創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

2016年02月

日興上人が身延を離山し、富士に移る際に、宝物の中に板本尊の記録は無い。

堀日亨法主は「富士日興上人詳伝」で、従来の説に疑義を提示している。日興上人が身延から富士に移る際の記録をもとに、 「御荷物の中に『生御影』『御骨』はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」 「すでに原殿抄の末文にあるごとく、身延山の常住物は何一つ持ち出していない。」 と述べている。

であるならば、富士の大石寺の本堂に安置した本尊は何だったのか?日興上人は果たして、どの御本尊を安置したのだろうか。いわゆる弘安二年の戒壇本尊でなかったとしたら。真筆の御本尊だろうか、それとも日興上人書写だろうか。

真筆の可能性が高い。なぜなら『富士一跡門徒存知の事』の中で、真筆の御本尊を下付したり、真筆本尊に脇書きしたり、つまり真筆の御本尊が手元に相当数あったと拝されるから。








日目上人等の残した「日興上人御遺跡事」の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しかない 

日興上人の入滅(1333年2月2日)の直後、正慶2年(1333年)2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」に、「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、 

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213) 

の二つだけである。この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ない。なぜならば、この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、 

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」(歴代法主全書1-213) 

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めている。



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戒壇の場所に、「身延の大坊・久遠寺」、と直接言及されていないのが不思議だ。

勅宣ならびに(関東)御教書を申し下して、が必須条件なのだが、これは当時は幕府と朝廷との二重の支配構造があり、その両方の認可を受ける必要があったからだ。

この認可を貰った時に、身延の大坊を本門の戒壇とせよ、と直接的に言えばわかりやすいのに、そうはされなかった。

その代わりに、「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」という表現をされた。

これは大聖人の御心の理想と現実を表しているのではないだろうか。現実は身延の久遠寺であり、理想は景勝の地であろう。大聖人は伝教大師の比叡山延暦寺を理想とされた。



そもそも本抄を極秘の形で大田金吾に伝える必要はあったのだろうか。もっと大っぴらに三大秘法に関して日頃から口を酸っぱくするほど講義すれば良かったのではないか。隠すようなことだろうか。言えば門下達が混乱するから言わなかったのだろうか。それほど門下達の理解が浅かったのだろうか。



大聖人が三大秘法の内容を勿体ぶって言わなかったから、滅後に、弟子達が勝手な発言をしたのだ。「我こそが正しい法門を相承した」「三大秘法の法体はウチにしか継承されていない」等々。

法体が大石寺が主張している『弘安二年の戒壇本尊』ならば、秘すべき程のことだろうか。積極的にアナウンスを行ったとしても全く問題なかろう。むしろ言わなかったことで疑いの方が大きくなる。そう考えると、これが法体とは思えない。






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虚実入り混じった日興門流の教義
・御義口伝
  コアな部分は日蓮大聖人の法華経講義
  そこに余計な加筆が混じっている
・百六箇抄 同じく

極端
・気軽渡辺氏などは偽書だと、一部を取り上げて全てを偽扱いする。
  例)無作三身が書かれていれば、全体を偽書扱いする
・逆に、大石寺系は、全てが本物と言い張る

どちらも違うだろう

真実は、コアの部分は日蓮大聖人の教えが受け継がれて
そこに加筆された部分がある
そう見るべきだ


日興上人は誰よりも師匠の教えを、厳格にに守ろうとした。日興門流はその精神を引き継いでいるはずだ。従って、コアの部分は大聖人の教えが、核心部分が継承されている。





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