創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年06月

「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」の渡辺氏について、元創価のバリ活の人である。昔バリ活だった頃の想い出が懐かしいのか、しきりに創価の話題を挙げている。創価や仏教の資料系の記事もそれなりにあるので参考にさせて貰ってる面もある。

だが、総じて思うことは、非常に我見が甚だしい。竜樹の中論に随分と御執心らしいが、彼が求めてるのは日蓮仏法なのか、竜樹なのか、天台なのか、真言なのか、それらを良い所取りして自分に都合よくミックスさせたいのか、ほとんどの読者はサッパリ理解できないだろう。

狂った信仰

少なくとも日蓮を信仰の対象としては見ていないようだ。日蓮を否定する記事が数多くある。「日蓮の限界の一つは、極端な法華経至上主義にある」と言ったり「日蓮は、天台の五時八教説から『非合理的な法華経の文』も原理主義的に『真実であると主張した』ことは批判されて然るべきだ」とまで言ったり、もはや法華経が最第一であることすら否定してるのである。かつて日蓮仏法を信仰していた者とは思えないほどの顛倒ぶりである。ここまで堕ちるものであろうか。

「釈尊にも日蓮にも真実は無い、その説かれた内容の再構築が重要である」と我説を主張しているが。要するに斬新な発想で教義の再構築をすれば『何でもあり』なのである。法の正邪、教えの浅深の考慮も一切行わずに、竜樹や世親や天台の教義の端々を切り取り、自分勝手な解釈を入れて混ぜ合わせて、仏法の大海に溺れ迷ってる様を見ると哀れでならない。

真の退転者

私は創価から宗門へ移った人を『退転した』とは思ってない。創価の教義変更に異議を唱え、純粋な教義を求め宗門に移った人達であるからだ。一方、渡辺氏のような人こそ真の『退転者』と言わざるを得ない。

食法餓鬼

彼は一生彷徨い果てるのであろう。学者気取りで様々な文献の端々を拾っては捨てる作業を永遠に繰り返すのであろう。こんな輩は大聖人御在世にも、いつの世にもいる。人を救済せずに文献だけを貪り知識欲だけを満たす。まさに食法餓鬼そのものである。

生命の次元で見れば

大聖人の仏法への確信が無ければ何の意味があろうか。以信代慧である。仏法はまず信から入らねばならない。こんな姿になるぐらいなら、昔のバリ活だった頃の方が生命は純粋だった分、遥かにマシであったろうに。組織に妄信になってる状態は悲しいが、そこから目覚めたのは良いが、彼のように堕ちるところまで堕ちるのはもっと悪い。もっと悲しい。哀れ過ぎて見ていられないのである。

生命の次元で捉えるならば、創価の活動家や、法華講で頑張ってる人達の方が純粋な信心であるが故に遥かに貴いのだ。十界でいうと菩薩の生命である。創価の婦人部や法華講の婦人部はパワフルで生き生きとしてるではないか。(教学力は全然無くても)

今の堕ちに堕ちた彼の言葉など、創価や宗門やその他の日蓮仏法を信奉する人達から見れば、単なる戯論以外何物でもないのである。そんな言葉など誰も受け入れないだろう。くだらない戯論を捨てて日蓮仏法に純粋に立ち戻ることを切に願うばかりである。


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創価は2014年に大きな会則変更を行い、大石寺の大御本尊を受持の対象から外し、他にも御祈念文の変更等々を行ってきた。この先、創価の教義変更はどこまで進めるつもりなのか?創価大学の宮田教授を本部教学室アドバイザーに迎えているが、現状を見る限り、彼のアドバイス通りに進んでるように見える。

宮田氏は、大聖人が末法の本仏であることを否定し、上行菩薩として認識している。大御本尊が日蓮真筆であることを否定している。

宮田氏の論文を読むと、彼の見解では、釈迦本尊も許容されるらしいが、その根拠は、日蓮遺文には釈迦像を用いることを咎める箇所がないからだそうだ。(さすがに創価の教義変更が一気にここまで進むとは思わないが)。

宮田氏は、御義口伝や御講聞書を後世の偽作として全面的に排除する見解みたいだが、将来はこのような教義変更になるのだろうか。(有名な「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」も御義口伝の一節である)

久遠元初、久遠元初の自受用報身如来、この教学的な概念はどうなるのだろうか?創価の現時点の教義では『永遠の仏』と解釈されている。これは久遠元初なのか、違うのかハッキリしない。

『人法一箇』はどうなるのか。大聖人を人本尊として認識するのか否か。(御義口伝に、「人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり」、とある)

日寛教学を、ある部分は用い、ある部分は捨てるそうだが、その切り分けの境界線も明示されていない。(創価にとって都合の良い部分だけを利用するつもりだろうが。)

今こそ創価の会員の方々は、自分達の『信仰の核心部分』に対して変更が行われようとしてる事を認識し、御書の研鑽に邁進し、これらの核心部分に対する確固たる教学を打ち立てて欲しいと切に願う。

このテーマは非常に重要であるので、私も思索を続けながら随時更新していきたい。


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想学談林「運ちゃん氏」のブログに関して。元バリ活の人である。

創価系の記事が多い。非動になった今でも創価の記事が多いのは、自身の半生を懸けた信仰体験の総括の意味もあるだろう。

或いは、奥さんが創価バリ活だからという影響も強くあるだろう。創価組織の打ち出しを『無疑曰信の
信心』で受け止めて活動している姿を、いつも近くで見ていて思うところが多いのだろう。

バリ活の頃は総県の青年部幹部まで昇りつめ、創価本部職員との折衝も数多く経験したらしい。また、
広宣部にも在籍し裏の活動にも務めていたという。その経験から。創価の組織の問題点を詳細に分析している記事が多いが、この中には共感できる記事も多い。

他に、創価の歴史や宗門の歴史など丁寧に資料を調べて整理しているが、これも参考になる。その他に、臨死体験の記事もちょくちょく書いてるが、これは一般的に知られている知識の範疇を出ないので余り参考にならない。

ただ一点気になるのが、バリ活だった頃に比べて、宗教の正邪・浅深を評価しなくなった点である。その最たるものが五老僧の擁護である。これは別記事に書いた通り。

バリ活から非活になる経緯で、思想の整理が行われたと推察するが、その過程で、今まで妄信していた創価や宗門の歴史を調べたりする中で、『人間日蓮』を追及するあまり、逆に思想家・哲学者としての日蓮しか見えなくなったのだろう。残念な事である。



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想学談林「運ちゃん氏」のブログの紹介記事を書いたが、彼の記事でいつも気になっているポイントがある。

日蓮を呼び捨てに、弟子達に師を付ける

それは、日蓮を呼び捨てにして、弟子達に「師」と敬称を付け「日昭師」などと呼んでいる有様である。まるで弟子の方が偉いと言わんばかりである。

五老僧の邪義を擁護

五老僧の邪義を擁護する姿勢は根本的に間違っている。五老僧は天台沙門と名乗ったり、仮名交じりのお手紙を、すき返したり、本迹一致と主張したり、師匠の心を踏みにじっている。日蓮大聖人は「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と仰せである。どこまでも教義に厳格であられた。五老僧の行いを大聖人は深く悲しんでおられるだろう。

その五老僧を擁護する「運ちゃん氏」の姿勢は全くおかしなモノだ。彼の言い分を要約すると「弟子達が各々勝手な解釈をして己義を構えても全然OKだよ」と主張しているのである。

世界一、法の正邪に厳格

大聖人は「南無妙法蓮華経の良薬をば彼れ等が口には入るべき」と薬に譬えられた。間違った薬を飲んで不幸に陥り苦しんでいる衆生を救う為に人生をかけて闘争されたのだ。運ちゃん氏は、その点は一切スルーして自分の都合の良い部分だけを切り取ってるのである。

もしも大聖人が「釈尊の弟子達が、それぞれ勝手な解釈しても全然OKである。真言も念仏も禅も、それぞれに良さがあるね」などと仰る事があっただろうか?そんな事は有り得ない。大聖人は、世界一、法の正邪に厳格であられた方である。立宗宣言から御遷化まで邪義を徹底的に破折された御精神を片時たりとも忘れてはならない。

禅宗にも心惹かれる

もっとも運ちゃん氏は、五老僧の邪義を擁護する事などまだ軽いぐらいで、あろうことか禅宗にも心惹かれているようで、「『拈華微笑、以心伝心、見性成仏』という禅宗の考え方にも一日の長がある」などと言い放っている。

もはや彼に宗教の正邪・教えの浅深など全く関心が無いように見える。この調子でいくと、そのうち真言や念仏をも讃嘆しそうな気配である。(既に、法然のインスピレーションに一目置いてる事をつぶやいてる)

己の命と引き換えに日蓮仏法を守る

大聖人を念仏の暴徒達から己の命と引き換えに守った工藤吉隆や鏡忍房日暁。主人から大聖人の仏法を捨てるか地位を捨てるかの選択を迫られても、捨てなかった四条金吾や池上兄弟達。熱原の法難で首を刎ねられても大聖人の仏法を捨てなかった信徒達。彼の姿勢はこのような先人達の生き方を侮辱してるのである。

もっとも彼なら平気で「禅も経文以外からの素晴らしい教えもあるだろうし、仏教それぞれの宗派に良さがある。どれが優れてるとか劣ってるとか、そんなことで命を懸けるのはナンセンスだ」と言い出しそうである。

ただの資料好きに成り下がる

もはや単なる資料が大好きな仏教学者の走りと何ら変わらない。こんな姿になるぐらいなら、彼の奥さんの『無疑日信の信心』の方が生命の次元で見れば遥かに貴いと言える。自分の活動が人を救うと信じて日々頑張ってるのだから。利他の菩薩の生命である。彼は残りの生涯を文献を読み漁り我見に溺れる日々で終わるのだろうか。悲しいことである。


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願兼於業と宿業に関して。昔から、思う所があった。今回、整理してみる。

三世の善業・悪業こそ公平

自分は仏教で説かれる業の概念は正確で公平なものであると確信している。この業の因果律が無ければ、『何をやってもあり』になってしまうからだ。善業・悪業を否定すると、その人生で何をしてもやった者勝ちになってしまう。どれだけ悪いことしても、それが表にバレなければ勝ち。他人を騙しても搾取しても明らかにならなければ勝利。裏で悪いことをして、人を蹴落としたり、或いは殺しても表に出なければ勝利。人類の歴史上、そんな事は無数にあるだろう。そのような行いをしてきた人々が死後、自分の積んだ悪業によって苦しまなければ、公平とは言えない。善業も全く同じである。誰が見てなくても評価しなくても業が必ず善果にならなければ公平とは言えない。同生天・同名天として説かれるのが仏法の公平性であろう。

願兼於業の解釈

一方、願兼於業の解釈が難しくて悩む所がある。本来は悪業は無いのだが、妙法の偉大な功力を証明する為に願って業を兼ねて生れてくる。と説かれる。

少し思索を進めてみると、過去世に悪業を積み重ねた人(いわば純粋な悪業)と、願兼於業の人(願って業を兼ねた人)との区別がつかなくなるのではないだろうか?例えば、重い病気の人が「自分のこの病気は悪業が原因なのだろうか?それとも願兼於業なのだろうか?」と考えた。一方は大悪人で悪業を積んだ過去世であり、一方は善業で何不自由ないのに、あえて願って業を兼ねて生れて来た。つまり天地ほど過去世が違ってくるのである。

仮に、過去世が大悪人で悪業を積んだのであれば、大聖人の仏法により転重軽受できるチャンスがある。(宿命転換という用語は御書に無いので触れないでおく)

しかし、一方で、例えば大病した人が頑張ってる姿は感動を与えるものである。仏法の力で乗り越えた姿は説得力があり、人の心を打つものがある。これも否定はできない。


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日蓮仏法を信奉する、日本でも有数の巨大な寺院組織である。

何といっても活動の目玉は支部総登山である。支部の住職を筆頭に所属する法華講が参加する支部総出の団体登山ツアーである。「本門戒壇の大御本尊様と御法主上人猊下がいらっしゃる最も清浄な場所」らしい。登山することは、過去からの罪障を消し徳を積んで幸せになれる修行だと主張する。そして唯授一人血脈相承の御法主上人から有難いお話を聞けるのである。
宗門側は、南条殿御返事の「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし」という御書の文言を根拠に総登山の重要性を主張しているが、大聖人御在世の場所は身延の事であり、南条などの有力な檀徒は直接大聖人に合って指導を受ける立場であった為に身延に行く意味があったのである(また、来臨という言葉を門下に対して使われるのも違和感があるが)。
一般の法華講員は総登山に何度も参加して頑張らねばならない為に負担が大きい。「当支部は誓願達成まで、あと〇〇%です」とノルマが厳しいのである。

巨大な僧侶組織を維持するだけで負担が大きい。登山費用に、各種御供養(塔婆代や、永代回向料、過去帳冥加料、納骨冥加料)に、日蓮仏法の信仰を深める為に、こんなものが必要とされているのである。ただ僧侶を養ってるだけの制度である。

登山に、御供養に、僧侶の御説法、こんなものが果たして広宣流布に必須なのであろうか?こんな環境だと『僧侶が上、信徒が下』に陥りやすいのは当然だろう。


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創価学会は、公称会員数827万世帯という日本最大級の宗教組織であるが。その運営は末端会員の重い負担の元に維持されている。
・機関誌である聖教新聞や公明新聞などの多部購読、
・新聞の配達員の負担、
・民音・美術館・書籍の担当者への負担、
・頻繁にある選挙活動による集票マシーン化、
・本部組織が集中する信濃町・大誓堂詣で、
・広布基金の負担、しかも総額も何に使ったのかも非公表。
・関連墓苑の購入負担
・各地に会館が建設される。牙城会や、守る会、王城会、白蓮グループなどがボランティアで担当する
・本部組織と外郭関連団体は肥大化し、その維持だけでも莫大な運営コストがかかるようになった。
それらは末端の会員からの重い負担によって成立しているのである。

選挙になれば手弁当で移動費も自腹。都議選の時期は全国から東京目指して結集するのである。それが功徳につながると信じているのである。

果たして広宣流布に、ここまで巨大な組織は必要なのだろうか?巨大な組織が無いと広宣流布はできないのだろうか。専用職員などいないボランティア運営の組織ではダメなのだろうか?肥大化した組織を再構築してスリム化すべきではないだろうか。

この組織体制、末端会員の重い負担の上に成り立つ巨大な組織、この先もずっと続ける気だろうか?本部職員という『現代の僧侶』、会員の浄財で飯を食べている連中を養い続けなければならないのだろうか?末端の活動家の中には年金暮らしの方も多いだろうに。なけなしの年金を切り崩して、組織維持の為に使われなければならないのか?


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唯授一人血脈相承。大石寺系の奥義ともいうべき教義である。歴代法主の胸中、すなわち内証には、日蓮大聖人と同じ一大事の秘法が受け継がれている、という教義である。宗門では『法体の血脈』と呼ぶ。

これが、どれだけ長い間、信徒を隷属化に置いていたか。大石寺の歴史の中には稚児法主と呼ばれる法主達がいた。その名の通り幼い年齢でありながら法主の座についた者である。この稚児の状態で唯授一人の血脈が相承された、と主張するのである。稚児であれ誰であれ法主の座に就けば大聖人と同じ内証を得られる、すなわち大聖人のように貴い存在として扱われる。これが法主への絶対忠誠につながるのである。宗門で良く見る光景、法主が通ると周囲の信徒が深々と首を垂れたり中には跪く者もいる。これぞ『おすがり信仰』の典型である。

大聖人の仏法の重要箇所が特定の宗教団体の法主に独占されていたのである。『法体の血脈』というものを創り出して、宗門の正当性と法主の無謬性を与えて信徒を隷属させていたのである。

言うまでも無く血脈とは『信心の血脈』である。どこか特定の宗教団体に属していなければ血脈がつながらない、というものでは決してないのだ。血脈とは一人一人の信徒の信心に流れているものである。

私が強く思うのは、今後は二度とこのような『おすがり信仰』になってはならない。その為に、日蓮仏法を学ぶ人が、一人一人が御書を精読し、日々研鑽を進めることである。自らが考え、自ら悩み、そして自らで行動する。このような信仰こそが重要だと強く思う。教学は僧侶に説法して貰うものでは無い、学会の幹部に教えて貰うものでもない。自分で学びとり血肉にしていくものである。
自分と御本尊の間に何者も入れてはならない。御法主上人だの永遠の師匠だの、そんなものを入れてはならない。


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大聖人は身延の地がベストとは思われてなかった。身延は、四方を難所に囲まれて、非常に往来が不便である。また気候も非常に厳しい。冬は極寒のように冷え込む。
此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず 冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれば道をふみわくることかたし、殊に今年は雪深くして人問うことなし(種種御振舞御書)
去年十一月より雪降り積て改年の正月・今に絶る事なし、庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし軒のつららは道場荘厳の瓔珞の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来らぬ上・雪深くして道塞がり問う人もなき処なれば現在に八寒地獄の業を身につぐのへり、生きながら仏には成らずして又寒苦鳥と申す鳥にも相似たり、頭は剃る事なければうづらの如し、衣は冰にとぢられて鴦鴛の羽を冰の結べるが如し(秋元御書)

身延に居を構えられた経緯

又賢人の習い三度国をいさむるに用いずば 山林にまじわれと・いうことは定まるれいなり(報恩抄)
権力者との一定の距離を保つ。刺激させすぎない。
世間的には隠居の体を装う。
各地域の門下への距離が比較的に近い。実用的な範囲内。
門下達と短い日数で指導等のやりとりができる。

理想の戒壇のモデル

迹門の正当な総本山であった比叡山延暦寺。絶頂期の延暦寺を理想の戒壇とされた。それと比べれば身延はベストではないだろう。

現実即応

有力檀徒となった波木井氏の好意があるので、建てようと思えばすぐにでも建てる事は出来たのだが、実際には立派な堂を建てられなかった。三間四面ばかりの草庵で寝食を共に去れた。その修繕も門下達にやらせていたようだ。十間四面という立派な大坊が完成したのは最晩年の入滅される前年であった。このことからも、当初、身延は『仮の拠点』であることを認識されていたと推察する。

幕府の情勢によって柔軟に対応されたのだろう。仮に、平頼綱に代表される強硬派が失脚して、(大聖人に一定の理解がある)穏健派が実権を握ると大聖人の教団に対する締め付けも和らぐ可能性がある。そのような情勢になれば、もっとアクセスが良い景勝の地に本拠を移設することも想定されていたのではないか。

しかし、現実には平頼綱のような御内人が実権を握り続けた。大聖人は、腹の重い病気が続き、衰弱が進み、死期が近いと覚られた。どうやら自分の生きている間には、身延を出て立派な本拠地を構えて大々的な活動が出来そうにもない。そう諦めたのだろう。波木井氏の推薦を受け入れ、身延の地に「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ」と仰せのような鎌倉の寺院に匹敵するほどの立派な大坊を建てた。これは現実に『妥協』されたのではなかろうか。他の檀徒達からの布施もあった。例えば富木常忍は銭四貫文を供養している。門下達も待ち望んでいた大坊の建設であったのだろう。「銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造りたりと、霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給ふべし」と称賛されている。『一閻浮提第一の法華堂』とまで仰せである。そして完成したこの大坊を、自ら『身延山妙法華院久遠寺』と命名されたという。これらの事から推察するに、ここを『本門の戒壇』の場所として認定されたのだろう。

しかし、そうなると三大秘法抄との整合性はどうなるか。1282年4月の御作である。私の解釈だと、大聖人の理想が込められていると拝する。つまり、現実は身延の大坊が本門の戒壇であるが、いずれ条件が整った時に景勝の地に移設することも考慮されていたのだろう。それが遠い未来だったとしても。

国家の認定が必要

当時、一つの宗として認められる為には国家の認定が必要であった。現代のように信教の自由は保障されていない。幕府と朝廷から認められる必要があった。勅宣並に(関東)御教書を出して貰う必要があった。

大坊が完成した頃は、まだ許可が貰えてなかったと考えるのが自然である。故に、大聖人はその認可を貰うのを念願しておられたのだろう。

三大秘法抄より

未来の門下達の為に、もっとアクセスが良く、景勝の地を『理想の戒壇』と構想されておられたと推察される。そこが理想上の『本門の戒壇』の場所にあたる。

勿論、身延の地も重要な修行の場である。「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし」(南条殿御返事)と指導されておられる。



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元本部職員の方々である。思想的には池田絶対主義者とでも言うべき人達である。現在の活動までの経緯を丁寧に読んでみた。

確たる証拠が出てこない

彼らの主張している内容は嘘ではないと思うが、証拠の音声テープや映像があれば確実なのだが、それを出せないのは残念である、また彼らの主張に同調する人達も「査問された」「いじめられた」等々、これも同じように証拠が無いのが残念である。なぜ誰一人証拠を出せないのだろうか。不思議である。

創価内部からの情報発信の意義

現在の創価の問題点の認識としては非常に参考になる。

実名と顔を公表してメディアにも何度も出ている点、定期的に各地を転々として座談会を丁寧に行ってる点、動機が純粋な点を考慮して、ある種の期待を込めて応援をしたい気持ちもある。さすがに創価内部からの組織改革実現とまではいかないだろうが、組織内部からの情報発信としての役割を期待している。

カンパ依存には疑問

ただし、ちゃんと各々仕事をして、借金をしないようにすべきだ。『創価改革』の美名を掲げれば、無職でも、カンパ生活しても許される、という考えには全く賛同できない。

「創価改革」のビジョンが不明

そもそも、その掲げている『創価改革』のビジョンが見えない。「池田先生のご了承を取っていない」などを理由に、現執行部の退陣を要求してるが、では退陣後の創価体制はどのように変貌するのか、その具体的な内容が明示されていないのだ。

これでは単に首をすげ替えただけのように見える。現在の創価組織と末端会員の負担に関してどう考えてるのか。聖教などの多部購読、配達員の負担、民音や書籍担当の負担、信濃町詣で、選挙活動屋、このあたりに関しての現状認識と改善策、『創価改革』後の組織体制のビジョンの全容を語って欲しいものである。

人間・池田大作を追及すべき

池田名誉会長には光も影もある。限定された映像や情報だけでは正当な判断は出来ない。光も影も全部を総合して公平な人物評価ができるのである。どうか彼らには『人間・池田大作』を追及して欲しいものだ。池田名誉会長がこれまで行ってきた事の中には、間違いも数多くあるだろう。その現実を受け入れて、根本的な改善の発想を持つことを切に願う。


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