創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年11月

諸法実相抄に「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」と仰せの通り、我々凡夫こそが無作三身(法身・報身・応身)をそなえた仏の実体である。

凡夫とは、もちろん別しては大聖人のことを指される。また総じては大聖人の教え通りに自行化他にわたって日蓮仏法を行ずる一切衆生がこの凡夫に当たる。

凡夫が本仏なのである。特別な能力が無い一般庶民が本仏なのである。ここが核心部分なのだ。だからこそ私は日蓮仏法を信奉しているのだ。

自分と大聖人の間に『隔絶』があってはならない。

いかなる宗教でも、神仏などの『絶対なる存在』が上であり、人間はその下に位置付けられてきた。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、実は凡夫の迹であり用(働き)である。まさに革命的な宣言である。

だからこそ、それを体系的に教義整理された日寛師が重要なのだ。

さて、このような文を書くと本覚思想と思う人もいるだろうが。本覚思想の歴史(起信論から天台本覚思想に至るまで)を様々に調べ検討したが、まずは「凡夫は本来仏なのだから何の修行もしなくて良い」という明らかに怠惰な思想ではダメである。


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宗教は所詮は三世の生命への力用に尽きる。死は避けられない。誰しも必ず死は訪れる。これを避ける思想・哲学・宗教など無価値であろう。死の厳粛な審判の前には蓄えた知識など何の役にも立たない。ただ実践の完全燃焼しきった生命でしか太刀打ちできない。知識をこねくり回すだけの人が多いが、死後の世界には何の役にも立たない。

釈尊が仏法を説いたのも。生老病死が避けられないことへの対応であった。三世の生命に渡って幸福になる道であった。大聖人も同じである。

命のリミットが迫っている人に

現実に、いま、末期癌などの重い病気で命のリミットが迫ってる人がいる。このような状態に置かれた人にとって、僅かな知識を増やしたところで何の満足ができようか。

だが、日蓮仏法では、このような人でも唱題行で三世に於いて幸福になれるのだ。

天台の修行は

天台の止観の十乗観法の修行は一般庶民には極めて困難である。非常に高い能力を必要とする。それこそ千人・万人に一人が悟達できる難易度だろう。それでは実際の上では一切衆生を救済したことにはならない。ゆえに大聖人は唱題行という究極の実践法を弘められた。

専修念仏では

唱題行として法然の念仏は有名だが、修行法としては平易なため一般庶民からも多くの支持を得て、僅かの間に急速に浸透した。この点は着目すべき点であろう。

だが悲しいかな専修念仏では幸福にはなれない。娑婆世界とは縁のない阿弥陀仏を本尊として拝んでもダメである。『捨閉閣抛』と法華経までも捨てているのだから一切衆生の成仏への道を閉ざしているのである。



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創価の活動は成果主義が顕著である。
選挙支援活動の集票目標(K・F・Z)・聖教新聞推進・新聞の配達・各種チケット推進・本部幹部会チケット参加目標・会合の集票目標・本尊配布目標・書籍推進・各種集金・財務の推進 etc、枚挙に暇が無い。ありとあらゆる活動にノルマ報告がつきまとってくる。生命保険の営業担当も真っ青になるノルマの嵐である。

目標設定はあくまで補助

目標を持つこと自体は悪い事ではない。法華経の化城諭品第七でも目標の大切さが説かれている。しかし活動の全てにノルマを課す方針はいかがなものだろうか。目標設定はあくまでも方便なのである。補助的な要素なのだ。化城諭品で説かれているのは『仮の城』なのである。自分自身と周囲の人達を幸福にするのが本当の目的なのだ。その為に目標を設定して成長を促すのだ。だが、今の創価の成果ノルマ主義を見ていると、これでは本質を見失い人材を潰してしまう。

成果主義が顕著な婦人部

特に婦人部が顕著である。まるで仕事のように熱心に履行しようとする。成果が給料に反映されるワケでもないのに、なぜそこまで必死になるのだろうか。婦人部の方々を見ていると、目の前の数字の事で頭が一杯なのだ。それをどうやりくりするかで頭が一杯なのだ。自分の担当の目標部数に届くか届かないか、無理そうならば自分が聖教新聞をもう一部購読する人までいる。そうやって何とか報告できる数字までもっていく。そのやりくりで日々の時間と精神を消耗させてしまっている。自分の活動を客観視する余裕もない。これが主たる活動内容なのである。

「組織依存」を教え込まされる

一体これのどこが信仰活動なのだろうか。これが広宣流布に直結すると主張しているのだ。一体どこでこんなものが信仰活動だと教え込まれたのだろうか。

入信した頃はこんなノルマに追われる日々など想像できただろうか。入会した理由は、座談会の和気藹々とした光景や、折伏相手の人柄の良さに惹かれたのではなかったのか。それらに自分の(人生の未来)希望を見出したのではなかったのか。

ところが、役職を与えられると、自分に責任が発生してくる。組織側の人間に組み込まれると、やがて意識が変わる。いつしか目標数値を達成することが活動の主目的にすり替わって来る。

組織活動の為に家庭を犠牲に

本来は家族の為に使う時間を放棄して、ノルマ達成する為に駆けずり回り、頻繁な事務連絡に追われる。これのどこが『一家和楽』につながるのだろうか。一体何が得られるというのか。

このような活動は、大聖人の仏法の本質を見失っている事にどうか気付いて欲しい。

勿論、御書学や折伏・仏法対話などの活動も行っていることは承知している。その上で、成果主義のウェイトが余りにも過大なのである。そのせいで本来の御書研鑽の時間と気力が奪われてしまっている。これでは本末転倒である。この誤りを指摘せざるを得ないのだ。


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生命論として、「気楽に~」渡辺氏だの、運ちゃん氏だの、蓮の烙印氏だの、こういう実際に折伏も人を救う行為を一切やってない連中よりも、創価や宗門(や顕正会も含めて良いだろう)でバリ活動の人達の方がよっぽど生命は輝いているだろう。なぜなら実際に現場で折伏しているのはこの人達だけなのだから。最前線で今も仏法対話をしている人に敬礼したい。

組織から離れた連中は、例外なく『傍観者』となる。二度と折伏などしなくなる。

その典型が「気楽に~」である。渡辺氏を見れば明らかだ、あの輩は日蓮仏法を否定することに全精力をつぎ込んでいる。挙句の果てに創価ネタで遊んでいる始末である。要するに、ただの創価ウォッチャーであり、趣味で観察しているに過ぎない。

悲しいかな、これが事実なのである。

以前に創価を去った人達のその後を整理してみたが。宗門に移った人を除いて純粋に日蓮仏法への信を貫いている人は皆無と言う他ない。

運ちゃん氏など「ありのままの日蓮を探求する」などと偉そうな事を言っても、単なる『傍観者』に成り下がっただけである。創価組織を批判するのは良いが「では自らは何をしているのか」と問われたら何と答えるのか。何もせず、ただ眺めているに過ぎない。彼の姿勢はまるで上座部仏教の出家僧侶ではないか。対して創価の一般会員は大衆部に見える。

この連中の、このような姿を見ていると深く考えさせられる。僅かばかりの知識が増えたところで、それが自らの生命の養分になっているのだろうかと。そして、その生涯を終えるとき蓄えた知識など、厳粛な死の前では粉々に砕け散り微塵も役には立たないだろう。

生死一大事血脈抄に「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して」と仰せのように、今臨終を迎えても恥ずかしくない信仰をしなければならない。『観念の遊戯』では意味が無い。

だからといって組織の打ち出し指令のまま盲従する『組織おすがり信仰』を賞賛する事は出来ないが。


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「気楽に語ろう~」の渡辺氏。この輩は『創価ネタ』で遊ぶのが趣味なようである。

創大学園祭に無断で潜入してネタで遊ぶ

先日「危険だらけの気楽非活・創価大学巡りツアー」というタイトルを付けて、創価大学の学園祭に勝手に「潜入」してツイッターで実況して”自分の存在がバレるかバレないか”のスリルを売りにして遊んでいた。取り巻きがツイッターで「バレないうちに逃げて!」などと反応して内輪で盛り上がっていたようだ。
気楽非活の行く「スリル満点! いつ尾行されるかもわからない! 危険な創価大学巡り!」いよいよ終盤です(笑)。 今のところメッチャ楽しいです。食べ物も美味しいし、学生たちは楽しそうでいいですね。 尾行されたらリアルタイムでツイッターでお届けします(笑)。

次の会長アンケート・ネタで遊ぶ

更には「創価の次の会長候補アンケート」などと称して、候補に芸人のナイツを推して、自分の妄想コントを披露している。センスのカケラもない内容なので一つたりとも笑えなかったが。(寒いコント文章を見たい方は直接彼のブログ記事からどうぞ)
さてTwitterでつい遊んでしまいまして「次の創価学会の会長は誰がいいですか」アンケート機能を使ったら、ナイツがぶっちぎりの優勝となってしまいました(笑)。以下、私の妄想です。念のため(笑)。

サッカーの創価ネタで遊ぶ

また、ワールドカップ開催時期には、『マイベストイレブン』と称して、このような妄想で遊んでいた。
マイベストイレブン⁠創価学会版
GK 池田大作
DF 北条浩
DF 原島宏治
DF 秋谷栄之助
DF 宮田幸一
MF 原田稔
MF 正木正明
MF 波田地克利
FW 弓谷照彦
FW 山崎正友
FW 谷川佳樹

アンチ創価と同じ低レベル

『仮想敵』の創価ネタで遊べて随分ご満悦のようである。スコッチ・ウイスキーを愛飲してるらしいが、酔っ払いながら一連の創価ネタ遊びで悦に浸ってるのだろうか。

もうここまで来ると、やっている内容がアンチ創価と同じレベルである。『静かに創価学会を去るために 』という有名なアンチ創価ブログがあるが、そこで常連の数人が(学会批判の)替え歌を作って内輪だけで盛り上がっている。あれと同じレベルという他ない。

軽薄な人格が滲み出ている

これらの所業を見ても、この男のやってることが単なる観念の遊戯であることは明白だろう。僅かな知識をこねくり回して遊んでいるだけなのである。何の哲学も持っていない輩なのである。日蓮仏法を捨て去り、『仏性』まで否定して釈尊に弓を引く輩であるから当然ではあるが。

こんな創価ネタで遊んでる輩が「私は、創価や宗門の皆さんに屹立した信仰を求めます」と平気な顔をして言ってるのである。寝言は寝てから言って欲しいものだ。まさにブログのタイトル通りの「気楽~」で軽薄な輩である。

他人に対して偉そうな物言いをする前に、まず自分自身の人格を磨くべきだろう。彼は相手を見下す『(笑)』という文字を多用するが、相手がどれだけ不快に思ってるかよくよく考えることだ。いくら知識を詰め込んでも相手に対する配慮が出来ないようでは価値がない。


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大石寺第26世日寛師。江戸時代の大哲学者と言えよう。六巻抄の深さ。日蓮正宗にはこれほどの大碩学を生む素地があったのだ。日興上人が起こした富士門流はやはり偉大である。

三重秘伝鈔
「三世間とは五陰と衆生と国土となり。五陰とは色・受・想・行・識なり、言う所の陰とは正しく九界に約し、善法を陰蓋するが故に陰と名づくるなり、是れは因に就いて名を得。又陰は是れ積聚なり、生死重沓す、故に陰と名づく、是れは果に就いて名を得。若し仏界に約せば常楽重沓し、慈悲覆蓋するが故なり。次ぎに衆生世間とは十界通じて衆生と名づくるなり、五陰仮に和合するを名づけて衆生と曰うなり、仏界は是れ尊極の衆生なり。故に大論に曰わく、「衆生の無上なるは仏是れなり」と。豈凡下に同じからんや云云」
五陰を『陰蓋』覆い隠すという意味と、『積聚』積み集まるという意味と二重に解釈されている。その上で、善法を陰蓋する因の面、この場合、生死重沓、生死の苦悶が重なると拝すれば良いのだろうか。一方で、仏界に約せば慈悲覆蓋という果の面、これを常楽重沓と表現されている。よって因果に即して配されている。日蓮仏法は従果向因である。日寛師はこの従果向因の観点からこの文を用いられているのだろう。

何と深い洞察なのだろうか。大聖人の仏法の偉大さをよく顕されている。

日寛師が偉大な点は「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、連祖聖人なり」と大聖人と我々凡夫との隔絶を取り除いた点であろう。日蓮仏法の解説者としては最適者であった。

諸法実相抄に「仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」と仰せの通り、我々凡夫こそが無作三身(法身・報身・応身)をそなえた仏の実体である。

当時の大石寺は体系化した教義が確立しきってなかった。日寛師が、大聖人が末法の教主であり、末法の仏である事を明確にした功績は極めて大きい。


以下は当体義抄文段である
一、本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華等文。
 即ちこれ、文底秘沈の妙法、我等が旦暮に行ずる所の妙法なり。迹門は開三顕一の妙法、文の妙法、熟益の妙法なり。本門は開近顕遠の妙法、義の妙法、脱益の妙法なり。文底は本地難思の境智の妙法、意の妙法、下種の妙法なり。当に知るべし、迹門は華の如く、本門は蓮の如く、文底は種子の如きなり云云。「本地難思」等とは、総勘文抄に云く「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」云云。下の文に云く「地水火風空とは即ち妙法蓮華経なり」云云。五百塵点劫の当初なり、故に本地という。「知」とはこれ能証の智なり。「我が身」等とは所証の境なり。故に「境智」という。我が身即ち地水火風・妙法蓮華とは、即ちこれ本有無作の当体蓮華なり。是の如く境智冥合して、本有無作の当体蓮華を証得する故に、「即座開悟」というなり。当に知るべし、「凡夫」とは即ち名字即、これ位妙なり。「知」の一字は能証の智、即ちこれ智妙なり。以信代慧の故に、またこれ信心なり。信心はこれ唱題の始めなるが故に、始めを挙げて後を摂す。故に行妙を兼ぬるなり。故に知んぬ、我が身は地水火風空の妙法蓮華経と知しめして、南無妙法蓮華経と唱えたまわんことを。即ちこれ行妙なり。「我が身」等はこれ境妙なり。この境智行位は即ちこれ本因妙なり。「即座開悟」は即ちこれ本果妙なり。これ即ち種家の本因・本果なり。譬えば蓮の種子の中に華・菓を具するが如きなり。当に知るべし、前には一念の心法に約して境妙を明かし、今は本有の五大に約して境妙を明かすなり。心に即して色、色に即して心なり。人法体一の本尊これを思え。 
言うまでもなく、本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華とは、南無妙法蓮華経のことであるが、この妙法の当体を、まず本地を尋ね、境智の二法から論じ、本有無作と開くのである。
日寛師は、本因妙・本果妙。因果俱時。人法体一の本尊まで解釈している。


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リアルでも、ネットの世界でも創価と宗門の不毛な罵倒の応酬が続いているが、原因はハッキリ言って些細な事に思える。

創価側は「大御本尊を受持の対象に戻します。」と言えば済むだけの話だろう。元々歴代会長もそう言ってたのだから。宗門から破門された直後は「大御本尊様を取り戻す!」と気勢を上げてたではないか。「やっぱり検討した結果、大御本尊を受持の対象に戻します。」とすれば収まる話だろうに。そんなに宗門からの影響力を一切排除したいのだろうか。

宗門側もコピー御本尊を認めれば良いではないか。コピーとはいえ相貌は日寛師の直筆と変わらないのだから。

お互いに「阿鼻地獄に落ちる」だの、「魔の神通力」だの、「極悪と戦えば極善となる」だの、同じ日蓮仏法の信者同志で、よくもまぁここまで酷い罵詈雑言合戦ができたものだ。

組織のトップが方針を変更できないのなら、一人の信徒の立場で「創価組織はそう言ってるが、自分は内心では大御本尊を受持の対象から外してないよ。」という考えにならないものか。組織の大幹部が決めたら、それで全部従うような盲従の姿勢で良いのだろうか。過去の指導との矛盾点すら整理できないのだろうか。

解釈の仕方一つの話なのに、ここまで分断され敵対しなければならない話なのだろうか。大聖人が御覧になれば、どれほど悲しまれるだろうか。人間に生まれて逢い難い日蓮仏法に巡り合えたのに、こうして一生を終えてしまうのだろうか。


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近年、ゲノム編集技術が急速に進展している。CRISPR-Cas9という手法(モジュール式標的システム)が生み出されたことにより、狙った遺伝子の塩基部位を欠損させたり(ノックアウト)、入れ替え(ノックイン)させたり簡単に出来るようになった。

研究段階では、筋肉量が通常の2倍ほどある牛や魚を生み出したり、皮膚の色が全く無い動物を作り出したり。ある遺伝子を欠損させることにより特定の疾患を引き起こしたり、逆に変異部位を正常な配列に戻すことも可能になった。CRISPR-Cas9を使うと極めて正確に簡単に遺伝子操作が可能になった。

そこで問題視されてるのが人間への応用である。ヒトの受精卵に、遺伝子変異の部位をゲノム編集で改変して治療するという行為が許されるかどうかである。例えば先天的な心臓病の遺伝子疾患が判明した場合に治療すべきかどうかということである。アメリカの研究チームは既に実施した。彼らは肥大型心筋症の遺伝子変異をゲノム操作によって正常に修復し胚盤胞の段階まで成長させた。

或いは、ダウン症などの先天性の遺伝について考察してみる。体外受精でダウン症であると判明した場合、受精卵にゲノム改変を加えて治療することは許されるのだろうか。また、普通に妊娠して、産科の検査でダウン症が発覚するケースでは、将来的に胎児の段階でゲノム編集を加えて治療できる技術が確立されたとして、それを適用するのは許されることなのだろうか。「欠陥」のある遺伝的素質を排除しようとする優生の論理にならないのだろうか。先天性の遺伝疾患を『個性』と捉えるべきだろうか。

仏法では善業・悪業の内容として、外見や病気、能力、先天性の病気、貧富の生まれ、邪見の家に生まれ、などの要素が説かれるが、ゲノム編集をヒトの受精卵に適用すれば、外見や能力、病気や体質なども操作できるようになる。過去世に積み上げてきた善業・悪業の要素(の一部ではあるが)が遺伝子編集によって簡単に操作可能ということになる。

或いはそこまで深刻に捉える必要はないのだろうか。つまり、ただの病気治療という程度のものとして認識すべきなのだろうか。名医で有名な耆婆が外科手術によって患者を救ったのと同じ類と考えるべきだろうか。昔は難病で治療不可能だった病気も治療できるようになった事と同義だろうか。

今後も考察を進めていきたい。


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「日蓮は民衆主体ではない」と主張する連中がいるが、果たしてそうなのだろうか。考察してみたい。

そのような連中は「日蓮が手紙を出していた主体は武家あり農民などの民衆ではない、よって日蓮仏法は民衆仏法ではない」と主張している。

大聖人は鎌倉を拠点に布教活動を進められた。政治の中心である鎌倉、伝統ある京都ではなく。関東を中心に活動された。当時は武家社会である。武家の主人とその夫人が門下の主体になるのは自然なことだろう。農民はそこに属していた。主人・夫人の信仰の確立がそこに属する農民や一族の信心の浸透につながる。

当時の農民や漁民等々の識字率は極めて低かった。殆どが文盲と考えて良いだろう。故にお手紙を出すよりも直接指導されたのだろう。だからといって「民衆の為の仏法ではない」という根拠にはならない。

当時、熱原の農民信徒や各地の農民・漁民などの信徒が存在した。大聖人が御遷化された後の葬送の列に、鎌倉の米町の住民も加わっていたという記録(日位著の日蓮御葬送日記)もある。これは民衆階層が大聖人仏法の布教対象であったことを裏付けるものである。

しかし、そもそも『民衆仏法』という表現が適切かどうか疑問である。大聖人は「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」と一切衆生を救う事を願っておられたのだから、そこには農民も漁民も下人も含まれるのは当然だろう。大聖人の衆生救済の御心には、武士も貴族も天皇も農民も漁民も下人も皆等しく救うべき対象なのである。つまり、わざわざ『民衆仏法』と対象を限定するのにも違和感がある。


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