創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2017年06月

(メモ書き)
教学はお粗末すぎて論じるまでもない。

気になるのは、彼の政治スタンスが完全に保守である事だ。

中国や韓国に対して、危険視する記事を数多く書いている。
中国のチベット弾圧・ウィグル弾圧、南沙諸島における人工島建設、
韓国の徴用工裁判、レーダー照射問題、慰安婦問題、等々

また自衛隊に対して、改憲に賛成であること。
これは明らかに創価・公明のスタンスと違う

そして、ここまで中国に警戒しているのに、中国の悪事を把握しているのに、
創価が中国を賛美し、媚中し、一切批判をしない姿勢を
彼はスルーしているのだ。
(そういえば、かつて公明が中国代表に会った時に、その記事を見て
 「注意してる」と思い込んだ記事を書いていたが、擁護としては苦し過ぎる)


・池田思想は、究極は軍隊すら必要ないと訴える
・しかし彼はバリバリの保守である。自衛隊を強化せよと言う。
この相反する思考を、矛盾していることを自覚しながらも、同時に信奉している。
まさに「二重思考」である

・池田名誉会長は、基地のない沖縄を訴えた
・しかし公明は基地の固定化を推進している
この二つは今や相反することになった。
これらが矛盾しているのを承知しながらも、彼はどちらも信奉している
まさに「二重思考」そのものだ


普通に考えて、ここまでガチガチの保守、右翼的な思考ならば、愛国心満載の、日本会議などに心酔するハズである。現に産経の記事を多用してるし、共感もしている。

なぜに創価を、池田名誉会長を絶対視するのだろうか。不思議である。



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創価は過去の出版物を頻繁に改変する傾向にあるが、この『活動家のバイブル』ともいうべき人間革命も御多分に漏れず改訂(2014年に改訂された。改訂後は第二版)が加えられている。それを隅から隅まで調べるのは非常に骨が折れる作業であるし、なにより、まずは新改訂版を全巻揃えなければ始まらないので、なかなかハードルが高い作業である。

しかし、現在の所、その地道でハードルの高い新旧比較作業を行ってくれている有志を発見したので紹介したい。一人目は既に紹介したブログ「学会3世の憂うつ」の青蓮氏。もう一人はツイッター上で改変箇所をつぶやいている『さかーきー氏(sakakihirosshi )』である。彼らの地道ながら素晴らしい比較作業による成果を幾つか紹介したい。

「人間革命新旧版対照覚書 7巻 東北の寺院の挿話の削除は26頁に及ぶ。日尊(京都要法寺開基)が日興上人から破門された挿話の他、妙福寺、久川玄章(のち正信会他、久保川法章)の地蔵などの謗法払いの挿話も削除。後の久保川の軌跡を鑑みるに、さもありなんとは思う。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 9巻 小樽問答はまるまる改竄されているといっていいくらいだが、正宗の妙照寺を訪ねた妙龍寺の日蓮宗僧侶が旧版では村木景山(鈴木景山)なのに二版では出口啓進(田淵啓進)になっているのが気になる。理由不明。改訂担当者でないとわからないのだろうが、理由が知りたい。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 10巻 会社を無断で抜け出し平日の会合(!)に参加していた女子部員を山本伸一参謀室長(池田先生のこと)が叱責したエピソードが削除されてる。代田不二也(田代富士男、のち公明党参議院議員、砂利船汚職事件で辞職)は青年との表記で話を進めるため、筋運びに無理が。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 7巻 小岩支部長交代のエピソード 戸田城聖の挨拶のうち、「私と石田次男(小説石川幸男)の二人で支部旗を握って常泉寺にたっていればよい。小岩は今日からそのつもりでいなさい」という部分を削除している。東北の寺院、日尊が日興上人から破門されたエピソードも削除。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 10巻 岡山地区部長、岡田一哲(のち参議院議員山田徹一)の父が、身延派日蓮宗の僧籍を得たのち、基調社なる団体を結成、布教し、本尊までも自ら書写して信者に与えるというとんでもないところまでいってしまった。を「とんでもないところまで~」との評価の部分を削除。」リンク先
「人間革命新旧版対照覚書 9巻 小樽問答の日蓮宗側 弁士の一人は元顕本法華宗の僧。旧版の顕本法華宗の教義の説明を二版は削除。血脈相承を否定し、経巻相承・直授日蓮(法華経・御書から直接教えを乞う)を立てる。血脈相承を否定し、大聖人直結・御書根本をいう現在の学会とどう違うとなるから?」リンク先

これらの指摘からわかるように、一般会員が気付かないうちに、創価は過去の出版物をドンドン削除・改変をしているのである。人間革命に書かれていることが『真実の歴史』ならば、何故こんなに数多くの削除・改変がなされるのだろうか大いに疑問である。都合が悪くなったら平気でこういう事をする組織なのである。恥ずかしいとは思わないのだろうか。


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我が家も人間革命、新・人間革命を全巻揃えているが、昔はバイブルのように貪るように読んでいた。かつて「人間革命は現代の御書である」と言った副会長がいたが、書かれている内容は果たして全て真実なのであろうか?

山本伸一の入信に至る経緯が事実とは違うという指摘がある点。初めて参加した会合に戸田会長がいて感銘を受けて即興で詩を披露して、自ら入信を決意したと記述されている点。実際には初めて参加した会合には戸田会長は出席しておらず、当時の教学部長(小平芳平氏)から折伏を受けたらしい。しかも頑固で入信に至るまで時間がかかったらしい。

昭和31年の国政選挙の件で、山本伸一が取り調べを受けた時、自ら大阪の警察に行って出頭したと記述されてる点。 実際には東京の自宅にいる所に警察がやってきたようだ。

幹部の退転の理由も果たして書かれている通りなのだろうか?例えば石川幸男の退転の経緯も真相はどうだったのだろうか。『観念的な信心で現場を軽視する』的な記述をされていたが真実は果たしてどうだったのだろうか。

私も昔は書かれている事が全て真実であると疑わなかった。今の創価の活動家も同じく全てが真実と信じて日々拝読しているのである。これが創作部分も混じっていると気付けばショックを受ける会員も多くいるだろう。フィクションなら「この小説はフィクションです」と明記して欲しかった。

重要なのは、組織の打ち出し内容を正当化させる為に、小説の一節を会合や指導で引用されている点である。もはや御書よりも人間革命の方が比重が大きくなっている。しかし、フィクションの小説の理想を、活動の根本原理とするには無理があるのではないだろうか。


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創価学会は2014年に会則の変更を行った、宗門の大御本尊を『受持の対象にしない』と明言した。加えて、宗門の分身散体の教義を否定した。

かつて、戸田会長は
「これは(民衆の苦悩を救うために、日蓮大聖人様が建立し遺(のこ)されたのは)、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れていますから、絶対だめなのです。」(昭和30年8月24日『戸田城聖全集』第4巻343頁)
と明確に宣言した。

その大御本尊を『受持の対象としない』という。それでは一体、会員が日々拝んでいる御本尊は何なのだ。日寛師が大御本尊を元に分身散体として書写したものではないか。その根本の御本尊を『受持しない』とはどういう事なのだ。戸田会長の話から考えれば「法脈が切れている」ではないか。『永遠の師匠』の指導と矛盾してるではないか。創価学会はこの点を会員に丁寧に説明すべきである。

宗門の教義は大御本尊に信を取る分身散体の教義である。創価は、一般会員に日寛師書写本尊を複写配布して安置している。あるいは大誓堂安置の本尊は日昇師書写の御本尊を板御本尊に模刻したものである。大御本尊を受持しないと明言したのであるから、これらの教義に反してるのだが、創価指導部はこの自語相違を丁寧に説明しなければならない。

創価の主張が余りにも矛盾が過ぎるのである。自語相違が過ぎるのだ。分身散体の教義を否定しながら、自分達はその分身散体の原理を用いて書写された(日寛師や日昇師)本尊を使っているのだ。その大本の大御本尊を受持の対象にしないと言い放っている。こんな子供騙しの論理が通用するワケがない。

大御本尊を受持の対象から外し、分身散体の教義を否定するのであれば、創価は(宗門の書写御本尊を使用せずに)自分達の独自の本尊を用意しなければならないだろう。そうしなければ自語相違が一向に解決しないままである。

信仰者にとって本尊は核心部分である。その部分に変更があったのに、一般の会員の方々は何も分かっておらず、選挙支援活動や新聞推進に一生懸命になっている。こんな姿を見るのが悲しいのだ。一人一人が御本尊について熟慮しなければならない。


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大聖人の仏法とは何だろう。自分は、なぜ日蓮仏法を信仰するのか、他の宗派ではダメなのだろうか。と日々考えている。

日蓮仏法の特色は一生成仏、即身成仏である。凡夫の我々がその身を改めなくても成仏できると説かれるのである。それ以前の教えでは、例えば、天台・伝教は観念観法の修行であり、一部の修行者のみが成就可能なのである。多くの一般大衆には難しい修行方法である。また戒壇や戒律も煩雑で難しい。とてもじゃないが一般人では修行を成就できそうにもない。ではその他の宗派はどうか、爾前経は未来世の成仏であり、この一生では成仏できない。また、二乗作仏もない。どれもこれも不完全で納得ができない教えばかりである。部分的には優れている教えの箇所はあっても全体で見ると足りない。

法華経の一念三千、善業・悪業という業の概念をベースに、因果倶時にまで昇華させ、一般人が誰でも仏界を湧現できると説かれるのは大聖人の仏法のみなのである。諸法実相抄で仰せの「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」とは、まさに革新的な発言である。南無妙法蓮華経の唱題行は、まさに凡夫にとって最適の修行法であると思う。「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せの通り、御本尊に祈る南無妙法蓮華経の唱題行に全てが込められてる。逆に大聖人の仏法以外はピンと来ないのだ。現実に地に足をつけた宗教はこれしかないと確信する。

大聖人の仏法こそが『最も公平な生命観』なのだ。三世の生命という眼で見れば最も公平なのだ。

もしも、これを上回る思想・宗教、実践法があると主張するならば明示して欲しいものだ。「本尊とは勝れたるを用うべし」と大聖人が仰せの通り、よくよく調査し検討してみたい。しかし今までに日蓮仏法より優れた教えに出会ったことが無いのが事実である。

人間には死は必ず来る、中途半端な信仰では生死の荒波に飲み込まれるだろう。元バリ活の人達の中には大聖人の仏法を純粋に信仰せず、ある者は捨て、ある者は我見で都合の良い自己信仰に陥り、ある者は思想部分だけを参考程度に活用してるが、そのような『付け焼き刃の知識』では生死の荒波に飲み込まれて溺れ苦しむだけだろう。


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御書を拝すると大聖人が祈雨の結果を非常に重視されていたことがわかる。天台・伝教が行った祈雨。法然の祈雨。極楽寺良寛の祈雨。仏法の正邪の証明材料として重視されていた。大聖人御自身が良寛と祈雨対決を申し出て、負けたら弟子になるとまで言われた。御自身の積み上げてきたもの全生涯をかけた勝負だった。つまり祈雨の結果が仏法の正邪を決める要素であったのだ。

祈雨の勝負を仕掛けるという事は、御自身の宗教的生命を賭すものであり、御自身の祈りが天候をも左右できるという絶対の確信がなければ到底行える事ではない。

このあたりは現代人の我々は軽視してる傾向にあるのではないだろうか。あの有名な「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」(種種御振舞御書)という御文も雨乞いの祈祷に関してなのである。

現代人から見れば、祈祷によって天候に影響があるという考えは非科学的だと思うだろうが、果たしてそうバッサリと切り捨てていいのだろうか。仏法の『依正不二』の法理によれば、環境世界と自己の生命は一体のものであり、自身の一念が世界をも動かし得るもの説かれる。透徹した一念の祈りが、法界、自然、大宇宙に及ぼす影響を今の科学で観測・証明できていないだけではないだろうか。

次元は違うが、重力波というのは、かつては存在が疑問視されていたのだが、その存在が近年になって証明された。理論的には、身近な人間同士が腕を組んでぐるぐる回転するだけでも時空のゆがみは発生し、重力波を発生させているのだが、余りにも小さすぎて観測ができないのである。今の物理学のレベルでは観測の手法すら思いつかない。しかし100年後には超精密な観測手法が開発されて、波形をキャッチできる製品が製造されている可能性は否定できない。

人間の祈りが環境に及ぼす影響というのは、現代の科学では観測ができてないというだけで、無という結論を出すのは早計だろう。


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産湯相承事という御書に関して。
内容を簡単に説明すると。大聖人の出産に関しての記載がある御書である。大聖人の御母上が出産の前夜に夢を見られたそうである。富士山の頂きに登って、その時に見渡した周囲の景色は、ただの風景ではなく過去・現在・未来を明らかにするようなものであったらしい。そこに梵天・帝釈・四大天王等の諸天善神が集まって、本地は久遠元初の自受用報身如来が、垂迹の姿を顕し、上行菩薩の御身として凡夫の中に誕生される夢を見られたそうである。
この先も、神秘的な展開が続くのだが、この御書を拝読すると、どうも違和感を覚えるのだ。他の御書から共通して読み取れる大聖人の仏法思想と違うものを感じる。どうも神格化させようとする意図を感じるのだが。「日蓮は日本国東夷東条安房国、海辺の旃陀羅が子なり」と『東夷』の漁師の子として生まれたことを堂々と主張された大聖人の言葉と同じとは思えないのだ。また、大聖人の御母上が出産前の時点でここまで明確な仏法用語を理解していたというのも大いに違和感がある。

日興上人への口伝とは到底思えない。これをそのまま大聖人の言葉として受け止めるのは無理がある。後世において、宗門が創作した物語としか思えないのである。(本因妙抄や百六箇抄は内容的には創作では無いと思うが。ただし一部では加筆で創作部分もあると推測する。)

唯授一人血脈相承で法主に無謬性を与え。大御本尊が全ての『御本尊の大本』と説き、そこを本門の戒壇と位置づけ、全ては一大秘法たる本門の本尊に集約されると説く。信徒は、このような教義を無条件に受け入れなきゃならない。この辺が信徒が『おすがり信仰』に陥りやすくなる要員だろう。

大聖人の仏法を信奉する人が、特定の宗教組織によって縛られる構図、これに強い違和感を覚える。大聖人の仏法はそのようなものではない。


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ここ最近は、御書の十大部と呼ばれる重書などを読み直している。読むたびに大聖人のスケールの大きさに感嘆せざるを得ない。

例えば、観心本尊抄に「本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し」「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」と仰せである。本門の釈尊は五百塵点劫より前に仏であり因も果も同時に含まれている。凡夫の我々の己心にも、釈尊と同じ無始無終の無作三身の仏界が湧現すると仰せなのである。ただし、これが「久遠元初の自受用身」という(大石寺系教学)用語につながるかどうかは別とする。

これが大聖人の仏法思想なのである。このように御書から大聖人の仏法思想を一つ一つ学び取ることが重要だと考える。

真筆が現存してない為に偽書説が至る所で湧き上がっている。その対策としては、御書を隅から隅まで命に刻むように読み込むしか無いだろう。そうして大聖人の仏法思想を命に刻み付けるのだ。一人一人が教学を確立する以外にない。そうすれば、偽書と言われる文章に大聖人の仏法思想が込められているか判断することができよう。そのような人達ならば、創価や宗門やその他の教団の教義に妄信するようなことは無いだろう。


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「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」の渡辺氏や、想学談林「運ちゃん氏」など、元学会員のバリ活だった人が、日蓮を信仰の対象から外し、我見に陥っている様を見ると哀れでならない。

創価の歴史、宗門の歴史を検証

その原因を考察してみた。今まで創価の教えを絶対的なものとして信じ込んできた。非活になって客観的に考察するようになり、今まで思考停止状態であったことに気付き、反省して全ての固定観念を取り払おうとした。その結果、今まで教え込まされてきた創価の歴史、宗門の歴史の裏が見えてきた。ここまでは必要な事だと思う。

日蓮滅後の弟子達の分裂を調査

そして彼らの調査の矛先は日蓮や弟子達にまで及ぶ。日蓮滅後の弟子達の分裂、日興門流の分裂、唯授一人血脈相承を作り出し法主絶対信仰に誘導したり、真筆がどんどん失われていく一方で偽書説が至る所で出てきた事、そういう歴史を見たからだろう。

日蓮を矮小化してしまう

彼らの現代人的な思考では、雨乞いの祈祷の件や、大地震や自界叛逆難、他国侵逼難といった経文による実証(現証)が、信じられないのだろう。

『人間・日蓮』を探求したのは良いが、その結果、日蓮を哲学者・思想家としての範疇で捉えてしまい、却って矮小化してしまったのである。

弟子達の方が優れているという錯覚

彼らは大乗非仏説を信じている。つまり、釈尊は大乗を説いておらず、後世の弟子達が造ったというスタンスである。つまり「釈尊よりも弟子達の方が偉い」という考えなのである。この思考がそのまま日蓮と六老僧の関係にも適用されている。だから五老僧を平気で擁護するのである。

教えの浅深・正邪に無関心

五老僧の擁護どころか、道元も法華経を用いたからという理由で賛美したり、日蓮すら『法華経至上主義』だと批判したり、ここまで狂ってしまったのである。

もはや彼らに教えの浅深・正邪はどうでも良く、「仏法は弟子達それぞれが各々の解釈で紡いでいくもの」という主張をしているのである。我見もここまで来ると恐ろしくなってくる。

釈尊が遺した言葉『自灯明・法灯明』を都合良く解釈して利用してるが、これは自分勝手な我説を以て信仰の対象とせよ、ということでは決してない。正しい法を根本として、自己を確立し、自分で何が正しいかを見定める事を説いてるのである。

また大聖人も「心の師となるとも心を師とせざれ 」と我見を厳しく戒められておられる。

信心を失う哀れな姿

こんな姿になるならバリ活の頃の方がマシだった。組織の打ち出しのまま妄信していたが『大聖人への信』は純粋だったのだ。取るに足らない中途半端な知識を仕入れたばかりに、一番大事な大聖人への信を失ったのである。これほど悲しいことは無い。


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「SOKA2015」ブログに関して。macska氏。現役壮年部の方である。役職は(元)地区部長。『真・僧俗和合』という理想を掲げて、創価の改革と宗門の改善を望まれている。創価の現在の体質に深く憂慮されている。創価の会則変更の数々に異議を唱えている。

昔の創価の教義を純粋に貫く

macska氏の教学は、純粋な日蓮正宗の教義そのものであると思われる(ただし唯授一人の血脈相承に関しては否定的な見方だろう)。大御本尊への恋慕の信心。一大秘法。日寛教学。大聖人が末法の御本仏であること。人法一箇。久遠元初。久遠元初自受用報身如来。これらは昔の創価を支えてきた教義そのものである。

会則変更に納得できず行動を起こす

一年か二年ほど前に、創価組織に対して、創価の会則変更に関しての疑問とそれに対する回答を要望したようだが、返答は一切無かったようである。

その後も創価の会則変更に異議を唱え続け、改革の志を強く持つが故に、少し前に、地元の座談会で、大御本尊の話題を振ってみたら、空気が凍り付いたようになったそうだ。

創価組織からハブられる

その後、組織から連絡が来なくなったようである。何とも残念な話だが、この経緯が今の創価の実態を顕している。

信仰の根幹はこうあるべき

組織からハブられてしまった今、一人で戦っているのだろうか。記事を見る限り、大御本尊への純粋な信心、そして今も続けている日々の唱題、そこから得られる深い確信が伝わってくる。信仰の根幹とはこのようにあるべきではないだろうか。

あの内村鑑三は、自分のキリスト教信仰上の考えが神学者や接した教会の指導者達に受け入れられず、教会から捨てられた状況になった時に
「ああ、神よ、私は教会を去っても、あなたから去ることはできない。教会に捨てられた不幸は不幸であるけれども、あなたに捨てられなければそれで十分なのだ」
と宣言している。宗教は違うが、人間として、ここに信仰の核心部分があるように感じる。

現状は辛い状況だろうが、いつまでも創価がこのままとは限らないし、近いうちに大きな変化があるかもしれない、諦めずに志を貫いて欲しいものである。

真・僧俗和合

『真・僧俗和合』という考え方は近いものがある。もともと創価も宗門も同じ教義解釈なのだから対立してることがおかしいのだ。共に広宣流布を願っているのである。お互いに組織改善して仲良くやれば良いではないか。

人間・池田大作を追及すべき

ただし、池田名誉会長の捉え方が少し違う。我々は表の部分だけしか、綺麗な部分しか見ていない。『永遠の指導者』という偶像では無く、一人の表も裏もある人間として捉えるべきである。袂を分かった原島嵩氏や福島源次郎氏や石田次男氏などの評価も丁寧に調査し見直す必要があると感じる。そうして総合的に評価し直す必要があるのではないだろうか。


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