創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2018年02月

日本人は無宗教に分類される人が多い。その割には、実はキリスト教徒よりも数多くの宗教的儀式に参加している。

整理してみたい
  • 正月は神社に初詣に行き、
  • 結婚式は教会で挙げ、
  • 葬式は仏教寺院で送る。
  • 人生の岐路や悩みがある時には呪術・占い系にすがる。『〇〇(地域名)の母』などと呼ばれる占い師のおばさんに見て貰うことがブームになっている。
  • 自分や近しい人が重い病気に罹患すると、急に神社に参詣して、病気平癒を祈る。
  • グルメとして精進料理を食べに仏教の寺に行き(食べるだけなら問題ないが)そこで僧侶の読経を聞いて本尊を拝んだりしている。
  • ダイエットやデトックス目的で、仏教の寺に行き、般若心経を読経して滝に打たれたりする修行体験をするコースも存在する。(参考記事
  • 近年ではパワースポットなる場所に巡礼することが流行になっている。
シチュエーションに合わせて気分に合わせて様々な宗教を取っ替え引っ替え用いているのだ。これだけコロコロと宗教を変える民族は他に類を見ないだろう。

これは「どの宗教でも、それぞれ優れた真理がある」「どの宗教でも御利益がある」という精神風土が元凶である。

教義の優劣を否定する連中の主張

法華経最勝を否定する連中に特に多いが、経典の優劣、宗教の優劣を考慮しない浅はかな連中がいる。

「どの宗教・どの宗派・どの経典もそれぞれ優れたものがある」「教義の優劣を主張するのは愚かだ」「絶対的な教えなどない」と言う連中は何と浅はかなのだろうか。

このような輩は以下のような愚かな発言をする。
「他の宗教に比べて自分たちの教えに正統性があるとするような宗教的主張を私は全く信じていません。どんな教えでも宗教であり、信仰であることには変わりなく、全てを公平に見ることが大切であると考えています。またそのような心こそが法華経安楽行品の精神だと考えています。」
このように法華経の精神を捻じ曲げて『我見解釈』する破仏法の輩がいる。

日本では昔から、このような考え方を持つ人が大多数を占めていた。このような姿勢が「宗教なら何でもいいね」という日本人の乏しい精神性を醸成していったのだ。恥ずべき事である。

「宗教なら何でもいいね」の末路

しかし、本当に「宗教なら何でもいいね」で済ましていいのだろうか。それで良い影響をもたらすのだろうか。

例えば、浄土宗はこの世を穢土と説き、死後の阿弥陀仏の来迎と極楽浄土への往生を目的とする。ゆえに現世では生きる気力を失い絶望し死後の極楽浄土を望んで自殺した信者も多かった。過去の歴史が物語っている。或いは一向宗のように、それが一向一揆のような、自らの命で敵を殺すことが救済につながるという教えになる。どれだけの信者が突撃して散っていったか数えきれない程である。

イスラム教原理主義者は、異教徒達をジハードで虐殺することが死後に神の元に行けると説かれる。だから自爆テロが後を絶えない。ジハードで戦死すれば殉教者として『最後の審判』ののち、必ず天国に迎えられると約束されていると固く信じているからだ。小さな子供や年頃の女性の服の中に爆弾を仕込み、異教徒めがけて自爆テロを起こす事件も多い。

「宗教なら何でもいいね」という連中は、このような宗教行為も「それぞれの独自性のある活動があって、個性があっていいね」と認めるのだろうか?

教えの浅深・優劣を明確に

どの教義を選ぶかによって、根本にするかによって、その人の人生・価値観は大きな影響を受ける。教義の内容の違いによって天と地ほどの影響の差が出てくる。現実の活動も大きく違ってくる。だからこそ、教えの浅深・優劣を明確にする事が何よりも重要であるのだ。


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最近、「気軽に~」の渡辺氏と頻繁に連携してる大木道惠氏。Twitterのアカウントでは「ご隠居さん」として創価や宗門関連の話題に絡んでくる人物である。渡辺氏が『心の友』のように『師匠』のように仰ぐ人物であるが。どのような御仁であるか興味が湧いてきた。

さて、この大木道惠氏だが、ちょっと調べたところ、まぁ様々な情報が出てくるものだ。どうも彼は宗教、特に『創価ネタでメシを食ってる人物』のようである。いろいろな過去の遍歴をお持ちのようである。

私は、各宗派の僧侶であろうと、在家の本部・専門職員であろうと、(自称)ジャーナリストであろうと『現代に於いて、宗教でメシを食ってる連中』は一切信用していない。

一般論として、人間というのは「生活の為に、己が生きていく為に、思想を売り渡す」輩がいかに多いか、これまでの歴史が証明している。いや、そもそも思想など最初から無かった連中も多い。『いかに宗教で食っていくか』この点だけで行動してる連中も多いのだ。

(自称)ジャーナリストというのは実に気軽なもので、生きていく為には平気で宗旨を鞍替えする傾向にある。これまでも数々の宗教ジャーナリスト達が変節を露呈してきたではないか。

純粋に日蓮仏法を貫きたいのならば、現代に於いて、宗教でメシを食っている連中には関わらない方が良い。金銭に絡む必要の無い純粋な信仰を目指すべきである。


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かつて池田名誉会長は『新・人間革命』第13巻でこう訴えた。
彼の提案は、これまでに沖縄に何度も足を運び、その現場を見て、さまざまな人びとと対話を重ねる中で、練り上げてきたものだった。核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になってこそ本土復帰であるーーそれが、沖縄の人びとの思いであり、また、伸一(池田名誉会長)の信念であった。」

この視点に立って最も虐げられた沖縄の平和を第一に行動するのが創価の方針だったはずだ。沖縄には米軍基地があり、これまでに地域住民の方々は悩まされてきた。住宅密集地にあり、世界で最も危険な基地とされる普天間基地。事故に常に怯えながら暮らす日々。米軍兵士が起こした事故や犯罪・トラブルに苦しめられてきた。公明党の地元組織も沖縄の住民の立場を尊重して動いてきたはずだ。

沖縄の人々が切に願う基地の県外移設

沖縄の人は基地の県外・海外移設を求めている。これまで米軍基地があるが為に様々に苦しめられてきた。また、一度戦争が起これば殺戮の前線基地としての役割を果たす。かつてベトナム戦争では沖縄の基地からはB-52爆撃機が、連日のようにベトナムへ向けて飛び立っていた事実を忘れてはならないだろう。

もしも、沖縄の地元の人達が「日本の防衛の為には米軍基地が必要なのです。中国の第一列島線への防衛ラインとして米軍基地は不可欠なのです。その為には我々の犠牲は甘受しなければなりません。」と言うのならば当該記事など書く必要もない。しかし現実には沖縄住民の大半は県外移転を切望している。

日本政府は辺野古へ移設して実質永久的な固定化を狙っている。公明も創価もこれに加担することは『核も、基地もない、平和で豊かな沖縄』という池田名誉会長の思想に反することになる。

実質的な移設容認

政府・与党の推薦候補は、今回の名護市長選では基地移設のことに一切触れない戦法に出た。『争点隠し』に徹した選挙戦だった。地元経済の拡充策を強調した。しかし、辺野古移転に反対していないということは、このまま工事を止めるつもりもないし、移設も止めれないということだろう。実質的に容認姿勢である。

従来の方針から転換

これまでは全国的には政府・自民に追従していても、沖縄創価・公明では地元の民意を汲み取り基地反対の姿勢を貫いてきたようである。しかし今回の名護市長選挙で状況が変わった。辺野古移設に容認姿勢と見られている候補を推薦したのだ。その候補を推薦しているという事実を考えなければならない。

全国組織的に推進

『蓮の落胤』氏のブログによれば、今回の名護市長選挙では何と、公明党が推薦している候補への事実上の投票依頼・支援活動推進が全国創価学会組織において通達されていたようである。ひとつの地方選挙に対して全国組織的に推進するなど信じられない。沖縄住民の純粋な民意によって決められるべき地方選挙なのに、地方の民意が全国組織によって影響される構図になってしまうのだ。

創価の「平和」は空虚な戯言

では一体、創価が言う平和とは何のことを指すのか。「沖縄は永久的に基地を我慢せよ」というのか。結局は沖縄の犠牲の上に成り立つ平和を言うのか。創価は綺麗ごとを並べ立てているが、実際やってることは『沖縄の犠牲ありき』の米軍戦力バランスの上に成り立つ軍事的均衡への賛同である。

いくら『沖縄に幸福と希望の楽土を築こう』と綺麗な言葉で飾っても、その沖縄の人達に基地を永久的に押し付けて、その弊害(米軍兵士の犯罪・事故・トラブル、それを裁く権利すらない立場、軍用機や軍用部品の落下事故リスク、等々)を地元地域の人達に押し付けて、その犠牲の上に『幸福と希望の楽土』が築けるとでもいうのだろうか。

加えて、中国の人権弾圧への傍観も考慮すれば、創価組織の言う平和など空虚な戯言としか思えないのである。

末端会員が加担してしまう構図

そして、この実態を見極められずに創価組織の並べ立てる美辞麗句を信じ込んでいる末端会員の人達。彼らは組織が応援する候補が勝つことが平和の実現に前進していることを盲目的に信じているのだ。その結果が沖縄の犠牲を永続化することであっても。自分達がそれに加担したことも気付いていない。しかし、彼らはそのような現実を見ようとしない。「この勝利で池田先生の平和の構想がまた一歩実現に近づいた」と信じているのだ。ここに『組織おすがり信仰』の根本的な問題がある。


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創価は中国との友好を頻繁にアピールしている。

かつて旧ソ連と中国が一触即発の関係であった頃に、池田名誉会長が間に入って関係を改善させる一助になった、という美談が何度も語られてきた。

周恩来とその婦人・鄧穎超との交流も何度もアピールしてきた。

また、胡錦濤が中国共産主義青年団の第一書記であった頃からの創価との交流の美談や、池田名誉会長との対談、彼が主席になった時には聖教新聞で『理想のリーダー』かのように取り上げられた。だが、胡錦濤が中央に出世できた実績はチベットの大弾圧である。どれだけ多くのチベット人が犠牲になったか計り知れない。しかし創価はそこは一切伝えていない。聖教新聞だけしか読んでない一般会員は完全に情報操作されているのである。

一度も注意したことがない

周知のように、中国の国内ではチベット人・ウィグル人への弾圧、人権活動家に対する弾圧が絶え間なく行われている。

しかし池田名誉会長が表に出ていた時期から今に至るまで一度も中国に対して注意したことがない。近年では、劉暁波氏に対する苛烈な弾圧が有名だが、これも一切スルーしている。ノーベル平和賞受賞者が虐げられているのに、平和を標榜する団体が何の反応も示さないとは驚愕である。これでは創価が人権弾圧を黙認していると理解されるのが当然だろう。

巨悪を見て見ぬふり

かつて池田名誉会長は「傍観主義は敵である。悪を見て見ぬふりをする者は悪と同じである」と訴えた。中国によるチベット人・ウィグル人・人権活動家に対する巨悪を見て見ぬふりを繰り返している創価の姿はそっくりそのままこの言葉に当てはまらないだろうか。

間違いは指摘すべき

創価は聖教新聞等々で、池田名誉会長のスピーチ等々で、事あるごとに周恩来・鄧穎超を讃嘆し、魯迅や孫文を賛美し『社会悪と戦う民衆』『虐げられた民衆が立ち上がる姿』を強調してきた。また中国を「日本の文化の師匠の国」と持ち上げ、褒め称えてきた。賛美すること自体は別に構わない。だが、間違っていることがあれば指摘せねばならない。

名誉称号の授与の代償

池田名誉会長が中国の大学や教育機関から多くの名誉学位を授与されていることを盛んにアピールしている。しかし、この名誉称号の授与の代償として、中国の人権問題に関して一切批判が出来無い体質になってしまった。チベット弾圧や、ウィグル弾圧や、劉暁波氏などの人権活動家への弾圧に関して一切批判のメッセージが出せないようになってしまったのだ。

「一体これのどこが平和と人権を唱える宗教団体なのだろう?」と疑問に思わざるを得ない。

また、別の観点から見れば、池田名誉会長への名誉授与は膨大な数になっているが、「では果たして中国の広宣流布が進んでいるのか?」と考えた時に、実は少しも進んでいないのだ。この数十年間まったく進んでないのである。いくら池田思想が評価されても、布教には何の役にも立っていない事が証明されている。

耳の痛い忠告でも

創価が『平和と人権を標榜する団体』というのならば、中国に対して、人権問題をハッキリと注意すべきである。もしも、それで交流を打ち切られるようなら、それまでの相手だったということだ。

本当に『真の友人』ならば、耳の痛い忠告であっても間違っていることは指摘せねばならないだろう。それが友人の務めではないだろうか。


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以前に紹介した「生かされるまま生きる」のイプシロン氏の見解はこうである。
死んだ後というのは、われわれは無情になるのですから、基本なにも感じないというのが正しい推測でしょうね。 意識が無い、無情になった=「無」です

宿命というのも同じです。結局のところ、この世に生まれてきてから自分でつけた心の習慣によってとってしまう行為のことです。それをさも前世からあったように説く宗派はインチキ仏教なわけだ。しかも来世に持ち越すとかいうならもっとインチキなわけだ
このように彼は死後の生命を『無』と言い切り、何も感じないと言い、三世の生命も否定している。それを説く宗派を『インチキ』と断定している。

人間というのはどこまで都合の良い『我見解釈』をするのだろうか。偉大な仏法という絶対の法があっても、人間の勝手な解釈で捻じ曲げて用いると不幸な結果になってしまう。このイプシロン氏を見ているとつくづく思う。

幼少の頃の虐待体験

そんな彼自身、幼少の頃の父親に虐待された体験が今でもフラッシュバックし蘇る。思い出したくない過去なのに自らの意思でコントロールできずに随時湧き上がってしまう。彼を苦しめている幼少の頃の虐待経験、これぞ生命に刻み込まれた消えない一念である。仏法では『蔵識』ともいう。

父親に虐待された場所・部屋、その時の風景や父親の鬼のような形相、その時に感じた恐怖、苦痛、逃れたい渇望、次から次へと湧き上がってくる。仏法上から見れば、その場所は国土世間である。地獄の地獄の生命であろう。五陰世間の識で認識をして、色・受・想・行、次から次へと感じる。

現代人が陥りがちな思考

この現世においてすら、感情・一念のコントロールすら全く出来ないのに、死後の生命を否定し、無だと主張し、都合の良い解釈をする。現代人にありがちな軽薄な思考である。夢で父親からの虐待を見ることもあるだろう、そのもっと強い状態が死後の生命の姿である。夢の中で悪夢を自らの意思でコントロールできないように死後の世界も主体的に制御できない。

普段は意識をしていない、だが生命の奥底に刻み込まれて永遠に消えない。自らの意識で消し去る事ができない。仏法ではこの生命を説いている。人間の人生はこのような一念の積み重ねである。これは死後の生命も続くと説かれている。死後も『我』は存在し、苦しみ、楽しみ、感じる生命は厳として存在するのだ。すなわち、死後の生命は『空の状態』の存在である。


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