創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年06月

宿坊の掲示板に集まる人達について、いわば『池田原理主義者』とでも言うべき人達である。池田名誉会長が絶対的に正しいと信じて疑わない。当該掲示板では、池田名誉会長に関しての批判は一切受け付けられない。そのような投稿をすれば、即座に住民総出で猛反発される。

特に宿坊に常駐する連中は教条主義的な傾向が強い。現執行部が池田名誉会長の意思に反して、間違った方向に運営されているという主張をしている。そして毎日のように現執行部批判が繰り返されている。日々、執行部の揚げ足ばかり投稿してるだけである。

情報の出所も不確かで妄想の類を出ないものが多すぎる。伝聞ばかりで証拠として信用に足りるべきものが一切出てこないのだ。こんな情報を信用しろという方が無理がある。(だが、ごく稀に重要な内部情報が投稿されるケースもあるので完全否定はしないでおく)

都合の悪い投稿は削除

それに対して、自分たちに都合の悪い批判・反論投稿は悉く削除しているのだ。いわば言論統制をやっているのである。批判している対象と同じ類のことをやっているのである。ネットの世界でさえ自由な議論を拒否してる状態なのだ。自分達の主張に同調する人しか認められない。こんな連中が現実を改革など出来るはずもない。何事も成せないだろう。

偶像崇拝と同じ

池田名誉会長には光も影もある。限定された映像や情報では正しい判断ができない。光も影も全部を総合して公平な人物評価ができるのである。綺麗な部分だけを美化して、それを絶対的なものとして固執してるのは偶像崇拝と変わらない。現在の創価の『永遠の師匠』と同じ偶像崇拝である。


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「学会3世の憂うつ」ブログに関して。青蓮氏。創価大学卒業の20代の若き俊英である。
現在は非活となり、既に日蓮仏法を信仰の拠り所とはしていないようだ。教学的な記事もあるが、信仰者として日蓮の教義そのものに執心が無いようなので触れないでおく。学問的好奇心から書いている記事と思われる。キリスト教の絶対他者としての神の概念を好んでいるようである。そして、その絶対者からの運命を受け入れる宿命論者的な思考らしい。

池田思想の申し子

思想は池田哲学の理想主義そのものである。池田哲学の中でも綺麗なエッセンスを凝縮した所が特に好きなのだろう。こちらの方が現在の彼の信仰の対象と言えるのではないだろうか。

某三人組のような池田絶対主義とは違う。現執行部批判もしておらず、創価改革を唱えているわけでもない。

創価大学で池田哲学を基に純粋培養されたら、このようなタイプの人物が育成されるという一つの成果を見てるようである。池田理想主義が過ぎるが故に現実のドロドロとした創価組織での活動に耐えられなくなり非活へと転じたのだろう。

それでも創価に席を置いている理由は、池田名誉会長が作り上げた創価哲学に対する執着が強いのだろう。自ら「池田教と呼ばれても良い」と明言してるほどである。

しかし、自らが告白してるように自分の親をも愛せないとは残念である。代わりに池田名誉会長を父親と慕っているようだが。その名誉会長が常に「お父さんお母さんを大切にしなさい。」と口癖のように言ってたのを聞き流していたのだろうか。

哲学を志す原点

彼が哲学を学ぼうとした原点は、かつてお世話になっていた知己の学会幹部の方の姿にあるという。かなりの高齢で、生涯一途に学会活動と池田名誉会長に尽くしてきた方だった。題目も1日7時間を行うほど強情な信仰心だったとのこと。

その老夫婦が晩年になりアルツハイマーを患った。悲しいことに、家族から見捨てられ、最低ランクの施設に入れられて、そこで粗雑に扱われてしまう。青蓮氏が本人に直接会っても認知できない。 結局その人は、家族から看取られることなく亡くなった。それほど悲惨な状況だったらしい。

その時に青蓮氏は「なぜ御本尊に力があるなら、この信仰を誰よりも貫かれた人が、誰からも見放され、知的能力を失い耄碌させたのだろう」と疑問に思った 。この件があってから、哲学にのめり込む事になったという。

彼は今まで学んだ哲学でその答えを見つけたのだろうか。

人間革命の比較検証

人間革命の改訂前と改訂後の比較は地味な作業ながら素晴らしい。創価は都合が悪くなると改変して隠そうとする傾向があるので、その監査としての意味もある作業である。今後も是非とも続けて欲しい。

過去記事を削除

しかし、過去の記事の大半を削除している姿勢は残念である。己の書いた記事をコッソリと削除するとは何とも悲しい。自分の過去の発言に責任が持てないのだろうか。これが彼の本質そのものであろう。このような人物は、現実に於いても同じような行動をする傾向にある。


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「静かに創価学会を去るために」ブログに関して。創価アンチ系の代表ブログである。管理人はシニフィエ氏。60代らしい。かつては創価バリ活の幹部だったが、覚醒して今はアンチ創価の筆頭になっている。

当該ブログは、投稿数も多く意見交換が非常に活発に見えるが、よく見てみると投稿してる人は退会者の固定のメンバーが数人だけで回してる感じである。中には学会歌のアンチ替え歌を作って披露する輩もいるが、こんなふざけた投稿をして何になるのだろうか。創価をカルト扱いしてるが、これは正確ではない。創価は決してカルトではないのだ。

創価学会に不満があるのならば、創価という組織を批判すれば良いのだが、中には日蓮仏法すら否定してる人が散見される。教学的な事は全く学ばずに思い込みだけで批判してる連中である。

管理人シニフィエ氏の正体

このブログ管理人は「私たちにしてみれば日蓮の言葉など、ただのトンデモ坊主の妄想に過ぎません」と日蓮批判まで行っているのである。浅はかな輩である。

普段から「対話を重視している」と自慢していたシニフィエ氏は、創価バリ活・支部長の『鯛焼き』氏と直接対話の試みを行ったようである。しかし、お互いの主張を言い合うだけで、話は平行線のまま折り合いがつかずに、日数だけが経過していくだけだった。

ここで、嫌気が差したシニフィエ氏の方から対話企画の打ち切りの提案があった。それを受けた鯛焼き氏側は、対話企画打ち切りには承諾したが、スレッドは残して欲しいと要望した。そうしたら、何と、シニフィエ氏は、一方的にそれまでのやりとりスレッドを全削除してしまったのである。

そもそも対話を持ちかけたのはシニフィエ氏側なのに、自分に都合が悪くなるとこのような行為に及ぶとは、何とも呆れ果てる。普段は『創価シャッター』だの『創価脳』だの散々批判を繰り返していたが、いざ自分が追い詰められると、一方的にシャッターを下ろし、対話を拒否し、問答無用でやりとりを全削除するような人格なのである。これがこの輩の正体なのだ。

鯛焼き氏の反撃

スレッドを削除された一件の後、鯛焼き氏は自らのブログを立ち上げた。その中で、シニフィエ氏との対話の経緯を綴っている。鯛焼き氏は自らの正当性を繰り返し主張した。非はシニフィエ氏側にあることを徹底的に訴求した。その反論が功を奏して、現在では当該スレッドを復活処置したようである。

(ただし私は客観的な視点で見て、この対話=議論の内容に関しては、どちらが正しい・どちらが勝った、と断ずるつもりはない。)

鯛焼き氏のブログに乗り込み挑発行為

これでこの一件は収束して沈静化するかと思われた。ところが驚くべき『珍事件』が起こった。何とシニフィエ氏自らが鯛焼き氏のブログに乗り込んで、ハンドルネームを偽装して『世界の山根』という(世間で話題の問題人物の)ネーミングで、投稿をしていたのだ。しかも、関西弁で相手を挑発するような文章で投稿コメントをしていたのである。それを鯛焼き氏に暴露された。慌てたシニフィエ氏は自らのブログ『静かに~』で「もともと自分は『ブラック・シンフェエ』の要素があったから驚くほどの事ではない」と開き直りの弁明をしている始末である。

自ら対話を打ち切って当該スレッドも削除しておきながら、その相手のブログにハンドルネーム偽装して乗り込んで、挑発行為をするとは、何という人間性なのだろうか。これが60代という年輪を重ねた人物の行為とは到底思えない。かつてシニフィエ氏が「鯛焼きさん、あなた単なるネット流民のかまってちゃんですよね」と相手を卑下した発言をしていたが、そっくりそのまま彼自身が『かまってちゃん行為』をしていたのだ。

更なる、なりすまし行為

さらに驚くべき行為が判明した。『世界の山根』の他にも、もう一人分『なりすまし行為』をしていたことを自ら暴露したのだ。 『サバンナ』という元創価の地区部長で、現在は退会した人物、という架空の設定で、なりすましの投稿をしていたのだ。

ネット社会では直接に姿が見えない分、なりすまし等が無いように特に気を配る必要がある。シンフェエ氏は裏でコソコソと複数の偽装工作してるような人間だったのだ。こんな人物を誰が信用するというのだろうか。人間として全く信用ができないのは明白である。

同調圧力

この掲示板は、常連の参加者達によって、同調圧力が強い集団を作り上げている。仮に、創価の良い所を少しでも挙げようものなら、即座に周囲の参加者から猛烈な反発にあう。何でも自由に発言できる雰囲気ではないのだ。

退会イコール幸福という錯覚

では、退会者が幸せになったのだろうか。「今まで行けなかったけど、退会して正月に初詣に行けました」とか「普通の日本人の行事に参加できて幸せ」とか書いてる始末である。正月に神社に初詣に行って、結婚式は教会で神父に祝福して貰い、葬式は仏教の坊さんを呼び、悩み事は占い師に見て貰って人生が左右される、こんなコロコロと気分で宗教を変える『デタラメな日本的宗教観』に成り下がったのに、それが幸せだと主張してるのだ。他にはスピリチュアル系にハマったりしてる人もいる。

どうも退会イコール幸福につながると思い込んでるらしい。 このようにアンチ系というのは思い込みが激しく実態を把握しないまま批判を続けるので性質が悪いのである。今までバリ活だった頃の思い込みが、退会後には全く正反対のバイアスがかかっているのである。

体験談は各個人ブログで

ただし、書き込み内容が全てデタラメとは思わない。中には自分の体験を赤裸々に語っている人もいるだろう。今まで創価でバリ活として頑張ってきて、組織の中で受けた仕打ちなど。選挙活動への指導、仕事と家庭と学会活動への指導、広布基金への強引な指導など。参考になる体験談も数多くある。このような内容はコメント欄の短い文章で終わらすには勿体ない。是非とも各個人のブログとして、もっと詳しく体験をまとめた記事を書いて欲しいと思う。


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日蓮本仏否定派の根拠はこうである。
・大聖人や日興上人に直接本仏と明記された真筆文章が無い。
・弘安2年の大御本尊が、大聖人の出世の本懐である証拠が無い。非常に疑わしい。
大石寺第9世法主・日有師の代になって急に出だした。
・百六箇抄、産湯相承書、本因妙抄は偽書である可能性が高い。
 従って、「久遠元初」「久遠元初自受用報身如来」という教学的概念が否定される。
 (ただし開目抄で『無始の仏界・無始の九界』の明言がある。
   「法身の無始・無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず」と無始・無終の明言がある)
 (観心本尊抄に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」
  法華真言勝劣事に「三身相即の無始の古仏」とある)

では、なぜ日有師の代以降に御本仏、大御本尊、唯授一人の血脈相承ということが強調されだしたのか?それは当時の大石寺が非常に困窮しており、興門流は、蓮蔵坊紛争等々によって次々に分裂し弱体化し、代々の稚児法主による指導力の低下。このような状態から、大石寺の正当性を主張し「法主の絶対的権威」の元に興門流をリードしていく狙いがあったからである。
日蓮本仏否定派の主張をまとめると、このような主張である。


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大乗非仏説。大昔からある説であるが、残念なのは日蓮仏法を学んだ人でも、この説を支持する人がいることである。大乗や法華経は、その後の弟子達によって創作されたとの説である。だから「仏教の思想は弟子達によって紡いでいくもの」「弟子達の方が偉い」という解釈をするのだ。

釈尊が長期間尊敬され続ける理由

もし仮に、釈尊が大乗を法華経を説いてないのならば、小乗しか説いていないのならば、釈尊の説いた法は一部の二乗しか成仏が約束されないことになる。女性も成仏が許されない。つまり釈尊はただの差別主義者ということになる。そんな人が死後も長い間にわたって幅広い階層の人々から尊敬され続けるだろうか?

「核の部分」は直説

釈尊の願い、それは人間の救済である。悟ったものは無始無終の仏界(久遠実成)だろう。人間の一瞬の一念に宿る命の性質(一念三千)。諸法実相。地涌の菩薩への付属(菩薩行こそが仏の活動そのものである)。空の概念だけでは部分観であり、空仮中の三諦が円融でなければ実在の人間を捉えることは出来ない。釈尊は、このような「法華経の核の部分」を必ず説いているはずである。

口伝の重み

当時のインドは重要な事は口伝で語り継がれる伝統があった。釈尊の教えと行いが至高であったからこそ、後世まで伝えられたのだろう。法華経の細部の説話などは後の編纂者達が付け加えたのだろうが、だからと言って原点である釈尊の価値は不変であろう。


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機関誌である聖教新聞。創価組織では、購読が入会の時の条件である。聖教新聞の推進こそが広宣流布であると位置付けられている。

「無冠の友」配達員の負担

『無冠の友』と呼ばれる末端の会員の配達員によって毎朝届けられている。定期的に『永遠の師匠』からの激励メッセージで『無冠の友』を称えるのは良いが、冬の雪道や、天候の悪い日、特に地方でバイクや車での配達が必須な地域などは事故の不安が常につきまとう。配達員の負担を考えれば全面的にネット化するか、配達を完全に外部委託に移行するかすべきなのに、未だに改善されていない。

ネットに完全移行できない事情

ネットに完全に移行できない理由は、おそらくは印刷をやめるわけにはいかない為であろう。印刷の業務委託だけでも莫大な費用が発生する。それと広告の問題もあるだろう。しかし『無冠の友』を第一に考えるならば、一刻も早くネット完全移行か外部完全委託に切り替えるべきであろう。大事故が起こってからでは遅いのである。

多部購読の実態

この機関誌である聖教新聞を会員が購読するのは普通なのだが、一家で2部あるいは3部以上購読してる世帯が非常に多いのだ。組織が『マイ聖教運動』と銘打って多部購読を推進しているのである。このようにして会員の重い負担の上に成り立っているのだ。

常識で考えてみたい。一般紙で2部以上購読している家庭など存在するだろうか。有り得ないだろう。だが、これが信仰の世界になると成立してしまうのである。

「世界広布」の実態は不明

一面には、世界のSGIメンバーが活躍してるような記事が連日飾っており、それを読んだ会員は「世界広布が着実に進んでるのだ」と感動するものである。私もかつては同じく海外広布のイメージを漠然と喜んでいたものだ。

しかし実の所は、同じ国・同じ地域を定期的に伝えてるのでは無いために、その地域が本当に発展してるかどうか不明なのである。創価は会員数の実数を公表してないので判断は難しい。むしろ衰退しているという指摘もあるほどだ。


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信仰の目的はあくまでも自分の生活の充実であり、家族や友人の幸福である。その為に御書を根本に祈りを根本に日々の生活を充実しようと努力する。仏法対話も一人一人と一生をかけて続けるものであろう。どこかの組織に放り込めば広宣流布完了というものでは決してない。

組織というのは、あくまでも補助である。組織も時代によって変化する。必要に応じて変化する。戦後直後の戸田会長の時代は、東京の幹部が九州の人を折伏すれば、九州の人でも東京の会合に毎回通っていた。当時は指導の手段も乏しかった為に中心である東京中心の活動にするしか無かったのだろう。それが会員数の増加、連絡手段の発達に伴い段々と変化し、地方・地域単位となっていった。御書も出版物も普及が進んだから地域単位で指導ができるようになったのであろう。

今はネットで日本中・世界中の人と交流が持てる時代になった。御書や各種資料もネット上で閲覧できる環境になった。もはや固定的な枠組みに縛られる必要はない。時には組織の枠を飛び越えて自由に交流すれば良い。学会や宗門の人の区別なく交流するのも良いだろう。
将来的にはVR機能を利用したバーチャル座談会というのがあってもいい。例えば、沖縄と四国と東京と北海道の同志達で、遠隔地で物理的に直接会って対話が難しい場合など、ネット座談会ならすぐに集えて有意義な対話ができるだろう。

大事なのは、組織維持の為の活動、「会合の為の会合」をやるのではなく、一人一人の生活を良くする為に、人と会い対話を重ね糧にしていく事であろう。


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創価学会、日蓮正宗、顕正会。日興門流の代表的な教団組織がある。どれもが互いに批判している現状である。やれ「ニセ本尊」だの、やれ「日顕宗」だの。
宗門は登山に躍起になり、創価学会は大誓堂詣で、選挙活動に躍起になる。顕正会は、終末思想で強引すぎる布教活動を繰り返している。

これでは信者は組織主義に陥ってしまう。自分の幸福の為に信仰をしているのに、選挙屋になってしまっている。おかしなことである。

そもそも信仰の主体は自分自身である。諸仏の成仏の根源である寿量品の自我偈とは、自分自身のことである。「自とは始なり・速成就仏身の身は終りなり・始終自身なり・中の文字は受用なり」と大聖人は仰せである。自分の生活の幸福、家族や友人の幸福の為に日々活動するのが信仰者の本義であろう。組織はそのための補助(機関)に過ぎない。

ところが現状は全く逆になってしまっている。組織の打ち出しが全て正しいと思い込んでいる。「無疑日信の信心」で受け止めた結果「組織の為の人間」が造られてしまう。「人間の為に組織がある」のを忘れてはならない。

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現在の学会が組織信仰に陥っている最たる象徴である。『組織そのものが仏』など、究極の無謬性である。組織そのものに無謬性が与えられてしまうと、会長や執行部がどんな間違った方向に舵を切っても「創価学会仏は、仏意仏勅の正当な教団であるから正しいのだ」となり、もはや軌道修正することが不可能になる。

日興上人は

日興上人が富士門流『大石寺仏』と呼ぶような指導をされた事が一度でもあっただろうか?そんな事があるはずがなく、日興遺誡置文に「時の貫主たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事」と訓戒されている。つまり将来、法主や、法主以外の執行部達が間違った方向に行く可能性も考慮されているのだ。「組織そのものを仏とする」ことが、どれほど危険なことか熟知されておられたのだろう。

創価の勝手な解釈

ちなみに法華経で、『組織そのものを仏』として授記された記述など無い。創価の説明によると、常不軽菩薩品に説かれている威音王仏を組織仏として独自解釈してるようだ。しかし、このような見解は経文の裏付けが全く無い。創価の勝手な解釈なのは明白である。

御書にも記述がない

創価は常に『御書根本』と主張しているが、大聖人の御書が根本というのならば「組織そのものが仏」と述べられた箇所が御書のどこに記されているのか、会員に向けて明示しなければならない。(当然ながら、そんな箇所はあるはずが無い)


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『無疑日信』の信心。非常に美しい言葉だが、この純粋さが利用されると、その組織の情報のみを鵜呑みにし、組織に盲従する人間が育成されるのである。特に60代以上の年配の方々はテレビや新聞が情報源であり、情報操作が容易である。情報源が聖教新聞と公明新聞だけ、ネットで情報を自ら取得しない(しかも、創価はネットを見て信じないように指導してるようだ)。自分でものを考えない。疑問があっても「全て信心で受け止める」のである。末端の会員はこういう人達が圧倒的に多い。これでは創価組織の言う事のみを信じるに決まっている。
これは宗門の一般信徒でも、顕正会の一般会員でも同じ構図である。

組織の打ち出しを鵜呑みにするのでは無く、一人一人が自分で調べて熟慮して納得してから行動を起こすようになる事を望みたい。


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