創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年12月

先の記事で紹介した「生かされるまま生きる」のイプシロン氏、「気軽に~」の渡辺氏、Libra氏、yurukatsu21 氏、等々。様々な本を読んで学んだ結果、初期仏教(原始仏教)に固執する人達が多い。彼らは初期仏教こそが釈尊の唯一の直説だと思い込んでいる。頻繁にスッタニパータの一節を投稿してアピールしている。

私は、初期仏教に関して学ぶ事を否定しているわけではない。だが、そこに固執するあまり視野が狭くなり思い込みが激しくなっているのが残念なのである。

教義の優劣をつけない曖昧な姿勢

そして彼らは「宗派の優劣を主張するな」「他経より優れているというのは排他的である」と優劣をつけることを悪とみなしている。教えの浅深など一切考慮しないのだ。ある意味、日本人的な「宗教なら何でもいいね」という風土そのものである。

宗教の優劣を評価しなければ、極端な例を挙げれば、一向一揆でも、イスラム原理主義でも「それぞれ魅力があっていいね」となってしまう。教義の優劣をつけない姿勢こそ堕落なのだ。

十二因縁や四劫を学んでも

さて、スッタニパータ中では説かれていないが、初期仏教の枠組みは阿含部とされ、ここに十二因縁が入っている。この十二因縁とは縁起で説かれる一貫なのだが、老死から始まる人間の苦悩の根源が説かれており、その突き詰めた根源こそが無明である。陥りがちなのは、流転と還滅を行うことにより、根本の苦悩が消滅し、輪廻転生も無くなる。と解釈してしまう傾向にある。彼らはこのような我流解釈によって「死後の世界は無に帰する」という虚無思想に取りつかれてしまうのだろう。
(ちなみにスッタニパータでは『二種の観察』が説かれている。)

四劫(成住壊空)を学んでも、彼らの我見解釈によって無常観や厭世観に取りつかれてしまう。

彼らは釈尊の説いた死後の地獄界等を単なる教訓程度にしか思っていない。厳粛な生命の因果律である『業』(善業・悪業)を信じず、「死後の世界は無に帰する」と思い込めば、虚無思想に捉われるのは当然だろう。

三世の生命を否定すれば

生命が、この現世のみであれば「何をやっても良い」「どんな卑劣な事をしても(露呈しなければ)成功した者が偉い」という発想になる。どれだけ裏で悪逆非道の限りを尽くしても成功すれば、それが表に露呈しなければ善人を装い続けることができて賞賛されるのが現実社会である。

逆に、どれだけ人類の為に、地球の為に尽くした人生であっても、それを隠蔽されて改竄されて悪者にされれば未来永劫その人は悪人、或いは無かった存在となってしまう。

彼らの浅薄な論理ではこのような人達を正当に評価する基準を持たない。つまり、このような人達は、結局は『成功者』を認めざるを得ないのだ。

日蓮仏法を信仰の根本に置かず『我見解釈』をする人達は、このように根無し草のようなフワフワとした思考になってしまう。

以前から「生かされるまま生きる」というブログに注目していた。管理人はイプシロン氏。作家志望の人で自身の内面世界を余すことなく披露しているブログである。本人は学会員で今は非活動になっている。作家志望というだけあって、非常に読書量が多く様々な書から学ばれている。また、ギャラリーには綺麗なイラスト画像集も置かれている。

また、幼少の頃の虐待やいじめの辛い体験や、精神的に厳しい時期があったようで、自らの命を絶とうとするほど生と死に苦しんだようで、その辺りも包み隠さずに書いている。

驚くべき思想の変遷過程

数年前の記事から段階的に追っていくと、思想の変遷がバラエティに富んでいるのに驚く。最初はブログ村の創価カテゴリによくいる純粋な活動家そのものであった。ところが現在は初期仏教に傾倒しているではないか。彼の内面に何があったのか、これこそが当該ブログの最大の特徴だと感じる。

確認できた事をざっと整理してみると

創価バリ活そのもの

・純粋で疑うことを知らない活動家の心の時期
  この頃は、創価村ブロガーの「ちよ氏」や「ラン氏」達と交流をしていたようである。
  同志の為に同盟題目を送る、というやりとりもしていた。
・池田名誉会長を『先生』『師匠』と心から慕っていた時期
  歴代会長の指導内容を日々噛みしめて糧にしていた。
  『今日より明日へ』や『青春対話』を研鑽していた。

池田絶対主義へ

・公明党に疑問を抱き始め、その疑問を強くしていた時期
  現執行部への批判を強めていた時期
  しかし池田名誉会長や歴代会長への絶対の心服は依然として保ったままであった。
  この時点では某三人組などの池田絶対主義者の方々と同じ見解だろう

アンチ創価へ

・創価の歴史を検証しはじめ、牧口会長・戸田会長・池田名誉会長の実像を追い求めた時期
・「創価ほどおかしな団体はない」と主張するようになる時期
  「創価の信心は仏教ではないし、いわんや日蓮仏法でもない」と批判している
  「ようするに、池田思想とは、仏法を恥しめる外道思想だということだ」
   と、かつて敬慕していた対象を徹底的に否定している

日蓮仏法を我見解釈

・日蓮仏法への理解・解釈を、我見により独自のものへと変形させていった時期
  日蓮本仏論はおかしいと主張している(釈迦本仏論)
  御義口伝も偽書との見解を示している
  瞑想だの、止観がどうのこうの言い出し始める

仏法に懐疑的になる

・大乗経と小乗経という分類に懐疑的になる。
・仏教は、願いや、祈りや、誓いを立てるものではないと主張するようになる。
・「仏教は心を哲学(正しく認識)するための学びであり、
  そしてそうして見出した無の心を仏法と呼んでいるわけだ」と主張するようになる
  まるで唯識派の論調になる。

宗教そのものを否定

現在は「宗教」そのものに懐疑的な見解を示している。「宗教は他者を排除するもの」と斬り捨てている。彼の言い分によると、(特に大乗)仏教で説かれる「諸天善神」は他宗教の神々を勝手に再定義しているので、それは「結局のところ他人の思想を認めない排除性になってしまう」らしい。更に、教義の中で、国家や国王のことを説かれている宗教もダメという。そして、そのような事が説かれていない初期仏教こそ彼の理想であるらしい。

わずか数年で、ここまでバラエティに富んだ思想の変遷を辿るとは驚きである。しかし、行きついた先が初期仏教であるとは何とも残念だ。

現実に通用するのだろうか


左派に特徴的な原理主義傾向

本人は平和主義者で、護憲派であり、純粋に平和を願う心が強い。北朝鮮とは圧力ではなく対話重視で行くべきとの見解を何度も繰り返し主張している。ある意味『潔癖』というほど原理を求める傾向にある。このような人は現実に於いて妥協を許さない。現実と折り合いが付かなく苦しむ。左派に特徴的な性質である。彼が、何度も理念を説きながら、現実に於いて何の行動も出来ていないのが何よりの証明である。

「三世の生命」を否定し虚無思想に

初期仏教に固執する余り、死後にも生命があることを信じられず否定する様を見ていると痛々しい。見たところ、イプシロン氏は虚無思想に陥りつつある。現実の生も虚無、死後も虚無と認識してるようだ。このまま破滅的な思考にまで到達しなければ良いのだが。日蓮仏法を学ぶ機会がありながら、このような『我見解釈』によって無だの虚無だのに捉われる様を見ているのは痛々しい限りである。

生死の極限状態になった時に

自殺を否定する理由を『人間も自然の摂理の一部だから、そこから逃れるのは不合理だ』と無理矢理に自分自身を納得させているようだが、そんな付け焼き刃の考えで現実に太刀打ちできるとは到底思えない。例えば末期癌で苦しんでいる状態、常に間断なく激痛に苦しむ状態、その苦しみから『尊厳死』という考え方が確立したのだが、彼のような現実離れした夢想家では到底現実の生死に抵抗できるとは思えない。大病を患うか・生活が根幹から破壊されるような状態になったときに初めて気付くのだろう。


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池田名誉会長は、2010年から7年間もの間、一切表に出ていない。だからといって『完全引退』した扱いでもない。未だに「新人間革命を毎日書き続けてる」「主要な会合や、授与式には常に本人の含蓄深い言葉を送る」という設定で組織の最前線でメッセージを贈り続けている存在なのである。一般会員は誰も本人を見ていない。見るのは過去のスピーチ等々の使い回し映像である。幹部連中は決まって「お元気な池田先生が」と枕詞のように言い続けている。誰がどう見ても、こんな組織運営は異常であろう。『永遠の師匠』という偶像を維持するのに躍起なのである。

人生の総仕上げの時期に

かつて池田名誉会長は「臨終の時は人生の総決算である」と強調していた。人間革命にも、戸田会長が逝去の前に「みんな、私の死相をよく見ておくのだ、ほんとうの成仏の相とはどういうものなのか教えておきたいのだよ。」と語った事が記述されている。この文章を書いたのは池田名誉会長自身なのである。「人生の総仕上げの数年間が最も重要である」と常日頃から言っていたではないか。ところが自分の人生の総仕上げの最も重要な時期に、人前に一切出なくなった。これでは会員が疑問に思うのも当然である。

瀬戸内氏は同じ90代でも人前に出ている

宗派は違うが、著名な瀬戸内寂聴氏は90歳を超えても尚、人前に出て講義をしている。まさに人生の総決算の時に、このように堂々と人前に出て、自分の人生で培ってきた経験を余すところなく語る姿を見ていると感じるものがある。その内容・教義の浅深はともかく。一方、日蓮仏法という最高の仏法哲学を推進してきた池田名誉会長の最晩年の姿はどうなってしまったのだろうか。

皆の前に、有りの侭の姿を

仮に脳梗塞で普通に喋る事が出来ない容態であっても、ありのままの姿を見せることが、最も重要ではないだろうか。『病魔と必死に戦う』その姿を見て馬鹿にする人はいないだろう。老トルストイが最晩年に家出をして生死の闘争をしたように、むしろ感銘を覚えるだろう。どんな状態であろうが、ありのままの『人間・池田大作』で人前に出るべきである。

動画メッセージすら出せない

別に会合に無理に出席する必要は無い。自宅のソファやベットから激励の動画メッセージを贈る等でも良いではないか。今の時代ならスマホで簡単にできることだ。時間が空いている職員が一人いればスマホで撮影して動画をアップできる。それすらしないのは隠蔽体質と批判されても仕方が無いだろう。

今までの発言の信憑性が問われている

もしも、このまま一切表に出ること無く鬼籍に入るとしたら、今までの『総仕上げの発言』は一体何だったのだ。己の発言に責任を持ってもらいたいものだ。「自分だけは特別・例外である」というのは通用しない。全世界の会員に有りの侭の姿を見せて欲しい。


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「気楽に~」の渡辺氏など、思慮の足りない連中が一念三千の法理を軽んじている。

「創価学会員や大石寺信徒は、よく「十界論」を使って「あの人は修羅の命です」とか「二乗の心だなぁ」とかそんなことを言います。 私から言わせれば「たかだか10種類で人間の生命状態が弁別できるのか」ってことです。百界千如でも一念三千でも同じです。 あまり浅はかなので十界論はやめましょう。」
「十界論とは人の心には傾向性が有る事を認識させるには良い理屈と思いますが、絶対的な理論ではないと思います。またそれは一念三千についても同様かと。鎌倉時代あたりまでは良かったのかもしれまが、現代では物足りないね」
などと嘯いている

根拠もなく否定するだけの輩

ならば問いたい。現代において、一念三千以上の精緻で鋭い分析が他にあるのだろうか。もっと素晴らしい理論があるのだろうか。一心三観・三諦円融を越える分析力があるのだろうか。そんなものがあるのならば是非とも教えて欲しいものだ。

否定するだけなら誰にでも出来る。猿にでも出来る。ここまで言い切るならば、せめて『一念三千を越える精緻な分析手法』を提示してから否定をするのが最低限のマナーだろう。単なる否定したいだけの子供でもあるまい。

牧口会長は

創価の牧口会長はカントの理性批判を学んだ。当時の学べる欧米の最新哲学を徹底的に研究した。しかし、それでは全然物足りなかったのだ。やがて日蓮仏法に入り、その法理の奥深さに感銘を受け生涯を捧げたのは有名である。

人間生命への観察力は

中国の唐の時代、日本の平安・鎌倉時代の仏法哲学よりも、現代哲学の方が上だと何を根拠に言い切れるのだろうか。人類の科学分析力は向上したが、生命への観察力は向上したのだろうか。むしろ哲学のレベルは現代において著しく低下してるとしか思えないのだ。技術がこれだけ進歩しても、人間生命を洞察する力は逆に衰えてきているのではないか。

「浅はか」なのは渡辺氏

「気楽に~」の渡辺氏などは「ただ否定するだけ」の低レベルな輩である。とにかく気になったものを全部否定して「自分がそれより優れている」と思うものは一切提示しない。己で創造することもできない(渡辺哲学や渡辺教)。この輩は具体的に「己が優れていると思うもの」を一切提示しないのだ。『浅はか』なのは彼自身であるのは明白だろう。

破仏法の輩の目的は仏法を全否定することである。やれ「偽書だ!」「現代には通用しない!」とオウムのように連呼するだけである。こんな輩どもに惑わされてはならない。


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よく「創価の会員は功徳を求め、現世利益だけを追い求めている。それは信仰ではない」と高尚ぶって批判してる輩がいる。

人間として生まれた限り、願望・目標を持ち現世利益を願うのは当然である。何も間違っていない。

人間に悩みがあるから信仰をする。そもそも人間の悩み・苦しみ・病苦・死への恐れから信仰が誕生したのである。それが人間として本然の姿ではないか。

日蓮仏法は『現世安穏・後生善処』(法華経・薬草喩品)である。「願くは『現世安穏・後生善処』の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」(持妙法華問答抄)と仰せの通りである。

現世において功徳を求め、現世安穏を願う。自身の幸福と周囲の人達の幸福を願う。そして後生の為に幸福の因を積み来世以降に備える。これが信仰者として自然な姿であろう。

その自然な信仰心を批判して『高尚な知識』だけを求めてる輩に何の価値があろうか。


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創価が全て間違いと断じるつもりも無い、全て正しいと妄信もしない。戦後の焼け野原からの復興の時代に於いて創価の果たした役割もあっただろう。一方、宗門が全て正しいとも思わない、すべてが間違いと断じる事もしない。鎌倉・室町・江戸・それ以後の時代に於いて日蓮仏法を守り受け継いだ役割があった。それぞれの組織が理想に基づき活動をしている。仏法で説かれる『如来如実知見』ありのまま、一つ一つを正確に実態把握すべきである。

個人として、日蓮仏法を信奉する組織とどう関わるか。私の考えは、必要に応じて、創価の人とも交流すれば良いし、宗門の人とも交流すれば良い、顕正会の人とも交流すれば良い。ただし組織主義に取り込まれてはならない。教学の対話をするのは良いが、不毛な本尊論争や教義論争をすべきではない。無理そうなら交流を止めれば良いだけの話である。組織に飲み込まれそうになるなら、距離を取るか交流を止めれば良いだけである。某三人組の人達と交流をしても良いだろう。ただし組織の為の活動に入り込むのはお勧めしない。海外の日蓮仏法を信仰するメンバーとの交流も良いだろう。ただし言葉(特に仏法用語)が通じるか難しい点もあるが。

大事なのは、自分自身の生活の向上であり、自分の周囲の人達を幸福にしていく事である。その為に日蓮仏法があるのだ。あくまで人間の交流が大切なのである。

現在の創価は組織主義・組織維持の為の活動が主体である。主体が選挙活動・聖教や機関誌啓蒙・民音などの維持・本尊流布も成果ノルマ主義である。宗門も総登山に相も変わらず躍起になり、寺の僧侶に信仰の核心部分をお任せして、ご供養・おすがり信仰になっている。顕正会は終末思想で煽り無謀な勧誘活動を続けている。これらの組織の打ち出しを無条件で信じることは、結果として、視野狭窄になり『組織人間』となり『おすがり信仰』となる事が避けられないだろう。

組織はあくまでも補助である。組織は時代の必要性と共に変化をする。現在に於いて、いずれの組織も専門職員や専門僧侶というものは必要が無いだろう。宗教でメシを食っている『専門僧侶』がいると保身が強くなり組織信仰に陥る危険性が増すからだ。今後は有志によるボランティアで維持すれば良い。


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無量義経が偽経でないことの続きである

まず否定派学者の主張
「翻訳者・曇摩伽陀耶舎 の伝記が不明で、翻訳された年月もその関係者の氏名も明らかでなく、その他に経典を翻訳したかどうかも不明である」
「当時海上から渡来した梵僧は皆宋斉の都金陵へ来ているのに、何故彼が広州に住まって京都まで来なかったか不審である」


『仏教経典総論』の南斉の訳経を参照すれば、翻訳者の詳細が記載されていないものもある。(国籍が不明であったり、訳経地が不詳だったり、翻訳年月や関係者が記載されてないものもある)
そして、この資料から当時は大半の経典が広州にて訳されていた事がわかる。

当時の経典の訳に携わった関係者は、仏法への信仰心が篤く、自らの名声を得ることよりも経典そのものが流布することを願っていた為に、名を残さないことは多々あることだった。現存の収録されている経典でも「訳者不明」というのはよく見られる。

(以下、少しずつ補足)



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