創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年09月

大聖人の厳格な一面

念仏者・追放せしむ宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状
の中で
日蓮尩弱為りと雖も勅宣並に御下知の旨を守りて偏に南北明哲の賢懐を述ぶ猶此の義を棄置せらるるに非ずんば綸言徳政を故らる可きか将た御下知を仰せらるる可きか、称名念仏の行者又賞翫せらると雖も既に違勅の者なり関東の御勘気未だ御免許をも蒙らず何ぞ恣に関東の近住を企てんや、就中武蔵前司殿の御下知に至りては三代の将軍並に二位家の御沙汰に準じて御沙汰を改むること有る可からずと云云


謗法の専修念仏の連中に対して

・厳格に宣旨を履行すべきであると仰せである。
・処罰すべきであると仰せである
・念仏信徒を断罪処置された事に対して肯定しておられる。

また、念仏信徒どもが鎌倉に跋扈しているのは、宣旨・身教書の通りに取り締まりが履行されていないからであると断じておられる


この御文から伺える事は、大聖人は、権力によって邪法が弾圧されることは否定されてなかった。
その結果、衆生達(信徒や民衆)が
門葉等は遁るべきの術を失い或は山林に流浪し或は遠国に逃隠す、爾してより華夷・称名を抛ちて男女・正説に帰する者なり
と正法に帰する事になったことを安堵しておられる。

当時は、宗教は国家管理されていたのである。従って邪法は天皇・上皇や幕府が許可しないように図らわれるべき、とのお考えであった。

大聖人の願いは、
日蓮不肖なりと雖も且は天下の安寧を思うが為・且は仏法の繁昌を致さんが為に強ちに先賢の語を宣説し称名の行を停廃せんと欲し又愚懐の勘文を添え頗る邪人の慢幢を倒さんとす
と仰せの通りである。




一方、立正安国論の中で、
全く仏子を禁むるには非ず唯偏に謗法を悪むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず
と仰せである。謗法の輩を斬罪にするのではなく、布施を止める事である。


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大聖人は、法華経守護の為の武力を否定されなかった。

又云く兵杖等云云、涅槃経に云く・天台云く・章安云く・妙楽云く 法華経守護の為の弓箭兵杖は 仏法の定れる法なり例せば国王守護の為に刀杖を集むるが如し(行敏訴状御会通)
この中で大聖人は、武器を所持していることを否定されてはいない。当時の鎌倉府内(政治の中心であっても)の治安状況は必ずしも良好ではなく、たとえ僧侶であっても自衛のために刀剣等を所持することは珍しくなかった。


檀徒が、蒙古襲来に備えて、九州へ防衛に従軍するときに、反対されていない。

単純な反戦主義者という括りではない。
創価のいう『絶対的平和主義』などという聞こえの良い抽象的なものではない。

勿論、戦争を賛美されているワケでは決してない。





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以前の記事で創価の組織が中央集権的な官僚機構であることを書いた。地域の現場では様々な意見が出てくる。しかし、それを一々受け入れるわけにはいかない。反対意見を許していたら組織運営が成り立たなくなるからだ。会員それぞれが独自性を持った活動をされたら、組織として統一的な戦略が立てれず動けなくなる。

「本部長、今度の選挙戦、今の公明党の方向性はオカシイと思いますよ」「支援活動をやらない方がいいと思います。」
「何をいってるんだ君は、広布の同志を政界に輩出して立正安国を実現するんだ。池田先生の正義を証明する戦いなんだ。お元気なうちに師匠にお答えしよう!」「法戦は宿命転換の絶好のチャンスだよ!」

「婦人部長、無理に新聞推進しなくてもいいでしょう。嫌がる人もいるんだから」
「それは違うわ。新聞推進も折伏なのよ。我流の信心ではダメよ。必ず行き詰まるわ。先生に呼吸を合わせなさい。」
「でも、マイ聖教運動などの多部購読はさすがに数字合わせでは無いんですか?」
「地域の牙城の数字を守るというのも大事なのよ。」

「あの、信心の活動に選挙支援とか新聞推進とか新聞配達とか財務とか必要ないと思うんですが・・・。」
「地球に自転と公転のリズムがあるように、信心のリズムもこの二つが大事なんだよ。学会活動は公転です。学会のリズムに合わせないと必ず行き詰まるよ。」

このように、下からの意見が通らない、最後は「信心で受け止めなさい」という常套句で無理矢理に飲まされてしまうのだ。

結果として、活動内容に反対意見のある人は非活動になったり退会したり、つまり排除され居なくなってしまう。残るのは組織に従順な人のみになる。

仮に組織が間違った方向性に進んだとしても、それを下からの意見で軌道修正できるような構造になっていないのだ。「創価の組織活動は全てが正しい」という前提で運営がなされている。果たして、信仰の世界でこの組織形態は適切なのだろうか。歴史的な見地から考察すれば、このような組織が最適な時期もあっただろう。だが現在の主権在民で信教の自由が保障されている世の中で最適かどうかは疑問である。


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創価は、公称会員数827万世帯とされているが、実質的な活動家の数は約250万人くらいと推計されている。宗門の僧侶と法華講の活動家の総数を約5万人程度、顕正会の実質的な活動家の数が約10万人程度或いはどこにも属さずに信仰を貫く人達が1万人程度と推定してみると、総じて266万人以上の信心堅固な信徒達がいるのである。

「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」とは有名な御金言である。大聖人の時代から考えれば、かつて無い規模の信徒達が、266万人以上の人達が日々題目を唱えているのである。

大聖人の鎌倉時代から、室町時代、そして戦国時代へと移り、立正安国とは真逆の修羅闘諍の世界へとなり、人の尊厳が虫けらのように扱われるようになった。特に戦国時代の農民は純朴で慈しむイメージがあるが、実際は彼らこそが、掠奪・放火・強姦・人攫い等々の主役だったのである。社会の底辺の隅々にまで「生き残る為なら何をやっても良い」という思想が蔓延していたのだ。一方、あの有名な一向一揆が全国各地で起こっていた、念仏の題目を唱え死をも怖れず突撃してくる信徒達。日本一同が「南無阿弥陀仏」と唱えていた時代ともいえよう。そのような暗黒の時代を経て現在に至る。

よくよく考えれば、これは凄い事ではないだろうか。決して悲観することは無いだろう。大聖人もきっと喜んでおられるに違いない。


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(徒然の思い出、思索メモ、段階的に整理していく予定)

かつて学生部や、男子部であった頃を、思い出す。

学生部の頃は、簡単に言うとサークル活動的な要素も強かった。学生部は人数が少ないので、最低でも本部単位、或いはそれ以上の単位の会合が多かった。様々な会合に行くのだが、遠方も多く、移動はなかなか大変であった。だが総じては楽しんでいた。

当時の男子部

男子部では様々な職業の人が部にいた。仕事の無いメンバーもいた。当時の部長は人柄が良く誠実だった。各メンバーの成長を願っていた。これは間違いない。相手を尊重する姿勢も持っていた。これは部全体に浸透していた。会合に来てくれたメンバーを励ましたり、家庭の状況や仕事の状況を聞いたり相談に乗ったり、決して高圧的な態度ではなかった、人材を育てようという姿勢だった。血の通った組織であったと実感していた。池田名誉会長のスピーチを読み、その精神に沿った活動をしようと皆頑張っていた。

かつて私も選挙活動に熱心になってた頃があり、それこそF100以上だの、連れ出しだの、バリバリの活動をしていた。その反動から選挙支援活動を全くやらなくなった時に、かなり激論をして、「自分は選挙活動はしない」と宣言したが、だからといって組織内でハブられたことも無かった。役職持ちは長い付き合いで人間関係が出来ていたからだろうか。

これは、私が知っている創価の現場そのものだ。

自分がかつて歩んできた創価の組織から思索すると、創価の思想が必ずしも間違っていたとは思わない。地元組織の人達を育てたのだから。

変質していた創価組織

非活になり、今の創価組織が、査問だの排除だの、そのような事が行われてると知った時は驚いたものだ。

「では池田先生が表に出なくなってからおかしくなったのだろうか。」「現執行部が先生を利用してるのだろうか」。私も、まずはこの発想に至った。池田絶対主義者の人達と同じ発想である。

それから、池田名誉会長の事も徹底的に調べた。創価の歴史も同様だ。その結果、どこからどこまでが真実で虚像なのかわからなくなった。

調べたり思索を進めることによって、創価の中央集権的な組織運営と、成果主義の弊害も見えてきた。その影響で会員の方々に大きな負担を強いていること。数字に追われて信仰の本義を忘れてしまっている活動家幹部が多いこと。そのようなことを把握できるようになった。

正視眼で判断

アンチ的な視点で創価の全てを否定し、バッサリと斬り捨てるのは簡単だが、実態はそうでは無い。だからこそ評価が難しいのである。組織盲従でもなく、アンチでもない正視眼で判断しなければならないだろう。


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八万法蔵と言われる仏教の経典の中で、法華経は諸経典の中で最勝である。このことは天台大師や大聖人が完璧に証明されたので、もはや我々のような末代の凡夫などが改めて言うまでもない事ではある。

しかしながら、かつて日蓮仏法を信じていた人が退転して、あろうことか法華経最勝を否定する発言をしているのだ。何事かと思い、その主張の内容を読んでみた。
(趣意はこうである)
法華経の開経とされている無量義経が今の学者の定説では中国撰述の偽経典であるとみなされている。だから天台の五時八教は否定される。すなわち法華経最勝が間違いである。すなわち日蓮の主張も否定される。
ざっと、このような主張なのである。

しかし、これでは余りにも思考が短絡的すぎないだろうか。そこで、彼らの主張に合わせて、無量義経からの引用を省いて法華経が最勝かどうかを検討してみたい。


法華経本文から最勝の証明

まずは法華経の本文から、重要文章を抜粋して、最勝であることを確認したい。

方便品

「正直に方便を捨てて但無上道を説く」法華経以外の以前の経典を全て「方便」と言い切った。これまでの方便の教えを捨て去り、無上道(最高の教え)を説いた。

薬草喩品

「久しく此の要を黙して務めて速かに説かず」(久默斯要不務速説)
釈尊の仏法の枢要は、急いで速やかに説くことはしなかったとの意であり、釈尊一代の説法の中でも後期に説かれたことがわかる。それより以前の説法では法華の名字を説かなかった。

法師品

「我が所説の諸経 而も此の経の中に於いて 法華最も第一なり(中略)我が所説の経典、無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」

有名な已今当の三説超過である。ここで、過去に既に説かれた経典から、現在、そして未来に説かれる経典まで含めて全ての経典の中で法華経が最第一であることが宣言されているのである。

他経典では、当分の第一として「この経が最も勝れている」という意味の経文は諸経のあちこちに示されていても過去・現在・未来の一切のなかで「最も勝れている」と宣言されるのは、法華経以外には無い。したがって「法華経こそが最も勝れた、最高の教法である」と証明されるのである。

見宝塔品

巨大な宝塔に乗って、多宝如来が出現し、宝塔の中から梵音声をもって、法華経は「皆是れ真実」であると証明した。法華経以外の他経典には多宝如来が来至して証明を加えた例はない。

また「我仏道を為て、無量の土に於て、始より今に至るまで、広く諸経を説く、而も其の中に於て、此の経第一なり」と、一切経の中で最勝であることが明言されている。

安楽行品

「此の法華経の能く衆生をして一切智に至らしめ、一切世間に怨多くして信じ難く、先に未だ説かざる所なるを而も今之を説く。文殊師利、此の法華経は是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり。」と難信であること、如来の第一の説法であること、最も甚深の法であること「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」と如来の秘密の法であることが明言されている。

諸仏の証明

十方の他仏(諸経典で説かれた諸仏)がやってきて広長舌相で真実と証明した。諸仏は長舌を梵天に付けて真実と示されたのである。(神力品)

阿弥陀仏も弥勒菩薩も法華経の説法に集ってきた。それまで他経で説かれていた仏が法華経の会座に一同に集い証明した。他経と法華経では、この点が全く異なる。例えば、阿弥陀経では東西南北上下の六方の各諸仏が、皆それぞれの国で三千世界を覆う広長舌を出して、阿弥陀仏の不可思議の功徳を称賛したのだが、これに対し法華経では、十方の世界の諸仏達が直接、説法の場に集まって舌相を示した。釈迦一代聖教の中で、顕教にも密教にもまた一切の大乗経・小乗経の中にも釈迦仏と十方の諸仏が並び坐して梵天にまで至る広長舌を出したとの文は法華経以外には無い。


教義面から最勝の証明

教義の面でも他経典に無い優位性がある

十界互具・一念三千の法理

それまで他の経典では成仏が許されなかった二乗の成仏が許された。他の経典では二乗が成仏できないので、菩薩の四弘誓願も達成されない。よって成仏できない。ただ法華経のみが二乗の成仏が許された。また女人成仏・悪人成仏も説かれている。九界全ての成仏が許された。これにより、十界互具、一念三千の法理が確立された。

相即円融三諦

空・仮・中の三諦が円融である。この三諦が即空・即仮・即中の関係にあり、ただ中道に真実があるのみではなく、空も仮も真実であり、一は三に即し三は一に即して相即相入する。

久遠実成による仏の功徳の偉大さ

久遠実成の仏は三身常住(法身・報身・応身)である。五百塵点劫に成道してから以来、常説法教化している仏である。他経は始成正覚の立場を取るので報身・応身が劣るのである。

娑婆世界こそが本国土

「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化」(如来寿量品)から、我々の住んでいる娑婆世界こそが釈尊の常住する国土であることを明かしている。悟ってからも常に娑婆世界で法を説き、衆生を救い続ける仏である。諸経典の仏は、悟ったあとに現実世界から去って、もう現れなかったり、全くの別世界に安住する仏である。


総括すると

以上、整理してみたが、このように、無量義経から引用しなくても、法華経と涅槃経の内容のみでも拝読すれば、法華経最勝が明確に導き出されるのである。

無量義経を偽経典と主張してる人は、「四十余年未顕真実」を否定した瞬間に、法華経最勝が覆るとでも思ってるらしいが、そんなものは何の説得力もない短絡的な思考である事がわかるだろう。直ちに猛省して撤回すべきだろう。(なお無量義経の偽経典説に関しては、いずれ別記事にまとめる予定)


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去る2015年の安保関連法案で公明党が賛成して、池田名誉会長の平和思想と異なる方向に進みそうになった時に、学会員で疑問を持っていた方も多かっただろう。また、創価大学の有志の人達からも反対の声が上がり「安全保障関連法案に反対する創価大学・創価女子短期大学関係者 有志の会」を結成して多くの賛同者の署名を集めた。

ガルトゥング博士の呼びかけ

そんな最中、かつて池田名誉会長と対談され(「対談集:平和への選択」)「平和学の父」と呼ばれるヨハン・ガルトゥング博士が、緊急来日して、安保法案反対を強く訴えられた。

「正直なところ、公明党にはがっかりしている。平和の党を名乗っていた同党は、今や戦争の党に成り下がってしまった…」と嘆いておられ、「(安保法案反対について)古くからの友人である池田大作氏に呼びかけます」と、共闘を訴えかけ、公開書簡で池田名誉会長に安保法制反対呼びかけられた。

以下が博士の呼びかけ内容である。
「私の古くからの友人である池田大作氏に呼びかけます。池田氏と私は平和についての対談集を出版し、多くの言語に訳され、創価学会と公明党の指針にもなってきました。その公明党は現在では好戦的な自民党と連立しています。紛争の解決や和解にはなんの役にも立たない破壊的戦争とは明確に一線を画し、九条を北東アジアの『平和の傘』とされんことを。」

友人を完全に無視

しかし、池田名誉会長側からの返答は一切ナシであった。ガルトゥング博士を完全に無視したのである。さらに、創立者として、我が子同然の創大生達の声にも無反応だった。

「一度結んだ友情は絶対に裏切らない」「友人の苦境には即座に応える」かつての池田名誉会長の言葉である。

ところが博士の魂の叫びに何の応答もないのである。これが友人に対する応えなのだろうか。さぞかし博士は失望しただろう。なんと薄情な対応なのだろうか。過去に自分が放った発言と言行一致しないのである。

いざという時に人間の本性が出る

一体、何の為の対談だったのか、「世界平和のため」に対談をしたのでは無かったのか。これでは価値が揺らいでしまう。友人に対して、いざという時に、こんな冷たい態度なのである。こんなことでは、他の対談やスピーチに関しても、疑問の目で見てしまうのも無理からぬことである。対談やスピーチの中で、いかに美しい言葉で友情や信念を語ろうと、いざ自分の身にふりかかると、矢面に出ようとせずに一切無視し続けるのである。

今すぐに謝罪と弁明を

もしも、今までの発言が嘘では無いというのならば、今すぐに矢面に出て、ガルトゥング博士に返信のメッセージを送り、2015年の大事な時に無視した件を謝罪して説明すべきだろう。


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創価バリ活の方々の活動内容は、新人間革命の研鑽、選挙支援活動、新聞推進、新聞配達、財務関連、集金関連、と様々あるが、信仰の根本である大聖人の仏法を研鑽する時間はどうなってるのか。御言葉を心に刻む機会が余りにも少なすぎるのではないだろうか。

聖教新聞や大白蓮華や新人間革命でも御書の一節は掲載されており、確かに触れる機会はあるのだが、ワンフレーズや部分解釈を読むだけで終わってしまう。しかも一定間隔で同じ御書ばかりが引用されている。これでは偏りが出てしまう。創価の会員で「私は御書を全て読みました」と誇れる人が果たしてどれだけ存在するのだろうか。ちなみに私の地域では見たことが無い。学会員全体でも極めて少ないだろう。

どこまでいっても御書が根本である。御書を断片的にしか学んでおらず全て把握しないままでは、今の活動内容が、大聖人の根本精神に沿ってるかどうかの判断すら正確に出来ないではないか。

新人間革命を『バイブル』のように有難がって用いている場合ではない。選挙支援活動や新聞推進や雑務等々の組織活動に時間を割いている場合ではないだろう。そんな事をやっている間に、御書を部分的にしか読まないまま一生を終えてしまう。

願わくば、一人一人が、大聖人の全ての言葉を心に刻むまで研鑽を進めて欲しい。かつて池田名誉会長が『剣豪の如き修行』で教学を研鑽するように指導していた通り、他の何よりも最優先すべきだろう。他の本はその後に読むべきである。


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