創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年09月

当ブログを訪問してくださり、コメントを頂くのは嬉しいのだが

中には、困った人がいた。

「id220氏」「kiroro氏」「むくげいぬ氏」と別々のHNだが、実は全く同じIPアドレス
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42.126.79.22(22.net042126079.t-com.ne.jp) 
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つまり、一人で3役を演じているのだ、なりすましているのだ。このような工作行為をしている人から投稿されても、こちらとしては返信は不可能である。

ネット社会では、なりすまし行為はマナー違反である。このような行為は断じてしないで頂きたい。

もう一点、お願いだが、各記事のテーマから外れたコメントを頂いても困惑する。ブレ幅が大きくなり、テーマがボヤけてしまうので慎んで頂きたい。

また、大御本尊に関して、本尊流布に関して、組織に関して、この辺のテーマは、まず私の記事を読んでから感想を頂きたい。一から説明する時間が無い。

更に付け加えると、私の方針や見解を理解できないまま、初歩的な質問や、幼稚な質問も控えて頂きたい。コメント欄をつまらない文章で埋めるのは避けたい。一から手取り足取り説明する時間も無い。

以上のように、ブログ管理上で困惑するようなコメント投稿をされると対応せざるを得ない。御理解頂きたい。



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御書に御真筆が無いからという理由で、その御書を研鑽しようとする事に対して「日蓮思想をきちんと語ろうとする意志なんてない」と揚げ足を取っている者がいるが、これには全く同意できない。

いま真筆が見つからないだけで、将来において発見される可能性もある。三大秘法抄などがそうである。三大秘法抄は偽書説が濃厚と言われ続けてきたが、近年の解析によると真書の可能性が高いという結果が出たのである。或いは、立正観抄に関しても、かつては偽作説が優勢だったが、古写本の調査が行われ、それが日進の直筆であることが証明される事によって真撰説が優勢になっている。このように、今は偽書と言われてる対象でも将来的には真書として認められる可能性も充分に考えられるだろう。

真筆が現時点で存在しなかったとしても、大聖人の仏法思想が他の御書と矛盾なく読み取れれば何の問題もない。むしろ進んで研鑽の対象にすべきであろう。

真筆のみに拘る輩は、大聖人の仏法思想を限定的なものばかり集めるが故に逆に矮小化してるのである。それは偏った大聖人像を勝手に作り上げる結果になるのである。真筆が無いという理由だけでバッサリと切り捨てる姿勢は非常に傲慢という他ない。

真筆でさえ、膨大な御書の中の部分なのである。いや現存の御書さえも大聖人の思想を全て物語ってるとは言えない。歴史の中で不幸にも消失してしまった御手紙も多くあるだろう。或いは直接お弟子達に指導された内容も多いだろう。これが重要である。しかし、それらは文字にして残っていない。従って弟子、なかんずく高弟の行動こそが大聖人の思想の全貌を理解するに於いて重要なのである。一番身近にいて常随給仕された日興上人の行動こそが。


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かつて創価学会が宗門の外護団体であった頃、私も何度も大石寺の総登山に参加したものである。正本堂の中に入るのに長時間、長蛇の列に並んで大変だったのを覚えている。腹が減ったので道中の飲食店で腹ごなしの為に入ると何処も混んでいて食事すら時間がかかったほど賑わっていた。それほど常に大石寺は信者で溢れかえっており、創価組織あげて総登山を支えていたのである。

今思えば何故頻繁に登山に熱心だったのか思い出せないが、当時は登山し大御本尊を拝することが重要だと指導されていたのだろう。特に疑問にも思わずに純粋に従っていた。

大誓堂詣で、聖地巡礼化

その後、宗門と創価は完全に敵対して、創価のイベントに登山は無くなったのだが、今の創価は信濃町詣で、大誓堂詣でが盛んらしい。全国から活動家達が地区単位のローテーションで担当を決めてやって来るようだ。

そして建物の中に入り、勤行をする際に、スピーカーから流れてくる『永遠の師匠』の録音の声を聞いて「先生と呼吸を合わせて勤行が出来た」と感動するのである。大誓堂での用事が済んだ後は、他の会館に立ち寄ったり、創価グッズを扱うショップでお土産や記念品を購入したりする。そうして地元の組織戻ると、さぞや素敵な福運を積んできたかのような扱いを受ける。

2017年に制定された創価の会憲でも「世界の会員は、国籍や老若男女を問わず、『大誓堂』に集い来り」と大誓堂が信仰の中心道場として明記されている。もはやエルサレムやメッカ詣でと同じ聖地巡礼化しているのだ。

宗門批判の内容がそのまま当てはまる

かつて創価は「どこか特定の場所に参拝しなければ成仏できないという日顕宗のような誤った考えは大聖人の御本意ではありません」と宗門を痛烈に批判していたが、その創価自身が『特定の参詣場所』を作り出しているのである。

日蓮仏法には、どこか特定の場所に行かなければ成仏できない、という教えは無い。大聖人は「法華経を持ち奉処を当詣道場と云うなり此を去って. 彼に行くには非ざるなり」「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」と仰せである。自分がいるその場所が仏道修行の場であり寂光土なのである。

宗門と決別した創価は「魂の独立を果たした」と吹聴しているが、やってる事の本質は宗門と何ら変わらないのである。


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トルストイの作品に『二老人』という寓話がある。大文豪は、晩年、シンプルな民話や寓話に特に力を注いだ。簡素な表現形式を用いることによって、神と人間の本質を追及した内容が一般大衆にでも理解できるように配慮したのだろう。私も学生時代に読んで深く考えさせられた。

簡単にあらすじを述べると、

ロシアの農村の、エフィームという真面目で厳格な老人と、エリセイという気のいい快活な老人の二人が長年の宿願であった聖地エルサレムに巡礼の旅に出る話である。ロシアからエルサレムまでの徒歩の旅であるから、老人にしては大変な長旅である。

故郷を出発してから数週間が経ち、二人は旅の道中で通りかかった小ロシア国の村に立ち寄り食料などの用品を調達するなどしていた。出発しようとしたときエリセイは喉が渇いたので、水を農家の家に立ち寄って貰おうとする、エフィームは一足先にエルサレムを目指して旅立った。後で追いつく予定であった。

エリセイは水を貰いに農家の家に行き声をかけたがどうも様子がおかしい。よく見ると家の中で痩せた男や老婆や子供がぐったりと倒れている。この村は凶作の為に食料が満足に入手できずに飢えでいまにも死にそうな状態の人が大勢だったのだ。農作業の道具なども生きる為に全て売り払ってしまったという。

エリセイは持っていた食料を家の人達に与え、水も近くの井戸から汲んできてやった。家の人達は少し元気になり、とりあえず一段落したので、再び旅に出ようとしたのだが「もしワシが行ってしまったら、この人たちはまた途方に暮れてしまうだろう」と思い暫く滞在することにした。そして、農作業の道具や食料品や生活用品を自腹で購入してやったり、様々な手助けをしたやった。早くエフィームに追いつかねばならないという焦りはあったが、目の前の苦しんでいる人達を放置できなかった。「ああ、明日は草場も田んぼも請け戻してやろう、馬も買い、子供達に牝牛も買ってやろう。それをしねえでは、海を越えてキリストさまを探しに行っても、自分の心の中でそれを見失ってしまうことになる。まずなによりもこの人たちを助けてやることだ」そう決心して、更にしばらくの間この家の為に尽くしてやるのだった。

そうして、やっと目途がたって再び巡礼の旅に戻った時には所持金は4分の一以下になってしまっていた。この額では海を越えてエルサレムまでは行くことができない。止むを得ずエリセイは巡礼を諦めて故郷に戻ることにした。

一方のエフィームはエリセイをずっと待っていたが来なかったので、先に進むことにした。もしかしたらエリセイが進んでるのかもしれないし、どこかで合流できる可能性も考えて。

やっとこさエルサレムに到着し、さっそく復活大聖堂での聖餐式に出席しようと洞窟に入っていったが、そこは同じような巡礼者達で溢れかえっており、大群衆の行列に巻き込まれて目的のキリストの棺までは辿り着けそうになかった。仕方なく遥か前方を見つめて立ったままお祈りをしていたが、お棺の上の御明が厳かに燃えている礼拝堂の方をじっと見ていたら、なんとエリセイが見えたのだ。一番目に付く一番有難い場所に立って、まるで祭壇の傍にいる司祭のように両手を広げ、その禿げ頭が光り輝いていたのだ。

エフィームは六週間逗留して、あらゆる聖地を遍歴し終えて帰途についた。帰路の途中でエリセイと別れたあの村へ立ち寄った。村は見違えるように変わっていた。以前は食うや食わずの暮らしをしていたのに、今では皆がちゃんと食べていけていた。エリセイに助けられた家の主人が事情を語ってくれた「もしあの人が来て下さらなかったら、わしらは罪の深い体のまま死んでしまったに違いねえだ。わしらはすっかり気を落として、死にかけたまま、神様や人を恨んでいただ。ところがあのお人が、わしらの足を立たせて下さった。そして、あのお人のおかげでわしらは、神様を知り、善い人さまを信じるようになったのです。」

やがて、エフィームもようやく故郷の村に戻ってきた。そして久しぶりにエリセイと再会することになる。エリセイは自分の養蜂場で休憩していた。白樺の木の下に立って両手を広げて空を見上げていた。その禿げ頭は、エルサレムの礼拝堂で主の棺の傍に立っていた時と同じように辺りに照り輝いているように見えた。その光景を見てエフィームは聖地巡礼の感想をエリセイに伝えた「自分は、足じゃ行ってきたが、魂じゃどうだか怪しいもんだ」

エフィームは嘆息した。彼は、この世では神が全ての人に、死の刹那まで、愛と善行とをもってその年貢を果たすように命ぜられたのであることを、悟ったのだった。

つまり、神が説いたことは、目の前の困っている人を見捨てずに尽くしてやること。これが『神性』そのものだとトルストイは説いたのだ。ゆえに、その心は神に通じ、エリセイの魂はエルサレムの礼拝堂の棺の一番キリストに近い位置にいたのだ。一方のエフィームは厳格に聖地巡礼を行ったが、魂までは満足させることは出来なかった。

大聖人は「法華経を持ち奉処を当詣道場と云うなり此を去って彼に行くには非ざるなり」「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり」と仰せである。

信仰者の本質とは身近な人々に尽くすことである。どこか特定の場所に参詣しなければ幸せになれないというものでは決して無い。ましてや選挙支援活動の票集めが幸せにつながるなど有り得ない。今の創価がやっている活動内容(全てとは言わないが)はエフィームの聖地巡礼のようになってないだろうか。組織から指示される活動方針を規律正しくこなすだけになってないだろうか。願わくばエリセイのように、会員一人一人が身近な人の為に尽くして欲しい。それが屹立した信仰者ではないだろうか。


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「創価学会は、仏意仏勅の広宣流布の団体です。ゆえに、その中での私たちの活動は、全て広宣流布につながっているのです。私たちが信心に励み、学会活動に挑む中で直面する苦難には、全てに意味があるのです。」

「全員が組織に付き切って、学会のリーダーに育っていってください」仏意仏勅の学会の組織なくして広宣流布はない。組織から離れれば、自行化他の信仰の正道を踏み外すことになる。

「『有解無信』、つまり、教えを理解していても、心では信じていないという生き方もあります。それでは、どんなに教学に精通し、どれほど才能に恵まれていたとしても、一生成仏することはできません。」「どうか、何があろうが、『信』の一字を、深く、深く、胸に刻んで、広宣流布の大道を歩み通し、断じて幸せになってください。『信』によって結ばれた、地涌の固いスクラムは、いかなる力も、決して破ることはできません。」

「信心の筋金が入った人間とは、どういう人間をいうのでしょうか」との青年の質問に対し『永遠の師匠』が、「それは、一生涯、学会についてくる人間のことです。また、広宣流布に生きる先輩についていく人間のことです。たとえ、誰から怒鳴られようが、あるいは、蹴飛ばされようが、学会から引き離されようが、どんなことがあっても、学会につききっていくことのできる人間が、信心の筋金の入った人だ。」

よく創価がこのような指導をするが、これらの指導を全て組み合わせれば、組織の打ち出しを『無疑曰信』で受け止める組織人間を創り出す事にならないだろうか。

選挙活動に疑問を持つ人がいても、「普段は政治の監視もしてないのに選挙の時だけ動くのが、どうして広宣流布につながるのですか?」という疑問があっても、上記のような指導をミックスさせ、このような指導を受ければ、「選挙活動にも意味があるんだ。何があっても、どれだけ苦難があっても頑張ろう!」と発心するだろう。

仮に、これらの指導が正しいとすれば、前提条件がある。それは「創価の活動が全て正しい」場合のみである。世の中にそんな組織があるのだろうか。この世に存在するとは思えない。

ならば、活動家の一人一人が疑問を持ち、「この活動は本当に必要なのか?正しいのか?」という点を納得するまで時間をかけて徹底的に議論・対話を繰り返す事が重要ではないだろうか。今の創価に欠けているのはその点である。


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創価学会は、公称会員数827万世帯という日本最大級の宗教組織であるが。創価の未来はどうなるのだろうか。

進む高齢化

組織の高齢化が進み、未来部・青年部は衰退する一方である。今の年配の活動家の方々が、やがて鬼籍に入り、世代交代が進むと、もはや今のような活動家は維持できないだろう。今までは地区や支部単位で会合が中心だったが、将来は本部単位でやっと人が集まる感じになるのだろう。

選挙活動も今のような陣容は維持できない。そうなると縮小せざるを得ない。公明の国会議員数や都の議員数、地方の議員数も縮小していくだろう。活動家の大幅減少は組織にとって憂慮する事態である。

支配体制の強化

こんなことは信濃町界隈の連中が一番良く分かってるだろう。何しろ一番実態を把握しているのだから。彼らは、この先も宗教でメシを食っていく為に組織維持に誰よりも必死になっていることだろう。

会則変更で歴代会長を『永遠の師匠』と偶像化し、人間革命をバイブル化し、『創価学会仏』という組織そのものに無謬性を与えて、将来の組織維持の為に支配体制の準備を着々と進めている。また大御本尊も『受持の対象にしない』と変更し、宗門と完全に決別して影響を完全に排除しようとしている。

組織運営に対して批判的な人達の排除にも積極的に乗り出してるようだ、役職を閑職にしたり、査問を行ったり、反組織的な勢力が増えない為に躍起なのだろう。

創価のブランド化

ブランド戦略も着々と進んでいるようである。ここ数年、佐藤優氏との関連が非常に多くなった。潮で対談も特集されている。外部の識者によって創価を評価して貰う事によって、創価のブランド化を定着する狙いなのだろう。TVCMなど広告でイメージアップを狙う戦略も積極的に行っている。メディアに多額の広告費を与えて創価に対する批判を黙らせている効果も大きい。

このようにして創価ブランドを固めて、信濃町本部に絶対的な権力を集中させて、会員を偶像崇拝のコントロール下に置き、万全の統治体制を目指しているのだろう。

負担の更なる増大

将来は今の半分以下になった活動家から、広布基金を求め、選挙活動を求め、新聞や民音や各種チケットの担当を求めなくてはならない。巨大な本部組織や外郭団体を維持しなければならないのだから、末端の会員の一人一人の負担は、当然ながら大幅に増加する。信濃町界隈の宗教貴族どもを養うのは大変だろう。

永遠の師匠の去った後

『永遠の師匠』が去った後は、もう「池田先生の御承認を頂いております」という『錦の御旗』が使えなくなる。それ以降の教義改正や公明党の政策で今までのような強引な『中央突破』は難しくなるだろう。強行しようとすると、池田絶対主義者の人達の猛反発を招き、下手をすると大きく分裂しかねない事態になる。今後は池田絶対主義者の人達がいよいよ発言権を増していくだろう。

池田名誉会長のスピーチや関連書籍での発言の『解釈論』で大きく意見が分かれるだろう。過去の発言を引用して執行部体制と組織運用に肯定的な解釈をする人達と、執行部体制と運営を批判し「池田先生の時代に戻れ」と主張する人達と、様々な解釈論が飛び交うようになるだろう。

戸田会長が死去した後、外部から「創価学会は分裂する」と指摘されたが、池田大作というカリスマが存在した為に、組織をまとめ発展させることが出来た。しかし、今の創価にカリスマは存在しない。今後も二度と登場しない。

もう名誉称号の授与パフォーマンスが使えなくなる。機関誌の内容はどうなるのだろうか。穴埋めに、SGI組織のセミナー等の記事を増やすのだろうか。激励のメッセージも掲載できなくなる。

国政への維持を諦め守勢に

やがては国政から手を引くことになるだろう。これまで構築してきた永遠の師匠のイメージを最大限にアピールした路線へと舵を切ると思われる。これまでの攻めの姿勢から守勢に路線転換するだろう。平和と人権と対話重視の団体という看板を今以上に強調するだろう。

日本の会員数は大きく減少するのは確実視されている。いずれ池田家から会長が就任するだろう。その後、代々世襲すると予想される。その点は他の教団と同じだろう。



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創価には信仰心が純粋で人柄が良い会員が多い。組織の言うことを疑いも無く全て正しいと信じている。自らの組織の教義変更も省みずに『日顕宗』を批判してるのである。法華講にも純粋な方が多いのである。だから『ニセ本尊』を攻撃することが正しい破折だと信じているのである。顕正会も純粋なる方が多いが故に浅井氏の終末論に感応してしまう。それぞれが他組織を攻撃し自分の組織に引き込むことが広宣流布の正しい道だと信じているのである。

私が残念だと思うのは、一人一人は純粋で素晴らしい人達なのに組織が違うが故にこうも分断される現実である。これらは元々は大石寺系で同じ教義解釈なのだ。皆が大聖人を信奉し広宣流布を心から望んでいるのである。

この現状を見れば、大聖人がどれほど悲しまれておられる事だろう。

考察すればするほど、宗教組織というもの、『組織信仰』の弊害を感じざるを得ない。

原点である大聖人の時代に遡って考察をしてみると、大聖人の御入滅後を見てみると、後継の弟子達の法門解釈の違いにより分断された。あるものは天台沙門と言い、本迹一致と主張し、本尊は釈迦だと言ったり、解釈がそれぞれバラバラになってしまった。後継者の事や、(大御本尊の件も含め)御本尊配布の事や、御自身の仏法上の位置付けなどを大聖人がハッキリと明示されなかったから(時代背景に於いて明示できなかった理由があるのだろう。当時は政治と宗教が分離されてなかった背景もあったのだろう、御成敗式目に則った裁判も宗教的権威の影響が大だった等々)という理由もあるが、だからといって、こうもバラバラに分断されるとは悲しい限りである。

大聖人は、釈尊の仏法が末法に於いて混乱してる姿を誰よりも嘆いておられた。釈尊の正法である法華経を正しく掲げない宗教界を嘆いておられた。当時の(唯一の正法であるはずの)天台宗でさえ、叡山でも慧心流と檀那流に大別され、更に細かい流派が作られていた。剰え「摩訶止観は法華経より勝っている」(止観勝法華説)とまで言い出す輩も出てきた。そもそも真言密教化している。その現実を熟知されていた。であるならば、御自分の滅後に、同じように弟子達が法門の解釈で混乱する事を考えなかったのだろうか。

大聖人は法門に対して厳格であられた。「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし」と勝手な解釈を厳しく戒められている。弟子達がそれぞれ自由な解釈をしても許される、というものでは決して無い。


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以前からずっと考察し続けていたのだが、大聖人の高弟である六老僧で日郎師の存在が気になっていた。大聖人御在世の時には、大聖人が佐渡流罪の時に、日郎師も難にあって牢獄に放り込まれたが退転せずに耐え抜いたほど信心強盛であった。佐渡の大聖人から土牢御書という叱咤激励の御書を頂いている。土牢赦免後は、指導を求めに何度も佐渡の大聖人の元まで足を運んでいる。求道心も高かった。

大聖人の滅後には、あの兄弟抄で有名な池上宗仲も与力しているのである。それほど信頼を寄せていたのだろう。弟子の育成にも心血を注いだ。日郎師としての強い使命感があったのだろう。

これほどの信心強盛な弟子が、何故日興上人と団結できなかったのか。不思議である。

日興門流では(創価も含めて)、日郎師に関しては「大聖人の御心がわからなかった」の一言でバッサリ切り捨てているが、果たしてそれだけで良いのだろうか。

池上兄弟に関しては、兄弟抄が残っているので、我々の御書研鑽に欠かせない題材となっている。だが日郎師宛ての御書は殆ど残って無い。手紙としてよりも直接指導を受けた分が遥かに多いのだろう。それを文字にすると膨大な量になった事だろうが。残念ながら我々には御書として学ぶことは出来ない。

当然ながら、法門に関しては日興上人が厳格であり正しいと確信しているが、かといって弟子達が散り散りになってしまったのは残念である。袂を分かつ前に弟子達が一致団結する道は無かったのだろうか。この辺の資料が少ないので謎が多いが。

今後も考察を続けていきたい。


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「蓮の落胤-創価学会、話そうか」という有名ブログがある。創価に興味がある人、アンチ創価の人、客観的な見解の人、様々な立場の人が閲覧している人気ブログである。

創価を客観的に検証するのに最適

いわゆる学会三世で、創価大学を卒業されて現在は非活動家の方である。非活になり客観的に創価を見れるようになり、日蓮仏法や創価の組織や公明党の事を整理した記事を書かれている。アメリカ外交公電など信頼性の高い資料を丁寧に調べて、客観的に整理しようとする姿勢は見習うべきものがある。また、創価と宗門との歴史・NTTドコモ事件など過去の重大な事象・事件の調査も続けておられる。

創価大学の内部事情にも詳しく教員の思想や発言の自由度についても触れられている。創価の歴史的な意義の確認をするには最適のブログだろう。私も池田名誉会長の実像『人間・池田大作』を追及するのに参考にさせて貰っている。

一人の信仰者としては

信仰者としては、日蓮仏法を今でも信仰してるかどうかは不明である。御義口伝に対して懐疑的な見解を示している。もはや純粋な信仰心は消えて、単なる文献的な興味しか残って無いのかも知れない。

単なる学者的な興味でしか日蓮に対する興味がないのだろう。いわゆる『真筆絶対主義者』であろう。真筆以外を決して認めようとしない。単なる学術的な観点でしか物事を見れない。かつて熱中した創価活動への反動からこうなってしまったのだろうか。

ブログやツイッターを全削除

現在(2019年3月時点)全ての記事が削除されている。同時にツイッターのアカウントも削除されている。何かあったのだろうか。身元が判明したので慌てて消したのだろうか。保身に走ったか。

自分の主張を堂々と公表し続けることが出来ないとは情けない。所詮はその程度の信念しかなかったということだ。

創価系を題材にしたブログは、ある日突然全削除することがある。持続性が無いと意味が無い。



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創価の役職はあくまで組織上の方便であり、そこに上下関係など存在しない。あくまで平等である。役職を担うことによって信心が深まり、使命の自覚も進む。自分を磨き、人間革命し、大きく進歩・成長していく。創価はこのような説明をするのだが、実際はどうなのだろうか。

「信濃町本部から来られた方は、先生に近い方だから。信心も凄いのよ」
「あの人は男子部の頃に県幹部まで上り詰めた人だから、信心も深いし、見識も豊富ですよ」
「あの人は部長止まりだった。何かが足りなかった。」
「あなたは女子部の役職経験者あがりなんだから期待してるのよ。婦人部の一世の人は信心が甘いのよ」
「先生の名代として、副会長をお迎えすることが出来ました。大勝利できました。」

このように会員の中には、確かにヒエラルキー意識が存在するのだ。

不軽菩薩の実践を説き、人間革命等々でも、常に人の振る舞いが大事だと教え、他者に仏性があると認め尊重する、そのような指導を常々受けているのに、階級意識の発言や振る舞いをしてしまう。

或いは相手の気持ちを考えずに発言してしまう。子供が出来ずに悩んでる方に「早く福子を産んで、広宣流布に先生に貢献しましょう。」と言ったり。或いは、強引に役職につけようとしたり、断ろうとすると「それでは福運が積めない。あなたの子供や家族に悪い影響が出て欲しくないから」と言ったり。たとえ善意からの発言だとしても不軽菩薩の振る舞いでは無い。

何故このような事が起こるのだろうか。どこに問題点があるのだろうか。中央集権的な組織形態がこのような階級意識を作り出してしまうのだろうか。考察を続けていきたい。

(まだ自分の感じた「違和感」を文章化しきれてない)


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