。

更に文法的に詳細に見ていきたい。サンスクリット語で『生きとし生けるもの』を意味するサットバ(sattva・सत्त्व)を鳩摩羅什は衆生と漢訳したが、玄奘は草木瓦礫などの非情と対立させて有情と訳した。これは草木に精神がないとするインドの考え方を反映した訳である。なお、非情に該当するサンスクリット語は見当たらないようである。

仏法が中国に伝わり、天台宗で『草木国土悉皆成仏』という思想が起こってきた。天台大師は法華経の法理を、一念三千として体系化した。この一念三千の法理こそ、有情・非情を含めて三千の諸法が一念に収まることを明らかにしたものである。摩訶止観にて「一色一香も中道に非ざること無し」と説いている。妙楽大師はそれを更に明確に表現された。止観輔行伝弘決で「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」と無情の色香等にも仏性がそなわっているという草木成仏の義を述べている。金剛錍論では「一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果ありて、縁了を具足せり」とあり、草木にも仏性があると、明確に述べている。止観輔行伝弘決には身、事理、土、真俗、因果等の十義に約して根拠を挙げている。

であるならば、大聖人の御図顕された御本尊、言うまでも無く『非情』である紙に認められた文字曼荼羅、草木成仏は何に依拠しているのだろうか。日々考察を続けている。勿論、草木成仏口決や木絵二像開眼之事などの関連御書は数えきれないほど繰り返し拝読した。

仏法発祥の地インドに於いて、草木成仏の概念が無かったとするならば、釈尊の説いた仏法には草木成仏が説かれなかった事になる。では草木成仏の法理は『天台宗の独自教義』として考えるべきなのだろうか。或いは、インドの仏法にも草木成仏の概念が存在している可能性を模索すべきだろうか。

ではインドに於いて仏像を崇拝の対象としていた事はどう解釈すべきだろうか。或いは、仏舎利(釈尊の遺骨)を崇拝していたのはどうだろうか。これらは、仏像や仏舎利に仏性があるのを信じていたのでは無かったのだろうか。

これは私にとって非常に難しいテーマであるので、結論を軽々に下すのではなく、今後も研鑽を進めて考察し続けていきたい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

植木氏によると、法華経のタイトルである、サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra)を正しく訳すと『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』になるようだ。

今まで、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の蓮華とは『如蓮華在水』で菩薩のあり方を象徴しているという解釈がなされてきたが、これは明らかに間違いとのこと。

インドで蓮は最もめでたい花とされており、法華経には青睡蓮・紅蓮華・白睡蓮・白蓮華という四種類の花が出てくるが、白蓮華は必ず最後にくる。白蓮華は純白なので、蓮華の中で最勝とみなされている。正しい教えと白蓮華は、最も優れているという点で共通している。

ちなみに岩本氏は、法華経のタイトルを、欧米流の訳し方に倣って、同格の『の』によって『正しい教えの白蓮』と訳すべきだと主張していたが、それはサンスクリット文法、英文法、国文法のいずれに照らしても間違いであるとのこと。

漢語では、薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧(サダルマ・フンダリキャ・ソタラン)と当てられ、鳩摩羅什はこれを『妙法蓮華経』と翻訳した。羅什は白蓮華に込められた『最も勝れた』という比喩的意味を充分に汲み取って訳しているのである。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

対談『法華経の智慧』の中で、戸田会長が亡くなった年の元日に、最後の『新年の講義』をしたエピソードが語られている。寿量品の三妙合論(本因の妙・本果の妙・本国土の妙)がテーマだったらしい。体は相当衰弱していたが、その声は力強く訴えた。その中で、戸田会長が特に強調したのは『日蓮大聖人が本因の仏であられる事』だったという。真実の仏とは、娑婆世界という『現実の世界』以外にはいらっしゃらないという事である。

仏とは単なる架空の存在ではない。たしかに『架空の仏』は方便としては説かれてはいる。しかし『真実の仏』とは五濁悪世の中におられる。最も苦しんでいる衆生の中に分け入って、人々の苦しさ悲しさに同苦し、救っていく。それが仏である。傲慢な権力者からは弾圧され、増上慢の連中からは迫害され、救うべき衆生からも(無知・無理解から)憎まれ、悪口罵詈・杖木瓦石される。その大難の中にこそ仏はいらっしゃる。どこか安楽な別世界で、悟り澄ましているのが仏ではない。

大聖人こそ、まさしく末法における仏という見解である。

今の創価教学は宮田氏をアドバイザーに据え、様々な教義変更を模索してるようだが、まさかこの見解を変えるということは無いと思いたい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

植木訳を手掛かりに、法華経研鑽を進めているが、植木氏の解説を読めば読むほど、岩本訳の曖昧さが目立ってくる。文法上で不正確な訳が多い。そのような個所が数多く指摘されている。その中には意味合いが大きく違ってくるものもある。

例えば、信解品で「また、自身の栄耀栄華を息子が疎んじていることを知っていましたし、」と訳されているが、『息子が疎んじていること』などサンスクリット語の原文にはどこにも記載されていない。

或いは、「お前は、[この財産の]すべてを完全に知るべきである」と訳すべき文章が、岩本訳では、「おまえはこのすべてを受け取ってもらいたい」となっている。原文には『受け取る』などといった意味は無いし、この段階で「(財産を)受け取ってもらいたい」と、長者(資産家)が発言するのは早すぎる。この段階では、財産の全てについて知悉するように言っているだけで、長者(資産家)が財産を贈与するのは、この後の国王や、親戚縁者、町や村の人々を邸宅に招いた時のことである。また、この文章は日本語としてもおかしい。「おまえは」を主語にするのなら、述語は「受け取るべきだ」とするべきだし、「受け取ってもらいたい」を述語にするのなら、主語は「私は」とすべきで、目的語を「おまえに」とするべきである。

他にも薬草喩品で、
「横になる寝台や、坐る座席にあっても、私には、怠惰が存在することは決してないのだ」と訳すべき文章が、岩本訳では「ひとたび説教の座に坐れば、まことに余に怠惰の気持ちの生ずることはない」となっている。原本には『ひとたび』に相当する語は用いられていない。『説教の座』と訳された語も、原文では「横になる寝台や、坐る座席」となっている。岩本訳では、怠惰の気持ちが生じないのは、説教の座に坐った時だけというニュアンスになってしまう。原文は、寝台で横になっている時も、椅子に坐っている時も、すなわちどんな時にも怠惰であることは無いと言っているのであって、岩本訳は適切ではない。

これらは、ほんの一例であって、岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、研鑽のテキストとして用いるのは疑問である。

サンスクリット語の文法を厳密に検証している植木氏の訳が一番信用できる。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

創価は御書を用いているが、部分的に、自分達に都合の良い解釈をしている所が散見される。特に酷い事例を具体的に挙げる。

聖教新聞。2018年6月5日付け。寸鉄にて。
「仏法は皆師より習ひ伝へ給へり」御書。偉大な広布の師のもとで進む誉れ

実は、これと全く同じ意味合いの文章が、2007年10月14日付けの寸鉄に記載されていたのである。

御聖訓『仏法は皆師より習い伝へり』。師匠の指導通りに戦い進む門下たれ。

この寸鉄の文章を読む限り、「大聖人は『仏法は皆、師匠から習い伝わっている』と仰せである。だからこそ創価の『偉大な師匠』の指導通りに戦い進みなさい。それが誉れである。」と解釈するのが普通だろう。

この文章は妙密上人御消息の一節を引用している。しかし、妙密上人御消息を丁寧に拝読してみれば、意味が全く逆であることがわかる。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
この前段で、諸宗の元祖達が法華経を根本第一として読んでいない為に、『法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す』と厳しく断じておられる。しかし諸宗の弟子達は「我が師は法華経の心を得給へり」と思い込んでいる。そして、これらの誤った諸宗の弘教した仏法(他人の弘めさせ給ふ仏法)は皆師匠より習ひ伝へ給わったものであると仰せなのである。

一方、大聖人は、仏の御心が御身に入ったからこそ法華経の教え通りに題目を唱え、人にも勧めておられ、曲がった心が無い。聖人というのは、師匠がなくても自ら悟った人をいうのである。仏典には「我が修行には師匠の助けがない」と説かれており、天台大師と伝教大師がこれに該当し、当然ながら、日蓮大聖人も聖人に該当する。
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
このような大意である。

あろうことか、大聖人の御見解と正反対の解釈をしているのだ。御書の一節を引用して、自分達の組織に都合良く解釈して、自分たちの正当性を主張する為に利用している。余りにも酷いと言わざるを得ない。これが創価の『切文教学』なのである。

創価の会員の方々には、御書の部分的な『切文教学』を学ぶのでは無く、御書全体を丁寧に拝読することを切に願う。いい加減な解釈をすれば、大聖人の御意思と全く正反対の解釈をしてしまう危険性がある。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

かつて、対談『法華経の智慧』の中で、池田名誉会長と教学部は、
「核心となる思想は釈尊の直説だが、今の表現形態は、編纂当時の時代状況を反映してるとは考えられないでしょうか。」

「核心となる釈尊直説の思想が、編纂当時の時代状況、思想状況に応じて、ひとつの形をとったと考えられます。」

「釈尊の入滅から数百年経過していたとしても、大乗経典が、釈尊とは全く無関係の勝手な創作であるとは言い切れない。文字としてまとめられたのは後年であっても、その間に、釈尊の言説が口承として伝えられていたことは充分に考えられます。」

「インドには、大切な教えは文字に書きとどめるのではなく、暗唱し、心にとどめておく習慣があったようだ。」「それにしても法華経編纂者の編集能力は素晴らしい。文字や暗唱で伝えられてきた仏説の中から、釈尊の思想の核心を選び取り、見事に蘇らせている。編纂者の中に、釈尊の悟りに肉薄し、つかみとった俊逸がいて、見事にリーダーシップを発揮したとしか思えません。」

という見解を示していた。

この点に関しては、私も同じ見解だ。

『大乗非仏説』を主張する連中は、「法華経には釈尊の直説は含まれていない」と言い放っているが、愚かな思い上がりだという他ない。このような連中は、インドの口承による伝統を軽視してるのである。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ