創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年10月

「気楽に語ろう~」の破仏法の輩が、また懲りもせずに愚かな記事を書いている。最近は「御義口伝が偽書だ!」と執拗に主張しているのである。もはやこの輩は、日蓮を否定し日興を否定し、創価や宗門の人達の信仰心を揺さぶる事のみが目的なのである。まさしく天魔の所為そのものだろう。

渡辺氏は日蓮仏法を捨て去り、それどころか『仏性』すら否定している。まさしく釈尊に弓を引く破仏法の輩である。その彼が捨て去った日蓮仏法に対して未だに難癖をつける様を見ていると提婆達多の如き悪意を感じるのは私だけでは無いだろう。

こういう破仏法の輩こそ断罪されねばならないし。宗門も創価も力を合わせてこのような極悪の輩を破折せねばならない。同門で醜い争いをやっている場合ではない。敵を誤ってはならない。創価新報で『日顕宗』を攻撃している場合ではない。慧明で創価を攻撃してる場合でもない。『極悪と戦えば極善となる』のラン氏が戦う相手は、或いは本当に『ダメ出し』すべき相手はこの男のような破仏法者であろう。渡辺氏の目的は(取るに足らない知識で学者の言い分を鵜呑みにし)日蓮仏法を否定することにあることを決して見逃してはならない。

日蓮仏法に於いて御義口伝は肝要である。大聖人の仏法思想の全容は、常随給仕された日興上人の著作・発言・行動を知らずして理解することは決して出来ない。その御義口伝を「偽書だ!」と否定されることは日蓮仏法を否定されている事と同義であると気付かねばならない。

我々に親しみのある文言である「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」。この原点とも言うべき数々の文言を全否定されているのである。

今こそ、御義口伝が偽書でないことを全信徒が大いに宣揚すべきだろう。徹底的に調査をし反証しなければならない。そうでなければ破仏法の渡辺氏のような連中が今後も跋扈してしまう。彼など小物である。渡辺氏など学者の結論を鵜呑みにしてるだけの只のメッセンジャーに過ぎない。自分でロクに学術調査もできないレベルである。(ただしツイッター等で盛んに喧伝しているのが目に付くのが厄介ではあるが)。世の中にはもっと深い知識を持った性質の悪い輩もいる。そのような連中に日蓮仏法を貶められないように全信徒が研鑽をし、あらゆる角度から日蓮仏法が最高峰であることを論証できるようにすべきである。


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選挙の時期が来るたびに強く思う。

会員は「集票マシーン」と化す

創価が組織をあげて、日蓮仏法とは何ら関係のない選挙支援活動を『法戦』などと称して、功徳があるだの、冥の照覧だの、宿命転換が早くできるだの、池田先生への報恩だの、美辞麗句を並べ立てて、純粋で疑うことを知らない会員を『集票マシーン』としてこき使う構図を見ていると我慢が出来ない。

いつの間にか信仰の目的が選挙支援活動にすり替えられているのだ。『師弟不二』という魔法の言葉を刷り込まれ「池田先生の正義を証明する」為に選挙支援活動に奮闘し「大勝利を勝ち取らねばならない」と思い込まされる。相手から強く反対されるとそれを『難』と呼び宿命転換のチャンスだと教えられる。結果、ますます集票活動に没頭するようになる。

全てを奪われ何が残るのか

同志の方々がこのような愚かな活動をしてる姿を見ると心が痛む。御書を学ぶ時間を奪われ、家族を大事にする時間を奪われ、手弁当で候補者の為に走り回る。残りの人生も、一生涯に渡って選挙支援活動を続けるのだろうか。こんなことを繰り返して後には一体何が残るというのか。膨大な人生の時間を浪費し、友人を失うだけだろう(何度も執拗に依頼された友人も迷惑であろう)。こんなことをする為に日蓮仏法の信仰を始めたのでは無いだろうに。

宗教貴族どもが喜ぶだけ

創価の会員の方々は一刻も早く気付いて欲しい。どれだけ必死に頑張っても結局は「信濃町界隈の宗教貴族どもを養っているだけ」である事に。しかし今の流れのままだと気付く日は一生来ないのだろうか。


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よく「日蓮は教団運営に関して、さほど関心が無かった。各門下の自主性に任せていた」と指摘する連中がいるのだが、本当にそうだったのだろうか。考察してみた。

両人御中御書を見ると、亡くなった大進阿闍梨の住していた坊を譲り状の通りに取り壊し、鎌倉の日昭師の坊に(修理して広くするように)統合せよと指示されておられる。また、冬は火事が起こりやすく拠点が火災になってしまう懸念をされ、そうなっては物笑いの種であると仰せである。そうなる前に速やかに処理しなさいとの意味であろう。坊・つまり地域の拠点会館に対して、これほど細かい指示を出されているのである。門下任せにすることは無かったのである。

また、他の御書を見ても、四条金吾への頼基陳情、主君に出す彼の陳情(答弁書)も大聖人が自ら代筆されて送られた。或いは滝泉寺申状・伯耆殿等御返事を見ると、大聖人が裁判対策に対しても非常に細かい指示を直接出されてることがわかる。

特に熱原法難は、滝泉寺の日蓮仏法に帰依した信徒達への大弾圧である。富士地方は、日興上人が中心になって布教をしていた。富士地方の日蓮教団に対する大弾圧である。大聖人は、門下達任せにはせずに、御自身がこのような教団対応・裁判に対して直接指示されているのである。

そもそも身延に入山された、身延の位置を考察してみる。幕府権力との絶妙な距離を保っている位置である。(佐渡赦免後の情勢で)鎌倉に拠点を構えれば権力側を刺激しすぎる。もっと遠くに拠点を構えれば安全になったろうが、それでは門下達と疎遠になり細やかな指導が届きにくくなる。世間的には身延という一見山奥に隠居をしてるように見せつつ、実は鎌倉方面・富士方面・千葉方面への指示連絡も緊密に行える絶妙の位置に拠点を構えられたということがわかる。最初から計画的に身延を選定された経緯では無いが、結果的に身延は上記の理由に於いて適切な場所だと御判断されたのではないだろうか。

つまり大聖人は教団運営に関して非常に細かいところまで直接指示されておられたことがわかる。この点を見誤ってはならないだろう。


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「無量義経は偽経ではない」の続き

無量義経を「中国撰述だ!偽経だ!」と主張する学者連中は『難癖レベル』の批判ばかりだが、その中では比較的マシな方を見てみる。経典の内容批判(他は略語がどうのこうの揚げ足取りが酷過ぎる)として代表的なものが『四善根』があげられる。聞き慣れない言葉であるが、四善根位とは、見道に入る直前の準備的修行段階の事である。これは、有部論書の初期から成立していたわけではなく、修行体系が形成される中で体系化されたものである。

学者(横超博士)の言い分

「仏教の法相を解せざる如き用語のあること。声門の内凡四喜根中、 忍法のみを除いて煖法・頂法・世間第一法といい、これを三法と名づけている。 何故に忍法を脱したのか領解に苦しむ。しかも三法・四果・二道を得ることを得法得果得道と称しているが、四善根に達するのを得法といい辟支仏道と仏道を得るのを得道という如きも、これまた穏当を欠く語法である。」

要するに、『四善根』に忍法だけ抜けてるのはおかしい、と主張してるのだ。

まず大前提として、無量義経はインドで撰述されたのである。

『四善根』は四諦を観ずる事に尽きると言える。その為、観察の位とも呼ばれている。また順決択分とも呼ばれている。

四善根は有部論書の初期から成立していたわけではなく、修行体系が形成される中で体系化されたものである。『倶舎論』では非常に整理された形になっている。これが有部の完成形であろう。一方で 『大毘婆沙論』では 、説く順序が異なっていたり、様々な説を含んでいたりする。有部の教理が整備されていくのに伴って、四善根も一つの教理として整備され確立していったものである事がわかる。

この『大毘婆沙論』は『発智論』に関する広大な注釈書である。つまり発智論が根本である。その発智論では忍位が説かれていない。また異訳の『八犍度論』でも同じく忍位が説かれていない。

つまり、無量義経がインドで撰述された時代に於いて、この発智論系の教学の影響を受けたと考えられる。或いは発智論との関係が無かったとしても、大毘婆沙論で指摘されるように、阿含経典にはもともと忍位が明らかに説かれていなかったのであるから、煖法・頂法・世間第一法とする教学を持つ人物が無量義経の撰述に関係があったことになる。

もしも無量義経が中国で撰述されたならば、まずは当時の中国でも有名な『阿毘曇心論』(大毘婆沙論の綱要書)を参考にするはずである。そこでは忍位も説かれている。それなのに、わざわざ忍位だけ省いて撰述する意図が見えないのである。よって、もともとのインド梵語の経典で忍位が説かれていなかったと考えるのが妥当だろう。

次に『得法得果得道』に関する論難(難癖)に反証していく。

ポイントは経文の以下の文である
(無量義経説法品第二)

或得煖法。頂法。世第一法。須陀洹果。斯陀含果。阿那含果。阿羅漢果。辟支仏道。発菩提心。登第一地。第二地。第三地。至第十地。

・・・各各別異。其法性者。亦復如是。洗除塵労。等無差別。三法四果。二道不一。

・・・善男子。以是義故。故知説同。而義別異。義異故。衆生解異。解異故。得法得果。得道亦異。

要するに、三法を四善根に達することであるとし、二道を得することを辟支仏道・仏道であると解釈するか否かである。

ちなみに、天台大師の法華文句によれば
三法とは声聞・縁覚・菩薩の三乗
四果とは阿羅漢・縁覚・菩薩・仏の果
二道とは漸・頓
と解釈されている

天台大師は三法を四善根に達する事とは解釈しておらず、さらに二道を得する事も辟支仏道・仏道とは解釈していない。

また三法を三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)、二道を仏道修行の行と学と解釈する人もいる。

(ここから長くなるので徐々に追加していく予定)


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昭和31年の大阪の選挙戦に関して、長年、自分がずっと抱き続けていた『違和感』を文章化してみる。

資質に疑問がある候補者

この昭和31年の大阪の選挙戦とは、国政選挙の大阪選挙区での創価組織あげての選挙戦である。擁立したのが白木義一郎氏、元プロ野球選手で政治経験が全く無し政治の知識も無し。こんな人を国会議員にしようとした戦いなのである。(この時点で既に人選に疑問符がついてしまうのだが、人材がいないならば止めておけばよかったと思うのは私だけだろうか)

美化エピソードの筆頭

この『昭和31年』は創価の会員なら知らない人はいないほど有名で、大百蓮華や他機関誌に何度も特集されている人気のテーマである。池田参謀室長の伝説的な活躍。伝説的な指導。池田参謀室長の指導がいかに凄かったか、一念が凄かったか、気迫が凄かったか、等々を、当時の関係者達が『証言者』として次々に登場する形でエピソード形式で語られるのだ。創価の美化エピソードの中でも最もデコレーションされたものだろう。選挙が近くなると、このような記事を見て、会員の人達は「大勝利をもって先生にお答えしよう!」と奮起するのである。

池田名誉会長自身も、後年スピーチ等々でこの選挙戦を振り返り『“まさか”が実現 』(当時の一般紙の見出し)のフレーズを強調しているぐらい創価の歴史にとっても重要な位置づけなのだろう。

ただの集票行動

しかし、よく考えると、結局のところ、会員達は友人・知人達に選挙のお願いに行くのである。「あなたの選挙権を使って自分たちの候補に入れて欲しい」というお願いに行くのである。ならば、政治の話をもっともっとしなければならないだろう。お願いする本人も政治の勉強をもっとしなければならなかった。

しかし実際は、折伏や組織活動が主体であり、政治の勉強など微塵もしていないのである(折伏は尊い行為であるが別次元であろう)。総責任者の池田参謀室長が政治の勉強や話を全然していないのである。そりゃその下の人達もそうなるだろう。その弊害が出てくるのも当然であろう。

人間革命にも記述されているが、当時の障碍者グループがガソリンスタンドの前に整列をして各々が首から候補者のポスターを吊るして立ち、道行く人達に呼びかけたのである、これは明らかな公職選挙法違反である。幸いにも、この件は注意で済んだようだ。

だが、その弊害の最たるものが顕れる。昭和32年の『大阪事件』と呼ばれる事件である。選挙期間中に有権者を買収する公職選挙法違反をして逮捕された会員が出たのである。もしも政治の理念や民衆の権利などをしっかり勉強していく運動であったならば、このような事が起こるはずもない。そういう事をちゃんと教えなかったばかりに、会員達は勝利至上主義に走り「とにかく勝たねばならない」と気が流行る余りこういう行動を起こしてしまったのではないだろうか。

自由民権運動のように

この組織活動の指導の時間の代わりに「みんなで今の政治に何が必要か考えよう」じゃダメだったのか。今の政治に足りないものは何なのか。民衆の権利とは何なのか。政治を監視するとはどういうことなのか。こういう重要なテーマを時間をかけて勉強したり議論したりする内容じゃダメだったのか。諸外国や日本の市民の権利や選挙権の歴史的経緯の学習など。かつて板垣退助が起こした自由民権運動で一般市民達が旺盛に学んだように、会員も猛勉強し思索する活動をすべきだったのはないだろうか。

原点から間違っていた

『昭和31年』を模範とし、これを原理原則とするところに全ての原因があるのだ。ここから「法戦の原点である昭和31年」「勝たなければ正義は証明されない」「一念に億劫の辛労を尽す」「師弟不二」「不可能を可能にする戦い」というような有名なスローガンが生じるのだ。これが創価の会員の行動原理になっている。「選挙は功徳が出やすい」「選挙は宿命転換が早くできる」と指導され、選挙活動が信心の次元になっているのも、ここを原点とするからであろう。

創価の選挙活動家と話が噛み合わないのも当然なのだ。彼らは候補者が当選するまで選挙支援に一生懸命になり、あとは当選した同志にお任せするのである。その後は政治の監視など一切しないのだ。これも『昭和31年』の戦い通りである。”伝統”をそのまま受け継いでいるのだ。

この『昭和31年』を根本原理とし続ける限り、今後も創価の選挙活動家達は何も変わらないだろう。会員の人達は(国民主権と信教の自由が確立された現代に於いて)「政治と信仰の次元は全く異なる」ということに気付き目覚めて欲しいものだが、それは期待薄なのだろう。


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大聖人は『法華堂』や『持仏堂』と称した集会所、すなわち多くの門下が集まる信仰活動の拠点を持っていた門下には僧俗の区別なく大幅の本尊を授与されている。在家の信徒である日長に授与した御本尊は、丈234センチ・幅124センチという現存する中で最大の曼荼羅本尊である。つまり、人が大勢集まる本堂に安置する御本尊は大きな姿である、というのが大聖人の御考えであった。

一方で、個人に下付された御本尊の中には、折りたたんで収納できるようなサイズの小さな御本尊も存在する。

「本門の戒壇」に安置する御本尊は

三大秘法抄には現存する御書の中で唯一、本門の戒壇の内容が明記されている。「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」と仰せである。全世界のありとあらゆる衆生や諸天が来訪する戒壇なのである。これは日蓮仏法に於いて『象徴的な戒壇』であると解釈して良いだろう。そして、これだけ重要な本門の戒壇に言及されながら、その戒壇に安置する御本尊のことをお考えにならない方が不自然だろう。

三大秘法抄では、その後の文に「延暦寺の戒・清浄無染の中道の妙戒なりしが徒に土泥となりぬる事云うても余りあり歎きても何かはせん」と伝教大師の建てた延暦寺の戒壇が、当初は清浄で穢れの無い妙戒であったと認識され、それが慈覚・智証によって土泥のように汚されてしまったことを嘆いておられる。それはつまり、日蓮仏法で建てる本門の戒壇は、このような事になってはならないと強く願っておられたのだろう。

理想の戒壇のモデル

そして、この延暦寺の戒壇(伝教・義真時代)を『理想の戒壇のモデル』として認識しておられたのだろう。延暦寺が当時の正法の総本山であり、多くの信徒達が集う場であり、修行・教学の練磨の場であったこと。いずれ「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立」した時の『理想の総本山』としてイメージされたのだろう。

その本門の戒壇こそ、日蓮仏法に於ける『象徴的な戒壇』という位置付けだろう。ここで『象徴的な戒壇』と強調した理由は、宗門が言うような「(戒壇に安置してある)大御本尊に信を取らなければ、いくら(各家庭など)他の御本尊を拝んでも功徳が得られない」などというような対象ではないからだ。あくまで象徴的な役割なのである。

尤も、延暦寺に関しては「此の戒法立ちて後・延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき」と仰せであり、日蓮仏法の戒壇が建った後は、延暦寺の戒壇は益が無いと明言されておられる通りである。

身延の本堂に安置されていた御本尊は

そこで考えたいのが、戒壇の大御本尊の真偽である。

日達法主の説法によると
戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」
(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)
とされるが、果たして事実だったのだろうか。

もしも、これが事実ならば、御書のどこかに明記されているはずなのだが。

資料の手掛かりになる物があれば

現存する御書には戒壇の大御本尊の記述は無い。

何か資料の手掛かりになる物が残っていれば良いのだが。弟子達に直接言い残した文言があったのだろうか、それとも当時は他の文章で残っていたのだろうか、悲しいかな歴史の中で消失してしまったのだろうか。今後も思索を続けていきたい。


「相伝」で隠す必要など無かった

大石寺系は、御書に書かれていない理由を、「一大秘法の奥義は相伝のみで伝えるから御書には書かれていないのだ」などと『相伝』という神秘的なイメージで誤魔化そうとしている。

だが、日達師の説明通りならば、身延に参詣に来た信者ならば、戒壇本尊はオープンに開示されていたのだから、何も隠す必要など無いことになる。堂々と戒壇本尊の事が御書に書かれているはずである。御書だけではなく弟子達や門下達の記録資料にも残っているはずだ。ここにも矛盾が生じている。



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現在の創価の選挙活動を見るにつけ、公明党が自民党に追従してる情けない姿を見るにつけ、不祥事を起こす議員が続出してる姿を見るにつけ、創価は政治に進出すべきではなかったと思う。

御書にない「法戦」

もはや今の創価は選挙活動がメインであり、そこから信仰の功徳が得られ『宿命転換』につながると信じている活動家がいかに多い事か。創価では『法戦』という仰々しい用語があるぐらいだが、しかし御書の何処にもそんな言葉などない。大聖人の御指導とは何の関係もない造語なのである。

「お任せ」して監視せず

活動家の人達は、組織の打ち出しの通りに選挙活動を必死に頑張って、公明党の議員を当選させて、あとは「信心してる同志達だから」という理由で、一切をお任せし、その後の政治の監視など一切してないのである。これでは白紙委任状を与えたようなものではないか。国民の不利益になるような政治活動をしていても、その実態を全く知らないのである。

政界進出の出発点

創価の政界進出の歴史は、戸田会長の時代が出発点である。「政治を民衆の手に取り戻さなければ、真実の社会の繁栄は、永久になくなってしまう」という理由で『人類意識、真実の平和主義に立脚した政治家』を輩出する為に政界に進出した、という説明をしている。

本来の政治との関わり方とは

しかしながら、民衆の為の政治を実現する方法は他にもあったのではないだろうか。つまり、一人一人が常に政治について関心を持ち、身近な人達と語り協力し監視を続ける。こういう政治への参加の仕方でも良かったのでは無いだろうか。

現に、海外のSGI組織は政党など作らずに、各メンバーの自主投票というスタンスで政治と関わっている。『日本だけが特別に必要』というのがおかしいのである。

海外組織では選挙支援活動せず

国家主義的な傾向度合いでいえば、ロシアなんてもっと酷い。プーチンの独裁体制である。権力者への批判の自由など皆無だ。しかもロシアはずっと戦争をやっているのである。日本に日蓮仏法を基調にした政治家が必要というのであれば、ロシアにはもっと必要だろう。しかし現実はロシアSGIは選挙支援活動などやってないのである。

ロシアを例に挙げたが、他にも国民の権利そっちのけの独裁政権国家など挙げればキリがない。創価の論理で考えれば、これらの国全てに自分達の政治家を送り込まねばならないことになる。言うまでも無く創価は、日本以外は政党は一切作っていないし選挙支援活動も行っていない。

いい加減に『日本だけ特別に政党が必要』という固定観念を捨て去るべきだろう。

信仰の本義とは

信仰の組織なのに、組織総力をあげて選挙支援活動に打ち込む。どう考えてもこれが信仰の本義とは思えないのだ。そろそろ創価の活動家の方々は気付いて欲しいものである。

創価は選挙の時期になると、立正安国論がよく御書学習のテキストになる。この中の『四表の静謐』の部分を、選挙支援活動の拠り所にしてるようだが、これを根拠にするのは無理があるのではないだろうか。そもそも立正安国論は政治の次元の話ではなく、信仰・思想の一凶を断ち切り、正しい信仰・思想を用いる事が主軸なのである。大聖人の御精神がどこにあるのかをよくよく考察すべきだろう。


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『広布の大河に君ありて』ブログに関して、思う所を述べてみる。管理人は『王者の剣』さん。現役のバリ活の壮年部の方である。

人柄がにじみ出ている。

兵庫県の山間部が拠点であるらしい。自分の地域を宝城として、会員の激励に走り回っている。常に感謝を忘れず、何があっても自分に原因がある事として受け止める。人格的に素晴らしい方であろう。人生の全てを創価学会に捧げてきたのだろう。金も無く何も無くても、創価の為に尽くしてきた事を誇りに思っておられる。まさに『心の財』である。

創価組織=正義ありきの発想

だが一方で「今の組織の打ち出し・活動が間違ってる箇所もあるのでは無いか」とは思わないのだろうか。全てを『無疑日信の信心』で受け止めた結果、単なる現状容認になってしまっている。

一方、学会活動に批判的な意見を持つ人の投稿は全て排除しているようだ。学会員の人が創価の疑問点の指摘をすると「結果として同志を分断し、迷わせ、信心を食い破る師子身中の虫となる」らしい。これでは余りにも排他的である。結局は一方的な思い込みが激しい人でしかなかったようだ。ブログの中でも対話を大事にして欲しかった。残念である。

このような人達は、仮に創価の悪い所が見えても目をつぶってしまう傾向にある。「池田先生の作られた本部組織だから間違いがあるハズがない」と『無疑日信の信心』で現状を肯定してしまうのだ。改善の方向に運動を持っていこうとしないのだ、これが創価が組織改善できない原因であろう。

しかし、学会員にはこのような人が多いのだ。一人一人は人が良い素晴らしい人なのだが、ひとたび創価の問題点を指摘しようものなら、人が変わったかのように排他的な姿勢になる。いわゆる『創価シャッター』と言われる現象であろうか。このブログの人が典型的である。

綺麗な表面のみをアピール

頻繁に「組織の中で戦いきって宿命転換できました」「人と会えて励まし合う喜び」などをアピールしているが、どうも「綺麗な場面」しか書いてないように思えるのだ。この人は地元の責任者のようだが、選挙活動や財務の推進などは部員さんにどのように訴えてるのだろうか。もしも「選挙支援活動のどこが広宣流布なんですか?御書の何処に書いてあるんでしょうか?」と部員さんに強く反発されたら、どう説得するつもりなのだろうか。

「法戦をやりきれば本当の功徳が得られます」などと『集票マシーン』のような行為を功徳に結び付けて賛美するのだろうが、そんな稚拙な説明で納得できるような人はもはや皆無だろう。このネット時代にそんな非論理的な説明は通用しない。不祥事を起こした議員が目立ち、安保法案や共謀罪に妥協して賛成したり、与党に居続けたいが為に変節を繰り返している公明党を擁護することは明らかに苦しい。

純粋だが客観視できない

この人は純真で組織の言う事をそのまま鵜呑みにするタイプだろう。もしも第二次創宗問題で宗門側に行っていたら、今頃は、法華講員として「大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、および御歴代上人、そして現在は第六十八世御法主であられる日如上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されています。ゆえに日如上人猊下の御指南を仰ぐべきなのです。この一貫した仏法の正しき流れを、些かなりとも違えてはならならないと確信しております」と主張してたであろう。

純粋であるということは素晴らしいが、それだけでは屹立した信仰者であるとは言えまい。常に客観視できる思考を持つという事がいかに大切かを教えてくれる方である。


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無量義経が中国撰述で偽経であり、これは現代に於いて仏教学の定説だと言ってる連中がいる。その学者の主張を時間をかけて調査して検討してみた。その結果、明らかになったことは、学者の主張内容は一言でいえば『単なる難癖』レベルだったのである。経文の文体の言葉尻を捉えて難癖をつけてるに過ぎないのだ。

中国撰述説(主に萩原博士・横超博士)の主張を大雑把にまとめると以下のようになる
・用語文体に中国臭がする
・翻注が一様ではない。先に「阿若橋如若」とした人物を、
  次には「阿若拘隣」と訳している。
・翻訳者の曇摩伽陀耶舎の素性がわからない、この経だけしか名前が出てこない、
  だから胡散臭い
・慧表が70歳近くの高齢なのに嶺南に赴いているのは奇異に思われる
・四善根のうち、忍法だけが記載されておらず、
  また煖法頂法・世第一法を三法と名付けているのがおかしい。
・訳語に二様あること、つまり十地と十住とを混同されているのがおかしい
・四諦・十二因縁・六波羅蜜の修行を、三時に整然と配当されているからおかしい
  またその略を『諦縁度』と超短縮してるのがおかしい
・法華経や涅槃経と類似の語法が随所にみられるからおかしい

このように細かい箇所の揚げ足を取ったものを集めて「中国撰述だ!偽経だ!」と主張していて、もはや単なる難癖レベルという他ないのである。

明らかな『中国で撰述された証拠』があるのなら、まだわかるが、こんな難癖をつけて一つの経典を偽物と決めつける所業は極めて愚かと言う他ない。

そして、こんな陳腐な説を信じて「学者がいうから」「定説になっているから」「創価大学の菅野博史氏も認めてるから」と、自分自身で経典を精読して内容の批評もせずに鬼の首を取ったかのように法華経最勝を否定するコバンザメのような連中がいかに多い事か。仏法を学ぶものとして恥ずかしい姿であろう。

ちなみに、創価の方々には『永遠の師匠』戸田会長の『獄中の悟達』が無量義経から得られたものであることを思い出して欲しい。もしも無量義経が偽経典ならば、戸田会長は偽経から悟ったことになるのだ。このような学者の中国撰述説に何の反論もせずに黙っているだけでは情けない。

これら全てを一つの記事で書くと長文になる為に、以後は各記事でそれぞれの論点を整理してみたい。数が非常に多いので少しずつ紹介していきたい。

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池田名誉会長の執筆活動に関して。

執筆活動の実態

以前から指摘されてきたことだが。よく疑問視されるのが、本人が実際に行っているかどうかの点である。

よく噂になる情報としては、人間革命は篠原善太郎氏が担当し。御書講義は教学部が担当し。激励のメッセージや詩は第一庶務が担当し。世界の要人との対談もサポートチームが担当し、往復書簡で作り上げ。スピーチも国際部が見つけて翻訳した偉人達のテキストに下地を使ったり、専門チームが内容を作ったり。写真も専門家の原山正行氏がフォローしてる。等々。ありとあらゆる執筆活動に対しての疑問点が指摘されている。

要するに、執筆活動に専念する文人指導者というのは、作られたイメージだということらしい。今までの殆ど全てが代作で、本人は教学その他の造詣は持っていないらしい。

これらが本当なら『永遠の師匠』の実態は、創価本部チームが創り出した理想の文人指導者像ということになる。

内容で評価を

このような情報を見ると会員の人達はショックを受けるだろう。「では、今まで信じてきた先生は一体何だったんだ!?」その気持ちは痛いほどわかるが、本質を見極めて欲しい。

私もこういう情報を見ると最初はショックを受けた。今まで信じていたものが音を建てて崩れていく虚しさを味わった。しかし、よくよく思索を続けると「これらが本当だったとしても、大事なのは内容であり、誰が書いたものであっても内容が優れていれば良いのでは無いだろうか。」と考えるようになった。

一般論としても、カントの理性批判はカントが書いたから価値があるのではなく、内容が優れているから価値があるのだ。

自ら取捨選択して価値判断を

果たして、学会員は執筆物を全部を鵜呑みにするほど読解力・解釈力が無い人ばかりなのだろうか。自分自身で本の内容の浅深を評価できないのだろうか。

池田氏の様々な執筆物に触れる中で、その実態が別人の作品であったとしても、自分の参考になる箇所を見つけて用いれば良いではないか。

いつまでも『永遠の師匠』の有難いお言葉を鵜呑みにするのでは無く、自分で取捨選択して価値判断すべきだろう。


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