創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2018年05月

『スッタニパータ』を精読している。釈尊の直説と信じている人も多い。

「まのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>」(彼岸に到る道の章)とは『即身成仏』のことを説いているのだろうか。

四諦・八正道・十二因縁に該当する箇所はあるようだ。しかし、業の厳粛な因果について、輪廻の因果律、空仮中の三諦に関しての明確な記述は、果たして説かれているのだろうか。

コーカーリヤの経(第3・大きな章・10)には地獄の恐ろしさについて説かれている。

何が革新的であるのか

しかし、これでは小乗仏教の教義程度にしか思えない。当時の哲学・宗教・思想に於いて革新的であったのか疑問である。例えば、バラモン教のウパニシャット哲学(業・輪廻の死生観や、ブラフマン(梵)とアートマン(我)による梵我一如)に比べて革新的であるか疑問である。

欲望や執着を消滅させることが強調されているが、『煩悩即菩提』こそ仏法の真髄である。大聖人は「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」と仰せである。

ヴェーダの扱いに関して

ヴェーダへの配慮も随所に散見される。
「ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。」(大いなる章・5マーガ・503)
「火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー〔讃歌〕はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである」(大いなる章・7セーラ・568)
「このことを如実に知って、正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。」(大いなる章・12二種の観察・733)
「ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。」(9マーガンディヤ・846)
これらの文言を、どのように解釈するか難しい点ではあるが。

二種の観察

『二種(二重)の観察』は観察法としては優れている。

師弟に関して

第5:悲願に至る道の章で「師(ブッダ)は答えた」と何度も記述されている。仏法に於いて師弟が重要なのは言うまでもない。だが創価が言うような『師弟不二』とは違う。

三世の生命

スッタニパータでは、法華経に説かれる『永遠に続く生命』『因果具時の生命の法則』は説かれていない。

果たして、これで死への恐怖を克服できるのか疑問である。来世のことが曖昧に感じないのだろうか。

単なる認識論では意味が無い

(「気楽に~」渡辺氏や、イプシロン氏など)スッタニパータを過度に重視する連中がいるが、彼らの主張は要するに『単なる心の持ち方』や『物事の認識の仕方』である。その程度の理解ならば、別に原始仏教に固執することは無いだろうに。例えば、孔子や老子でも、それなりに礼儀や道徳、心の持ち方に関して優れた見解を示しているのだから。

仏教は『三世を見通す明鏡』であるから唯一・最高峰なのである。現世のみに限定すれば孔子・老子でも他の哲学者でも充分な価値はある。



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我々の外部に無窮なるものがあると同時に、我々の内部にも無窮なるものがないだろうか。その二つの無窮なるものが(何という恐るべき複数であるか!)互いに重なり合ってるのではないだろうか。第二の無窮なるものは、いわば第一のものの下層ではないだろうか。それは第一のものの鏡であり、反映であり、反響であり、第一の深淵と同中心の深淵ではないだろうか。この第二の無窮なるものもまた霊的のものではあるまいか。それは考え愛し意欲するのではあるまいか。もし二つの無窮なるものが霊的のものであるならば、その各々は一つの意欲的本体を有し、そして上なるものに一つの自我があるとともに、下なるものにも一つの自我があるに違いない。この下なる自我がすなわち人の魂であり、上なる自我がすなわち神である。

思念によって、下なる無窮のものを上なる無窮のものと接触させること、それを称して祈るという。


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ドストエフスキー『悪霊』の中で登場する、無神論者達の精神的支柱のような人物は、死の間際に神への信仰に目覚める。

「僕にとって神が欠かせない存在であるのは、それが永遠に愛する事のできる唯一の存在であるからなのです・・・」

「おお、僕はぜひとも、もう一度生きたい!」彼は異常なエネルギーの高まりと共に叫んだ。
「人生の一刻一刻、一刹那、一刹那が人間にとって至福の時でなければならないのです。必ず必ずそうならなければいけない!そのようにすることが個々人の義務なのです。これは人間の掟です———目にこそ見えないが、厳として存在する掟なのです・・・」

「人間にとっては、自分一個の幸福よりも、この世界のどこかに万人万物の為の完成された静かな幸福が存在することを知り、各一瞬ごとにそれを信じることのほうが、遥かに必要なことなのです。・・・人間存在の全法則は、人間が常に限りもなく偉大なものの前にひれ伏すことが出来たという一事に尽きます。もし人間から限りもなく偉大なものを奪い去るなら、人間は生きることをやめ、絶望のあまり死んでしまうでしょう。無限にして永遠なるものは、人間にとって、彼らが今その上に住んでいるこの小さな惑星と同様に、欠かすべからざるものなのです。」


一般論として、神からの解放を宣言した無神論は、つまるところは、良心からの解放を宣言したことになり、「神が居ない以上、何をやってもよいのだ!」ということになる。『無制限の自由』、つまり、神と道徳からの自由は、必然的に『無制限の専制』に行き着く。


(以下、随時追記)


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かつて池田名誉会長は『無冠の友』配達員へ激励のメッセージを贈った。

広宣流布のための「破邪顕正の活字文化」――「聖教新聞」を配っておられる“無冠の友”の皆さまこそ「最高の正義の人」である。
「聖教新聞」の配達には、それ自体、折伏に通ずる功徳が現れる。永遠の生命から見れば、絶対に「勝利者」となる。究極的な幸福境涯となることは間違いない。
「配達即折伏」「配達即広宣流布」「配達即友好活動」「配達即拡大」である。
どうか“無冠の友”の皆さまは、お体を大切にしていただきたい。寝不足にならないよう、聡明に工夫しながら、「絶対無事故」でお願い申し上げたい。
「無冠即無事故」「無冠即健康」「無冠即長寿」「無冠即福徳」であれと、私も妻も、毎日、真剣に祈っている。
(『池田大作全集』第92巻所収)

これを読んで『違和感』を抱いたのは、果たして私だけだろうか。池田名誉会長は『会員の配達ありき』が大前提の発想なのである。

過酷な配達環境

これを書いた名誉会長は、真冬の北海道や東北での配達がどれほど危険かわかってるのだろうか?

配達作業で一番厳しい環境が、冬の北陸・東北・北海道の朝の配達だろう。創価バリ活ブロガーの記事(しばれた朝 記録的冷え込み 嵐の後の悪路面 最悪のコンディション 雪深い中の配達)を見れば一目瞭然である。これほど過酷な環境なのだ。真冬の大雪の日に、自分でやってみればいい。真冬の極寒の朝。悪天候の日。視野が悪い状況。雪が積もった道。自転車なら転倒リスクが高い。大怪我をするかもしれない。屋内との寒暖差も激しいので血圧サージ(血圧急上昇)が心配だ。

こんな環境下の『無冠の友』に対しても、『「絶対無事故」でお願い』だの、よくもまぁ言えたものだ。

配達員の奮起

配達員は『永遠の師匠』からの激励のメッセージで奮起するのだろう。極寒の早朝でも、荒れ狂う天候の日でも、「池田先生のお手紙を伝えるのだ!」と頑張って配達に勤しむのだろう。その結果、怪我をしたり、事故が起こったらどうするのだろうか。

本当に会員の体が大切ならば

本当に会員の健康を大切に思うなら、『お体を大切にして』欲しいのなら、即座にネット版に完全移行するか、或いはプロの業者に配達委託するかの提案をするだろう。それすらせずに、会員を都合よく使う事しか念頭にないのだろうか?


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『気軽に語ろう』の渡辺氏だが、頻繁にTwitterで手当たり次第に相手に激論をふっかける『乱戦』を繰り返しているのが目に付く。何とも好戦的な性格である。そもそもTwitterはそのような目的で作られたサービスでもないのだが。

創価バリ活に対し執拗な攻撃

しかし、その内容を見てみると、まあ凄い。最近は創価活動家の『空氏』とやり合っていたようだ。空氏が一つ言えば5個以上の連投ツイートを返すほどの執拗っぷりである。

『気軽に語ろう』渡辺氏のツイート

「貴方のような他者を理解しない活動家ばかりだから、創価学会なんて魅力を感じないんですって。早く消えてくれ。いい加減にしなさいよ。勝手に自分のツイートで批判してればいいじゃないですか。絡むな。
(創価活動家)空氏のツイート

「私は自分の地域で頑張っています。様々な幹部がいますが、私は逃げません。正々堂々と対話します。ネットの世界に逃げ出し、現場を放棄することなどしません。大切な同士が現場にいますから。私は貴方の幸福を祈念しております。どうかまた戻って来て下さい。

と丁寧に友好を呼びかけられたのだが、それに対する反応が凄い。

『気軽に語ろう』渡辺氏のツイート

「貴方のような人間がいる限り決して戻りません。傲慢で法華経を読まず、何も知らないのに、人に教訓を垂れ、偉そうに信仰の指導ができると勘違いしている貴方のような人間に二度と会いたくありません。関わらないでください。吐き気がします。貴方は私にはどうでも良い人間です。
『気軽に語ろう』渡辺氏のツイート

「貴方のような人間がいる組織になど絶対に行きたくありません。謙虚さも誠意もない。私の話を受け取ることさえできず、しかもそのことにさえ自覚できない。最低の人間です。私から貴方は学ぶことなどないのでしょうからね。」
『気軽に語ろう』渡辺氏のツイート

「創価学会の活動家というのは、人の話を聞かず、自分と考えが違うものについて、単に否定することしかできないんですね。受容することも話を聞くことさえできない。貴方の話を聞いてくれる地域の方と勝手にやればよいではありませんか。二度と関わらないでください。吐き気のする最低の人間だと思います

などと、ここまで攻撃的な返信を複数個しているのである。果たして、ここまでヒステリックに反応するほどのことだろうか。冷静に「お言葉どうも。考えておきます」と返せば何事もなく収まったものを。彼には『大人の対応』ができないのだろうか。

相手の人格をここまで否定するとは、いい歳した大人として恥ずかしくないのだろうか。彼は法華経の不軽菩薩を知識としては知ってるが、その精神までは学ばなかったらしい。「法華経の普賢菩薩勧発品にハンセン病の記述があるから差別的な表現だ」などと揚げ足を取って難癖を付けることばかり考えているから、このような人格になってしまうのだろう。これが(彼が常に主張している)『屹立した信仰者』の行動だとは呆れる。何の為に日頃から仏教を学んでいたのか、悲しい限りである。

相手を徹底的に追い込む

渡辺氏は他人の態度についてどうのこうの揚げ足を取る前に、自分の発言や態度について見直してみたらどうだろうか。彼は以前に『勝他の念が強い』ことを自覚してるツイートをしていたが、この様子だと全く治ってないようだ。相手を徹底的にやりこまないと気が済まない性質らしい。自分で軌道修正が出来ないのならばカウンセリングを受けてみてはどうだろうか?

以前に彼は「釈迦の教えは私には『執着する心から離れる』というものに感じられます。 」などと得意の『我見解釈』を披露していたが、この様子だと、どうやらTwitterで相手を攻撃する『執着心』はまだまだ克服できそうにないようだ。彼はTwitter中毒になっており、根本的な治療が必要かと思われる。いっそのこと長期間、Twitterから離れてみることをお勧めする。


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法華経の薬草喩品の後半部はかなり長い。『陶工の譬え』など美しく巧みな比喩が数多く説かれている。だが鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』では後半部分の記述が無いのだ。

その為に「鳩摩羅什が恣意的にバッサリとカットした」と思い込んでいる人も多い。

だが仏教学者・植木雅俊氏の見解では、法華経は、原典写本の種類によって、また漢訳の種類によって、その構成に多少の異同が見られる。薬草喩品の後半部は、サンスクリット語のケルン・南条本、『正法華経』や『添品法華経』には記述されているが、『妙法蓮華経』にだけ存在しない。

その韻文からなる偈(詩句)には、他の章の偈や、他の初期大乗仏典の偈で必ず頻繁に見られる仏教混淆梵語が極めて稀にしか見られない。従って、この部分はかなり後世の挿入だと考えられる、という趣意の見解を述べられてる。

つまり鳩摩羅什が翻訳した時代には薬草喩品の後半部は無かった、との見解なのだ。「羅什が独断で後半部分をバッサリとカットした」と断定するのは早計である。今後の文献調査の進展を待つべきだろう。


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最近は宮沢賢治に関して再び考察を続けている。

賢治が熱心な日蓮仏法の信徒であったことは有名である。(この記事では国柱会という組織への評価は置いておく)

銀河鉄道の夜の、ジョバンニが持っていた切符、緑色の紙は、やはり御本尊の事を表現しているのだろう。作中では「それはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもので黙って見ていると何だかその中へ吸い込こまれてしまうような気がする」と表現されている。『此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり』(日女御前御返事)を想起させる。この切符のみが「こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける」のである。友人を自分の命を投げうって救ったカンパネルラですら、持っていたのは小さな鼠色の切符であった。彼は途中で下車(消滅)してしまう。

(以下、随時追記)

有名な、彼の手帳の内容だが、手書きで文字曼荼羅を綴っている。しかも南無妙法蓮華経と釈迦・多宝・地涌の菩薩だけ。随分とシンプルな曼荼羅を書いたものだ。

彼は不軽菩薩を理想としていた。『雨にも負けず』は不軽菩薩の行い・精神そのものである。法華経の本質を感じ取ったのだろう。大聖人も不軽菩薩を重要視された。しかし、仏教一般的には不軽菩薩はそれほど注目されていなかった。

最愛の妹トシが死んだあと、彼は北海道を経由してサハリン(樺太)まで至る一人旅を敢行した。妹の魂が北に行くと信じ込んでいたようだ。このようなものは法華経・日蓮仏法には説かれていない。では国柱会の教義だろうか、或いは賢治独自の信仰感だろうか。



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大御本尊を『受持の対象』から外すというのは詭弁だが、それよりも酷いのは、大御本尊を『出世の本懐』の記述からコッソリと削除したことである。


対談・御書の世界より
池田名誉会長
大聖人が「聖人御難事」を認められ、出世の本懐を遂げられることを宣言されたのが、十月一日です。法戦の全魂の指揮を執られながら、一方で大御本尊御建立の準備をしていかれたと拝せられる。

斎藤教学部長
広宣流布の激闘のなかで大御本尊を建立された、ということですね。

池田名誉会長
広宣流布に戦う信心強き庶民群の本格的な出現を機に、大聖人は大御本尊を建立されたのです。三年前の建治二年(一二七六年)に表された「報恩抄」に仰せのように、南無妙法蓮華経は万年の未来まで流布して末法の人々を救っていける大法である。しかし、出世の本懐である大御本尊の建立は、それを受持し奉る「不惜身命の民衆」の出現を待たれて実現されたのです。

ここまで明確に、大御本尊が出世の本懐であることを明言しているのだ。


一つの宗派や宗教団体がどうなろうと、大聖人の時代が変わるワケがない。出世の本懐は不変である。

しかし創価は、宗門との関係が決裂したからといって、700年前の歴史的な解釈まで変更を加えたのだ。本尊は根本中の根本である。そこに平気で変更を加えたのである。

対外関係の変化によって根本の教義をコロコロと変更する。こんな組織の教義など信用できるだろうか。全くできないのは明白である。



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大聖人は不軽菩薩を特に重要視されていた。諸御書を見れば明らかである。

「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に軽毀する人は頭七分に破・信ずる者は福を安明に積まん」(聖人知三世事)

「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し」(寺泊御書)

「今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり、得道の時節異なりと雖も成仏の所詮は全体是れ同じかるべし。」(教行証御書)と、得道の時節は像法と末法と異なるが、下種益での成仏の原理に於いては同じであると仰せである。

不軽菩薩が勧請されない理由は?

これほど重要視されていた不軽菩薩が、なぜ御本尊に不軽菩薩が勧請されていないのだろうか。不思議といえば不思議である。

菩薩の代表として、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・普賢菩薩・薬王菩薩が描かれている。龍樹菩薩や天親菩薩もいる。人師は天台大師・妙楽大師・伝教大師もいる。

不軽菩薩は虚空会の会座には直接登場せずに、説かれた時代(威音王仏の滅後の像法の時)が違うからであろうか。しかし、天台大師・妙楽大師・伝教大師も虚空会の会座には居なかったと指摘すればそうなのだが。ちなみに天照大神も八幡大菩薩も法華経説法の場に直接の記述はない。

過去世かどうか

不軽菩薩は釈尊の前身(過去世)であることが説かれている。ただし大聖人は、前身かどうかの観点から座配されたかどうか判断がつきかねる。

天台大師は薬王菩薩の生まれ変わりと御認識されておられる。しかし人師としての役割で勧請されてるかと思われる。つまり、天台大師と(過去世の)薬王菩薩が同時に勧請されていることになる。であるならば、不軽菩薩もまた、菩薩の生命の役割として、菩薩衆に列座されていても何ら不思議ではないと思われる。



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聖教新聞の内容についての批評はこの際、置いておくとする。
この記事では「本当に会員の人達のことを第一と考えてるか」どうかを考察してみたい。
いつまで『無冠の友』配達員に頼るのだろうか。

過酷な配達環境

配達作業で一番厳しい環境が、冬の北陸・東北・北海道の朝の配達だろう。創価バリ活ブロガーの記事(しばれた朝 記録的冷え込み 嵐の後の悪路面 最悪のコンディション 雪深い中の配達)を見れば一目瞭然である。これほど過酷な環境なのだ。

配達担当の会員は『プロ』ではない。いつ事故が起こってもおかしくない。大雪・氷点下の気温・凍てつく寒さ。視界不良。路面悪路状況。自転車・バイクは転倒の危険が常にある。大怪我につながる。屋内と外気温との寒暖差が激しく、50代以上の方は特に、血圧急上昇による脳や心臓血管への影響が心配だ。車で行く場合、ガソリン代金等々は自腹である。配達で得る僅かな報酬もガソリン代で飛んでしまう。下手すればマイナスの場合もある。事故に遭遇する危険性もある、逆に自らが事故を起こすリスクもある。

梅雨の時期、台風が接近中の日。雨による視界不良。若者なら良いが、50代以降は心配である。現実に50代より上の配達員は大勢いる。

突然の緊急治療を要する体調不良や事故が起こったらどうするのだろうか。

会員の負担ありきの配達体制

配達員の負担を無くす根本的な解決策はあるのだ。既にネット版があるのだから、それに全面的に切り替えれば良いだけである。やろうと思えば即座に出来ることだ。本当に会員第一であれば即座にやっているだろう。それが出来ないのならば、せめて配達はプロの業者に委託すべきだろう。それすらせずに長年会員に配達の負担を強いている。これのどこが会員の一人一人を大事にしている組織なのだろうか。大いに疑問である。

『無冠の友に感謝』『先生のお手紙を地区の皆さんに配達する』『妙の照覧』だの。綺麗な言葉で会員を都合よく酷使する創価組織。『無冠の友』の純粋な信仰心から来る献身を利用してると言う他ない。人間主義を掲げ、生命の尊厳を訴える教団の機関誌が、その会員の犠牲の上に成り立っている構造なのである。

配達は労働ではなく奉仕作業扱い

詳しく言えば、配達員は「労使関係」ではない。配達業務は労働ではなく奉仕作業扱いなのである。労災に加入しているのではない。法律上でも配達作業は労働とはみなされない、『宗教的奉仕作業』とみなされる。労働基準法や最低賃金法等の労働者保護の法律は一切適用されず、仮に、不慮の事故に遭遇しても公的な労災補償などは一切ない。逆に、もしも配達中に視界不良や悪路面の為に自分が事故を起こせば、当然ながら本人が加害者としての責務を負うことになる。(販売店が加入している民間のボランティア保険のようなものが該当するようだが、いずれにせよ手厚い労災保険には遠く及ばない)

或いは代配の場合はどうなのだろうか。民間の保険にすら加入対象とは思えないのだが。

仮に、事故や体調異変が起こっても『自己責任』で創価組織は一切責任を取らない。(確かに、直接の雇用契約を結んでるわけでもない。法律上は責任を取る必要はない)。

手厚い待遇の社員・本部職員

一方、聖教新聞の社員や本部職員は当然ながら労使関係である。勤務中や移動中に何か事故があっても労災が適用されるのは言うまでもない。

創価と言う組織が、本当に大切にしているのはどういう人達なのか。一般会員の方々はよくよく考えて欲しい。本当に会員の一人一人が大事ならば、配達員と直接雇用契約を結ぶハズである。

新人間革命終了後の体制は

ネットの噂では「現在連載中の新・人間革命が終了すれば日刊体制も変わるのではないか」という憶測が飛び交ってるが、果たしてどうなのだろうか。仮にそうなっても『無冠の友』配達員の負担で成り立ってる現状は変わらない。(負担の度合いは幾分かマシになるだろうが)


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