創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年08月

「気楽に語ろう~」渡辺氏は非常に不思議なタイプである。「私は日蓮が正しいなんて全然思ってないんですよ(笑)」と平然と言い放つ。

破仏法の輩

「仏法に正しい法などない」「そんな経典群に上下とか優劣があるはずがない」と言い放つ。あまつさえ「私は別に仏の命なんて涌現したいなんて思いませんから」と仏法が説く得道・成仏さえも否定しているのである。要するに仏法の説く根幹の目的すら全否定してるのである。彼にとっては、法華経の不軽菩薩が一切衆生に仏性があるのを信じて迫害されても敬い続けた説話などは鼻で笑うようなモノなのだろう。

ここまで仏法を否定しながらも、その割には竜樹や天台に執着しているのである。特に竜樹の中論がお気に入りのようだ。天台も竜樹も、こんな『法盗人』に都合よく部分的に利用されて嘆いておられるだろう。

「渡辺教」が目的か

そもそも「正しい法は無い」のならば、なぜ未だに仏法関連に固執するのか理解できない。さっさと自分の教義を組み立てて『渡辺教』でも作ればよかろうに。その上でツイッターやブログで信者を募集すれば良いのだ。

法華経最勝を否定したい輩

彼の目的がサッパリ理解できない。法華経最勝をどうしても否定したいのだろうが、薬王品に阿弥陀仏の記述がある事を強調したり、そこまでして法華経を落として他経と一緒にしたいのだろうか。

ちなみに薬王品に阿弥陀仏の記述があるのは絶待妙の開会からである。これにより爾前経である観無量寿経等に説かれる安楽世界への往生を開会しているのである。

退会に導くのが目的か

創価の会員の人達を退会に働きかける目的なのだろうか。そういえば、以前に創価会員とメール等でやりとりして退会させることが出来たことを誇らしげに記事にしていた。

創価や日蓮に粘着する輩

とっくに見限ったはずの創価関連の記事を頻繁に書く理由も不明である。昔バリ活だった頃の思い出が強く残っているのだろうか。非活になって創価組織を客観的に整理・把握したいという意識からくるものとして解釈しておこう。

だが、それ以上に不思議なのが、とっくに信仰を捨てた日蓮仏法の関連記事を未だに書き続けていることである。願わくば今までの仏教破壊の言動を懺悔して反省の日々を送って欲しいものだが、それが出来ないのならばせめて日蓮や他の人師の言葉を都合よく利用することを止めるべきだろう。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

正法・像法時代の成仏と幸福とは。私はこのテーマが非常に大事だと思っている。大聖人の仏法思想から整理してみる。過去世に法華経の結縁がある者は、正法・像法に生まれて、そしてその時代の正しい仏道修行をこなし得道する。正法時代は小乗経や権経でOKで、像法時代は天台や伝教の法華経が正しい修行法である。ということになるが、その時代の成仏とは何か、幸福とは何かを深く思索していきたい。

正法時代は小乗や権経であるから、即身成仏では無い。
像法時代は天台や伝教の法華経であるから、これはどう捉えるべきか?
天台は小乗戒を受持した。四種三昧を助行とする(この中で常行三昧の口行の修行法として、阿弥陀仏の名を称えることが説かれている)、摩訶止巻の第五巻で一念三千を明かす。十境十乗観法によって悟りを得ることを目指す。
伝教は小乗戒を退け法華円頓の大乗戒を設けた。天台も伝教も同じく観念観法の修行である。
即身成仏と考えるべきか?それとも今世での成仏では無く死後の成仏(授記)と考えるべきか?そもそも観念観法の修行法は、一般の在家民衆では難しい修行法だったであろう。では殆どの民衆は成仏もできず、幸福にもなれなかったのだろうか?

人間はいつの時代も瞬間に一念三千の命がある。これは時代によって変わることが無い。ならば即身成仏の日蓮仏法、南無妙法蓮華経こそ、どの時代でも最適の修行法ではないだろうか?小乗や大乗や観心の修行で果たして成仏できたのだろうか?幸福だったのだろうか?この辺がいまいち明瞭でなく、いつも曖昧になる。そして、ここを深く追求する人もいない。

これらの時代に生きた一般庶民はどうすれば良かったのだろう。庶民は金もないから既成宗教の寺社に寄進もできない。檀徒と認められない。修行法が余りにも難しいので得道できない。中国や日本で一般庶民を中心に念仏が一気に広まったが庶民の視点で考えればそうなるのもやむを得なかったのだろうか。大聖人の三代秘法の仏法が誕生するまでは一般庶民が得道できる道はなかったのだろうか。

このあたりが非常に曖昧で、庶民という重要な存在が抜け落ちてしまっている。正法・像法時代の庶民の得道とは具体的にどういう実践方法があったのだろうか。

アソカ大王の時代の、仏塔の周囲で賑やかな祭りに興じる民衆。敦煌の絵画や、亀茲国の文献などを読むと、その時代の人々の成仏観や幸福感というものに非常に興味が呼び起こされる。彼らは現代の我々と何も変わらない、同じ人間である。

大聖人は「時に適うのみ」と時によるものだと仰せである。「正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門・一時に滅尽す可きなり」と正法時代に法華経(三代秘法)を説けば、外道によって法華経が失われる故に説かなかった、という趣旨の事を仰っている。或いは「されば仏の滅後正像二千年の間は煩悩の病・軽かりければ一代第一の良薬の妙法蓮華経の五字をば勧めざりけるか」「一切・時による事なり、されば正像二千年の間は題目の流布の時に当らざるか」とも仰っている。それは勿論わかっているのだが。

今後も衆生の機根という概念に関して、深く思索を続けていきたい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

(随時、校正予定)
「あなたはどこの宗教ですか?」と聞かれ「日蓮仏法です」「そうなんですか。では、創価学会とか日蓮正宗ですか?」「いえ、どこか特定の組織には所属してません。」このような会話はどう思われるだろうか。

広宣流布はどこか特定の組織がやらなければ成り立たないのだろうか。一人一人が日蓮仏法を信奉し、日々の生活の根本とし、人にも語っていく、それで良いのではないだろうか。

創価学会など、特定の宗教組織に引き入れようとすることが広宣流布なのだろうか。入会させて本尊流布させれば事足りるとでも思ってるのだろうか。本尊をバラ撒き指導が行き届かないと不敬が起こる懸念もある。組織活動が純粋な信仰心とかけ離れた方向になる場合もある。組織はあくまで補助なのだ。信仰を深化させなければ何の意味も無い。当ブログでも何度も指摘したように組織主義の弊害である。

折伏の時に、無理に創価(や顕正会や宗門)に引き入れようとするから相手が怖がるのである。相手は宗教組織というものを警戒しているのだ。では組織など一切無しで純粋に日蓮仏法を語ればどうだろう。相手は警戒心なしに話を聞いてくれるだろう。その結果、受け入れるかどうかは別として、これこそが純粋な仏法対話といえるのではないか。

もはやネット時代になり大聖人の御書は誰でも閲覧できるようになった。身延や宗門のみが情報を持っている時代ではなくなった。信仰の根本は大聖人の御書である。創価や宗門や顕正会の指導など受けなくても純粋に信仰を貫いていけるのである。そのような屹立した信仰者が求められてるのだろう。

大きな組織で形ばかりの信者数が増えても何の意味も無い。十大部すら読んでいない(そもそも知らない)信者が多すぎる。今まで組織でいったい何を学んでいたのだろう。信心とは組織活動などではない。大聖人の御書を隅から隅まで大切に読まないとはどういうことなのだ。そんな人達が何を語れるのだろうか。「先生が」「御法主上人が」こんな話をしても仏法を語ってる事にはならない。御書を心肝に染め日蓮仏法の思想を大いに語るべきである。

創価や宗門や顕正会などの組織に所属していようがいまいが、大事なのは屹立した信仰者かどうかである。将来、創価や宗門や顕正会が衰退して見る影もなくなったとしても、日蓮仏法を純粋に信仰する人達が増えていれば何の心配もいらない。組織に属さないので表面上の統計データには出ないが。そのような人たちが時代の底流をなすのだ。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

理想の信仰組織とは何だろう?簡単に答えが出るものでは無いことは重々承知だが、あえて考察してみた。

大原則として、信仰の主体はあくまでも自分自身であり、自身の生活の充実であり、自身の家族や友人の幸福なのである。組織はその為の補助に過ぎない。

大聖人の御入滅後、歴史的な見地から考えて、宗門が必要な時代もあっただろう。創価が役に立った時代もあっただろう。だが、現在に於いては『組織信仰』に陥りやすい故に、巨大な信仰組織の打ち出しそのままに活動する事が幸福につながるかどうかは疑問が多い。

強力な中央集権型の組織が必要な時代は終わった。これからの時代に必要な組織は、『御法主上人猊下』や『永遠の師匠』のような絶対的なカリスマが率いるのでもない。総登山で全国からかき集める活動では無く、選挙でハッスルする活動でもない。新聞推進に躍起になる活動でもない。僧侶の御説法を聞いて有難い気持ちになる信仰でも無い。

当然ながら会費やお布施など無い。全てがボランティアで成立している組織である。一方、全てが自分の判断と責任で動くのだ。

個人のつながりが大事だと考える。例を挙げれば、ざっくばらんに日蓮仏法を語り合える場。疑問があれば何でも話し合える場。身近な地域同士のつながりも良い。遠隔地同士なら、ネット座談会で北海道と沖縄と本州を結ぶつながりでも良い。志が同じ人達が集う場が大事なのである。教学を深める為にテーマごとに意見交換会を設けるのも良いだろう。その内容を公開し理解を深める材料にするのも良いだろう。ただし論争の場では無い。せっかくの同志との交流を争いの場にするならば不毛な時間となろう。

本尊は、大聖人御真筆の精密な複写が最も良いと判断する。

葬式は自らが主体的に行うべきである。家族葬が基本で良いのではないだろうか。儀式ではない、心である、身内の追善供養への心が大事なのである。日本人は形式にこだわり過ぎている。「僧侶や幹部が導師を勤めなければ成仏できない」という御書など無い。

ただし、これは現時点の宗門や創価の現状を見て憂い、このように考察した結論であって、将来的に宗門や創価が大変革を成し遂げて、信徒一人一人の為の組織へと変貌するならば、そこで活動するのも良いだろう。連携するのも良いだろう。その事も考慮して今後も信仰と組織の考察を進めていきたい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

「気楽に語ろう~」の渡辺氏。最近になって自己思想のカミングアウト記事を続けているが、余りにも過激な主張が顕著になってきたので、彼の本質に迫ってみる。

著しい増上慢

「私の考え方は龍樹の本質から日蓮を考え直そうとするものです。結果として日蓮の否定になる」

「私が日蓮を批判するのは日蓮を真の意味で現代において救済するためです。」

「日蓮自身の経典を読む姿勢にも大いに問題がある」
などと日蓮も否定し、天台も否定し、挙句の果てには翻訳者の鳩摩羅什をも否定し、その増上慢の主張は留まるところを知らない。いよいよ彼の正体を顕してきたようだ。

仏法破壊者

渡辺氏は「正しい法などそもそも存在しない」「釈迦の教えとはそういうことである」「一切の本質は存在しないのだということです。」と言い切る。どうやら彼は小乗教の『無我の教義』に執着してるようであるが。「悟りなど存在しない」「南無妙法蓮華経と名指されるような何かが存在しているのか。そんなものは存在しません。」という珍説まで披露している。ここまで増上慢の発言は、もはや『仏法破壊者』と断言する他ないだろう。

法盗人

その割に彼の主張は摩訶止観から流用しているのである。著者の天台大師が『法華経最勝』を明確に宣言したのは改めて言うまでもない事実である。しかし渡辺氏は「大乗非仏説だから」「五時八教説は現代においては無効の教理だ」など適当な理由をつけて完全にスルーしているのである。

彼は、自分の我見解釈に都合の良い部分だけを抜き出して、自己の主張に裏付けを持たせる狙いで天台の引用をしているのである。この行為を『法盗人』と言わずして何と表現すれば良いのだろうか。

「独自の本尊」の再構築を狙う

「龍樹と智顗の説に依拠して独自の曼荼羅の世界観を考えている」などと言っているが、要するに、彼は自分の『独自の本尊』、『独自の教義』を作っているのである。彼は自分自身が教祖になるつもりなのである。やってることはその辺の新興宗教と何ら変わらない。

もう一度、論点整理するが、彼は日蓮仏法を純粋に信じようという気は一切ないのである。彼の目的は竜樹や天台等々の各著作から、自分に都合の良い法義を盗み取り再構築して本尊を創り出そうとしているのである。その独自の教義と本尊こそが彼の信仰の対象になるのである。彼の読者の方々は、この事実をよくよく考慮して欲しい。

彼の読者の中にも、ここ最近の思想カミングアウトで「この人は、ちょっと変な方向に行ってしまって、最早ついていけないな」と感じている人も多いと思うが、その懸念は紛れも無く正しい。

羅針盤なき思想

彼の創価の組織批判に関しての記事は、元バリ活の頃の経験も含まれていて参考になる部分はある。しかし、彼の仏法に関する記事を参考にするのは非常に危険極まりない。確固たる羅針盤なき思想は迷いに迷い、狂いに狂い、このような結果をもたらす。かつては純粋に日蓮仏法を信仰していたのに、何がここまで彼を増上慢にさせ狂わせたのか。悲しい限りである。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

御義口伝を偽書扱いしてる連中がいるが、そういう連中は大聖人の御心が全くわかってないのである。御義口伝の内容は、例えば門下に書かれた御手紙の中にも内容が一致してる箇所が数多くある。大聖人の教学の要の部分を凝縮した講義を、日興上人がまとめられたのが御義口伝と考える事もできるだろう。

大聖人の真実の思想体系を知る為には、やはり大聖人に随順して、その人格を深く理解し、内奥の思想を大聖人から直接伝えられた高弟の理解を指標とする以外にない。

もしも日興上人の御義口伝が偽作ならば、それでは日興上人は殆ど何も残して無いことになる。大聖人に随順して最も多くの時間を共にした人が何も残さないなど有り得ないのだ。必ず講義などで師の教えを厳格に伝えているはずである。偽作主張をしてる連中はこんな基本も理解してないのである。

そもそも日興上人は何のために身延を離山して富士に日興門流を建てたのか。それは師の教えを厳格に順守する為である。その教えの核心部分である大聖人の講義内容を伝えないなど有り得ないのだ。

大聖人は晩年・身延にて法華経の講義に、弟子達の育成に心血を注がれた。その核心部分・御自身の法華経解釈の御見解を後世に何かの形で残さないのは逆に不自然であろう。

観心本尊抄も富木常忍に与えられたのだが、後世までの保管の意図もあったとされる。富木常忍の律儀な性質を信頼されたのだろう。


創価組織・創価バリ活の人達が『仏敵』と認定する『日顕宗』とは具体的に何を指してるのだろうか、その批判内容は適切なのだろうか。考察してみた。

日顕氏が現役の猊座に就いていた時代、1991年に創価が破門されて宗門と袂を分かっていった。それから、互いに泥沼の闘争が始まるのである。創価側は宗門への攻撃の正当性を持たせる為に、日顕氏を諸悪の根源と位置付け、その体制下にある宗門を『日顕宗』と命名したのである。要するに「富士の清流である日蓮正宗が日顕一派によって乗っ取られて堕落してしまった」という主張で攻撃を開始していったのだ。

あえて命名するならば「日寛宗」

仮にも『宗』という命名をするのだから、それまでの日蓮正宗と大きく異なる独自の教義を用いてなければ辻褄が合わないはずなのだが、日顕氏の時代に宗門が教義の大幅な変更を加えた事実はない。あくまで日蓮正宗が伝統的に受け継がれてきた教義を踏襲しているだけである。それを『日顕宗』と一方的に命名して批判するのは辻褄が合わないだろう。

創価が批判している『唯授一人の血脈相承』にしても、或いは創価の会則変更の時に、宗門の大御本尊の分身散体の教義を批判していたが、それらの教義を確立したのは江戸時代の日寛師である。どうしても命名したいのならば『日寛宗』と命名しなければならないだろう。

しかし、創価が『日寛宗』などと主張して攻撃できるはずがない。自分達も日寛師の教義に依存しているのだから、そんなことをすれば正当性が全く保てないからである。だから日顕氏がトップであった体制下の宗門を『日顕宗』と命名して攻撃の材料にするしか無かったのだろう。それから長い年月が経過して現在は日如法主の時代に体制が変わっている。だが創価は日如法主体制の宗門も同様に『日顕宗』と決めつけて攻撃の対象にしているのである。この流れでいくと、次の法主になっても同様の手口で批判を繰り返すのだろう。

日顕氏の指導者としての資質

私は日顕氏が行ったことは日蓮仏法の指導者としては失格であると思っている。信徒の真心の供養で建立された正本堂を何の説明もなしに解体したこと。創価の一般会員ごと大勢を破門したこと(池田名誉会長への扱いに関しては個人的な事であるので言及は避ける)。これらは紛れもない破和合僧の所業であろう。およそ褒められた指導者では無い。

再び僧俗和合への道を

だからといって『日顕宗』とレッテルを張り宗門の教義ごと変更があったかのように批判し攻撃するのは適切な対処では無いだろう。むしろ考えるべきは「再び僧俗和合するにはどうしたら良いか」という事だと思う。会則の見直しや体制刷新など、お互いに大改革を行って組織改善をし、信徒同志が手を取り合って歩む道を模索して欲しい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

「極悪と戦えば極善となる」ブログのラン氏。最近できたブログみたいだが、創価村で何故か人気のようである。さぞかし素敵な内容なのだろうと期待して見てみたらガッカリした。と同時に典型的な『創価脳ブログ』だったので取り上げてみる。

内容を見ると、何の教学的裏付けもない、研鑽もロクにしていない、ただただ池田名誉会長の著作物の引用するだけの記事が大半である。創価系ブログにはこのようなオリジナリティの無いブログが多い。別記事でも指摘したが、自分の言葉で自分の思想を表現できない人が多いのだ。

組織正義ありきの教条主義

立正安国論を我見解釈をして「現代における一凶は、日顕とその一派、日蓮正宗宗門である」と主張しているが、これこそ典型的な『創価脳』でなのである。相手を攻撃することが正義であり極善だと信じて疑わない教条主義なのである。

各記事を読むと『日顕宗憎し』の怨嗟の声は十二分に伝わってくるが、挙句の果てに、日顕法主書写の御本尊さえも「こんな奴らの『たましひ』がこもった御本尊などこちらから願い下げである。」とまで言い放っているのだ。『日顕宗憎し』となれば書写の御本尊まで否定しているのである。

創価カテゴリでは、このような攻撃的な記事を書けば人気が出るようである。創価のバリ活の人達の一体感を呼び起こすからだろうか。一方、全く正反対の立場の「創価ダメ出し」ブログも非常に攻撃的な内容の記事ばかりである、あれは法華講員やアンチ創価の人達の一体感を呼び起こしてるからであろう。何とも醜い争いが延々と続いてる。ちなみに、ラン氏もダメ出しブログに出張して、コメント欄で本尊義を議論したみたいだが、文証も出せずに完敗したようである

足元を見つめ組織改善へ努力すべき

ラン氏やバリ活の人達に伝えたい事は、まずは創価の『自語相違』の教義改変を真摯に見つめるべきである事だ。『永遠の師匠』である戸田会長や池田名誉会長の指導に背いて『大御本尊を受持の対象としない』と変更した事の矛盾点、『創価学会仏』の矛盾点などを正面から向き合って欲しい。

それに加えて、この7年間に一切表に出てこない池田名誉会長、選挙支援活動の矛盾点、マイ聖教運動や重い財務負担、その他、何をするにも末端会員へ重い負担を強いる組織活動の矛盾点など。これらの組織主義による弊害を直視して、よくよく考えて欲しい。そして改善の方向へと歩んで欲しいものだ。

己の組織の矛盾点には見向きもせず、創価組織の打ち出しのままに盲従する活動など信仰者として何の価値があるのだろうか。自分自身に深く問うべきだろう。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

池田名誉会長の御書講義は数多くあるが、中でも御義口伝講義は最高傑作という評価だろう。この御義口伝講義は昔からの愛読書であった。

この講義の中でも、大御本尊への絶対の信心が繰り返し述べられている。今の創価会則は、大御本尊は『受持の対象としない』そうだが、この講義内容と完全に矛盾している事になる。今ではもう絶版になっているようだ。宗門と決裂関係に変わった為だろう。そのままにしておくと都合が悪いのだろう。

しかし、この御義口伝講義は、内容的には今でも十分に通用する。これが当時の池田名誉会長の思想そのものだったのか、或いは監修担当の原島崇氏の見解が多分に入っていたのか、それはわからない。しかし、どちらであっても、何度も読み直す価値のある講義であろう。誰の見解であろうが大事なのは内容である。 御義口伝は日蓮仏法の中核であり、真っ先に学ぶべき御書であろう。学会員は選挙支援活動などに割いている時間があるのならば、この御義口伝講義を熟読すべきである。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

以前の 記事1 記事2 でも書いたが、創価・宗門・顕正会。お互いが罵り合い泥沼の抗争が延々と続いている。何とも不毛な抗争を続けているように感じる。それぞれが自らが絶対的に正しいと信じ、相手組織と信徒達を『仏敵』と断定して、「悪を徹底的に攻撃せよ」「極悪と戦うことが極善になる」という姿勢なのである。このような門下同志の醜い抗争を大聖人が御覧になれば深く悲しまれることは間違いない。

もともと創価も宗門も顕正会も正信会も同じ教義解釈なのだから対立してることがおかしいのだ。共に広宣流布を願っているのである。それぞれが組織改善して仲良くやれば良いではないか。

むしろ信徒同士を分断させた組織のトップ達にこそ責任があるのではないだろうか。浅井氏・池田氏・日顕氏。このようなカリスマ的な指導者など必要なかったと考える。信徒の一人一人が求道者で大哲学者であるべきなのだ。自らが主体的に動くべきなのだ。しかし組織主義によって『モノを考えない人達』を多く生み出してしまった。そして組織に言われるがままに動き、相手を『仏敵』と信じ込み攻撃してしまう。何とも悲しいことである。

御書の『一眼の亀』や『優曇華の花』の譬えにもある通り、人間に生まれて大聖人の仏法に巡り合うことの難しさを考えれば、奇跡的な確率なのだろう。その人達がお互いに罵り合い攻撃し合っているのだから、これほど悲しい事は無い。大聖人がどれほど悲しまれるか想像しただけで胸が痛む。「我々は果たして、こんな事をする為に、この世に生を受けたのか?」と、一度深く自分に問うて欲しい。

私は創価の会員の人達も、宗門の人達も、顕正会の人達も、正信会の人達も、皆等しく同志達と思っている。分断・対立の状態から和合僧へと歩みを変えることを願っている。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ