創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2018年03月

日蓮仏法を根本に自分の日常生活に反映させていく。
その影響は自分の周囲(家族・友人・地域・学校・仕事先・等々)にも及んでいく

日蓮という人が、どのように考え、行動し、門下を励ましたか。その御振る舞い。国家観や、理想の国家像「世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん」とは。治世産業への着眼点に至るまで。
それを日々の御書拝読にて確認して、自分の中に取り入れていく、自分の生活に実践として活かしていく。

・礼儀・礼節・人の振る舞い
「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」. 

・報恩という観点
仏教を学ぶ中で、忠義や孝養、そして師弟に対する報恩が大事だと感じる。

・依正不二の原理から
環境への配慮・自然環境との共存

・他者への配慮、病人への配慮

煩悩即菩提
・食欲のコントロール、物欲のコントロール

目的のために他者を陥れるなかれ
他者を殺すなかれ、
窃盗するなかれ、
食べ物を粗末にすることなかれ
エゴを戒める

これらは仏法以外でも様々な教え(宗教・道徳)で説かれているが、三世の因果律でなければ説得力を持たない。現世で、現世でなければ来世以降で、必ず自分に戻ってくるのだ。来世での因果を考慮しなければ真の抑制効果にはならない。「其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし」(開目抄)

この素晴らしい仏法哲学を周囲の人にも自然に語り、薦める。

これが日蓮仏法の信仰の主目的である。
組織はその為の補助の役割なのだ。ところが現実は組織の打ち出しを絶対視し、最優先し、その遂行に日々を費やして人生を浪費してしまう。そのしわ寄せが家族に向かい、負担をかけてしまうケースも多々ある。本末転倒も甚だしい。これでは『組織おすがり信仰』である。
ましてや、同じ日蓮仏法を信奉する人達が、組織が違うからといって互いに非難し合う姿はどれほど愚かな事か。『組織の論理』に凝り固まって本質が見えなくなっているのである。大聖人が御覧になれば、どれほど悲しまれるか。


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ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の一節に、このようなくだりがある。

信仰に悩める貴婦人は尋ねる
人間の幸福とは?来世とは?何によって証明し、何によって確信すればいいのでしょうか。

経験豊富な修道院の長老は諭す
「この場合、何一つ証明はできませんが、確信はできますよ」
「どうやって?何によってですか?」
「実行的な愛を積む事によってです。自分の身近な人達をあくすることなく、行動によって愛するよう努めてごらんなさい。愛を勝ち得るにつれて、神の存在にも、霊魂の不滅にも確信が持てるようになることでしょう。やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地まで到達されたら、そのときこそ疑う余地なく信じられるようになり、もはやいかなる懐疑もあなたの心に忍び入ることができなくなるのです。これは経験を経た確かなことです」

トルストイの二老人の記事にも書いたが、これが信仰の主目的なのだろう。

本来、信仰の組織というのは、これを補助する為に存在するのである。ところが現実は組織活動がメインになってしまっている。組織の打ち出しを欠かさずこなすことが『幸福の軌道』につながると教えられているし、思い込んでいるのである。


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法華経は滅後、特に末法の衆生の為に重点が置かれている。それも何度も強調されている。釈尊滅後・特に末法の方が、在世よりも遥かに困難であると説かれているのだ。

闘諍堅固・白法隠没と呼ばれ、飢饉・疫病・地震・火災・不作・内乱・外乱が襲い掛かり、現実に、衆生が、最も苦しんでいる末法に於いて、現実に人間として生まれ衆生を救済する『菩薩仏』である。実際の行動は菩薩行である。

寿量品の「如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。」大聖人はこの経文を「此の経文は仏界所具の九界なり」(観心本尊抄)と仰せである。

日蓮大聖人が現実に末法の世に生まれて、法華経に説かれる通り、数々の難を受けながらも、現実に衆生を救われた。

現実に実態のある人間として、法難により数多くの怪我を負わされ、晩年には体調を壊し、重い腹の病気もかかりながらも、有りの侭の人間として振る舞われた。

現実の末法の世に仏が出現しないのならば、仏法は、法華経は何の為に説かれたのか。仏とは何なのだ。単なる概念に過ぎなくなるではないか。仏法で説く仏の存在そのものが虚妄になってしまう。



確かに「法」は絶対であり、重要なのは言うまでもない。しかし我々は大聖人の行動・実践を通じて日蓮仏法を学んでいるのだ。「然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と仰せのように、御書は大聖人の『実践の日記』そのものなのだ。

いくら理論上で仏性が説かれていても、実際に末法に於いて、仏が現実に現れて実際の行動で法華経の偉大さを証明しなければ『絵に描いた餅』同然だろう。ここが身延系の思想とは違う点だ。やはり人と法が同一(人法一箇)でなければ真の仏法とは言えない。

釈尊は、『サンユッタ・ニカーヤ』で以下のように説いている
「ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
法は、一人の人間として体現されて、はじめて価値が発揮される。仏とは、観念的・抽象的なものではなく、生きたブッダの人格として具現されてこそ価値がある。

同じ鎌倉時代の道元。彼も法華経を重視したという。だが彼が現実の衆生を救う行動を起こしたのか。不軽菩薩や上行菩薩のように。民衆が苦悩にあえいでいる時に何もしなかったのだ。草庵に籠り著作に没頭しただけだ。法華経の心を何も実践していない。彼がいくら優れた感性を持っていたとしても何の価値も無い。



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日蓮大聖人を『末法の仏』と信奉する教団は、宗門・創価・顕正会が存在する。顕正会の浅井氏、宗門の日顕氏・日如氏は今でも矢面に出ている。ところが池田名誉会長だけは人前から突然姿を消した。

「完全引退して第一線への影響ある活動を行わない」というのならわかるが、今でも膨大な執筆活動や、各種メッセージ、名誉称号授与への応対、提言等々を精力的に行い、創価組織・会員に大きな影響を与え続けている役割(設定)を担っているのだ。これほど矛盾に満ちた存在は他にいるまい。

人生の最晩年に入り、集大成とも言える時期に、人前から避けるように姿を消す人物ほど疑わしいものはない。今の有りの侭の姿を見せれば、作り上げてきた『偶像』の金メッキが剥がれるのを恐れているのだろうか。戸田会長は晩年・病気で体が衰弱する中でも前面に出てきた。有りの侭の姿を見せたのである。その弟子とは思えない姿であろう。

およそ指導者というものは実態が見えている方が好ましい。戸田会長は実態のある指導者であったが、池田名誉会長は実態が不明な存在に成り下がった。

『永遠の師匠』という無謬性を与えられた存在ほど恐ろしいものはない。

「池田先生の承認を頂いております。」というお墨付きがあれば、それを一般の活動家の人達が『無疑日信の信心』で受け止めれば、どのような組織活動でも肯定されてしまう。


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有名な仏教学者の中村博士は「仏教で説かれる『成仏』とは人格の完成である」と主張したが、それは仏教の一面のみで限定した見方であろう。

人格の練磨・完成が目的ならば、別に仏教だけが特別というわけでもない。古今東西の道徳教育でも充分達成できるだろう。人格を磨く事は何処だって出来る。家のお手伝いだろうが、アルバイトだろうが、ボランティア活動だろうが、人の為に役に立つ事をすれば人格は磨かれる。

しかし、これでは、仏教は『数多くの人格教育の一つ』に過ぎなくなってしまうではないか。わざわざ難解な仏教の教義を学んだ結果が、単なる道徳教育と同じ結果、と言ってるのである。

釈尊の時代から、単なる人格の練磨ごときに、わざわざ出家する必要があったのだろうか。人生をかけて出家して、それで得るものが単なる練磨された人格なのだ。

そんなはずは無いだろう。仏法を適当に『我見解釈』するのは止めて欲しいものだ。

中村氏は肝心な点を見逃してると言わざるを得ない。

中村氏の仏法見解を読めば、平等思想だの人格の練磨だの綺麗な言葉が並んでるが、それは仏法の一面に過ぎない。『三世の生命』と『因果具時の法則』と『相即円融三諦』こそ仏法の本義なのだ。これをスルーする中村見解など取るに足らない。そして、その弟子の植木氏の見解も同様である。所詮は大乗非仏説、つまり「釈尊の直説ではない」と思い込んでる連中の仏法への理解など、この程度に過ぎない。

植木氏は、法華経の平等思想を強調しているが、他の宗教との優位性はどうなのだろうか。キリスト教でも神の元の平等は説かれる。彼等の著作を読む限りでは法華経は「その他の平等を説く宗教」と同じレベルでしかないのだ。

人格がどうのこうの言ってる程度で、生と死の問題をどうやって解決できるのだろうか。末期癌など不治の病に侵され、死が間近に迫った人に何の効果があるのだろうか。何の役にも立たないだろう。だからこそ日蓮大聖人は即身成仏を説かれたのだ。「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せのように、死後の生命こそ仏法の最重要課題なのである。この観点なくして仏法研鑽は意味が無い。

中村氏や植木氏の見解など『自分の死後の生命』の解決に何の役にも立たない。



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池田名誉会長は多くの出版物を出している。その中で、文学を語る対談や、文学関連の出版物も多い。これは何の為に出したのだろうか。中立的な立場で考察してみる。

アンチ創価の人は、世界の著名人との対談は「箔をつける為だ」と言うだろう。それも一理あるだろう。では文学を語る対談や本は何のために出したのだろうか。聞いてみたいものだ。「単なる名誉会長の趣味」とでも答えるのだろうか。

ちなみに文学関連の対談や本の内容には、創価の話題が殆ど出てこないのが多い。創価の宣伝が主目的ではないことは確かだ。

世界の文学を読み込むことは、深く思索することにつながる。長編の文学を読み込むと、文脈の中で論理的に思考するようになる。物事を多角的に捉える癖がつく。そのような人間は『ワンフレーズ号令』で乗せられることは難しい。会員を従順に統治する目的なら『ものを考えさせない』方が楽である。会員一人一人の思考水準を引き上げてしまうと本部の打ち出しに従順に動く人間は少なくなるのに。わざわざ「青年は心に読書と思索の暇を作れ」と強調しているのである。

池田名誉会長なりの理想の構想があったのだろうか。ホールケイン『永遠の都』のように。

実際の所は、殆どの活動家は文学名著とは縁が薄いようである。特に婦人部は読んでる人は皆無だろう(『人間革命』と『香峯子抄』は必読のようだが)

私は高等部から学生部の頃、池田名誉会長を心から慕ってた頃、文学を語る本をバイブルのように熟読していた。その中でトルストイやユゴー・ロマンロラン・ゲーテ等々が語られていた。『若き日の日記』にも本の紹介が多々あった。「良書を読め」と指導されたので、私も多くの世界の名著を読み込んだ。周りの学会員にそのようなタイプは皆無だったが。

男子部に上がってから、私は『理屈臭い面倒な人間』と評価されるようになった。原理・原則と実践活動が矛盾していると感じた箇所を放置できなかった。途中から選挙支援活動に関する違和感を主張したり、納得のいかないことを徹底的に論議したりしたからだ。(とはいっても、ある程度の人間関係が出来ていたので、組織と揉めて遠ざかった事はなかったが)

創価の一般会員は従業員でも何でもない。会員の視点から見て、間違っていると思う箇所を指摘するのは当然の事なのだ。『純粋であるべき信仰の世界』で納得ができないまま組織活動をする事がおかしいのである。矛盾点をハッキリと提示して、それに的確な回答が得られない場合は、該当する組織活動をしないのは当然であろう。

しかし、一般的に、常に読書や思索を巡らせているタイプは組織に居づらくなるだろう。創価組織のワンフレーズ号令に簡単に乗せられない。『(画一的な)周囲のトーン』についていけずに組織から浮いた存在になる。やがて非活になって遠ざかっていく。現在の活動家にはそのようなタイプは殆ど残っていないだろう。

もしも、創価の活動家の大半の方々が、世界の古今東西の名著を読み込み、確かな史観を培っていたならば、創価は今のような姿にはなっていなかったのかもしれない。

弟子というものは結局教わらなかったも同然で、つまりはめいめい自己流でやってゆくものなんだ。(ファウストより)

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かつて、著名なジャーナリストの田原総一朗氏は、ある対談の中で、こう指摘した。
創価学会の功罪のうち
「罪の方から先に言うと、『ものを考えない人』を大量生産してしまったということでしょうか」

これは、まことに鋭い指摘だと思う。
組織の打ち出しに何の疑問も感じずに従順に動くのみ。組織の発表・説明を『全て真実』だと鵜呑みにする。仮に矛盾が垣間見えても、
「きっとこれには意味があるんだろう。」「先生に近い、本部の人達は信心も凄いんだから間違いないわ。」「私達は自分の地域のことを考えよう。それ以外のことは、わからないし上の幹部達が対応してくれるわ」「頭で考えるのでは無く信心で受け止めないとダメだわ」
と、それ以上は追及・検証せずに思考停止になる。
そのような人を大量生産してしまったのかも知れない。

これに関しては、今後も考察を続けていきたい。



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