薬草のサンスクリット原典

また、六十二種の[誤った]見解がなされることも、[それと同じように]みなされるべきである。[あらゆるものごとが]空であること(空性)、自性のないこと(無相)、欲望を離れていること(無願)、[煩悩の炎が]吹き消されていること(涅槃)に至る[四つの]門は、あたかも四種類の薬草のように、そのように見なされるべきである。[以上の]ものが用いられれば用いられるほど、諸病は平癒するのである、と[いう]。

このように、空であること、自性のないこと、欲望を離れていることという[三つの解脱]への入口を修行してから、衆生たちは無知(無明)を滅するのである。無知を滅することによって、[実際には存在しないものを、あるかのごとく]作り出す心の働きの滅尽があるのだ。このようにして、この苦しみのみの大きな塊りの滅尽までもがあるのだ。そして、このようにして、この人の心は、善にも、悪にもとどまることがないのである。

あたかも盲目の人が視力を回復するように、そのように声聞と独覚の乗り物に属するものは見なされるべきである。[その人は]生存領域の循環(輪廻)と煩悩の束縛を断ち切るのであり、煩悩の束縛から逃れて、三界に属する六種の生存領域(六道)から解放されるのである。



スッタニパータ
第3 大きな章 12.二種の観察

  「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。


十二因縁の『還滅の縁起』と同じような