(思索メモ段階、段階的に校正)
真の世界宗教は芸術分野にも浸透されなければならない。中世において花開いたルネサンス芸術はキリスト教をベースにしたものであるのは周知の通り。キリスト教が世界宗教たる証明であろう。
(仏法全体の芸術は数多くの歴史を持つ、法華経に依拠した芸術も数多い。が)
翻って日蓮仏法はどうだろうか。
宮沢賢治が日蓮仏法の信者であったことは有名である。彼は日蓮仏法を根本とした最高の文学者であることは今更言うまでもないが。
他の芸術分野ではどうだろうか。
現代社会が、軽薄で、刹那的で、衝動的で、AIが人間の性能を上回っている分野では『人間不要論』まで出てくる中、そのような思想が蔓延る今の世の中であればこそ、妙法の思想を根底とする芸術文化こそ求められてるのではないだろうか。
熱原の三烈士達が弾圧に耐える姿などは、人間の信仰心がいかに強固であるかを描くのに最適ではないだろうか。
かつて創価は青年部の文化祭を行っていた。ダンスや合唱や組体操で信心の喜びを表現する。あれも日蓮仏法の表現手法の一つと言って良いだろう。残念ながら現在は文化祭は行われなくなったようだ。海外SGIでは文化祭は実施されているらしいが。
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真の世界宗教は芸術分野にも浸透されなければならない。中世において花開いたルネサンス芸術はキリスト教をベースにしたものであるのは周知の通り。キリスト教が世界宗教たる証明であろう。
(仏法全体の芸術は数多くの歴史を持つ、法華経に依拠した芸術も数多い。が)
翻って日蓮仏法はどうだろうか。
宮沢賢治が日蓮仏法の信者であったことは有名である。彼は日蓮仏法を根本とした最高の文学者であることは今更言うまでもないが。
他の芸術分野ではどうだろうか。
現代社会が、軽薄で、刹那的で、衝動的で、AIが人間の性能を上回っている分野では『人間不要論』まで出てくる中、そのような思想が蔓延る今の世の中であればこそ、妙法の思想を根底とする芸術文化こそ求められてるのではないだろうか。
かつて池田名誉会長は対談『法華経の智慧』の中で、譬喩品に出てくる壮麗な大白牛車に関して「この大白牛車を描ききる妙法の画家が出て来てくれたら、私は本当に嬉しいと」言っていたが、創価からは、そのような芸術家は、未だ出てきていない。
文学・絵画・音楽・映画・ドラマ・ゲーム・エンターテイメント分野において
日蓮仏法を基調にした芸術が花開いて欲しいと願うが
熱原の三烈士達が弾圧に耐える姿などは、人間の信仰心がいかに強固であるかを描くのに最適ではないだろうか。
かつて創価は青年部の文化祭を行っていた。ダンスや合唱や組体操で信心の喜びを表現する。あれも日蓮仏法の表現手法の一つと言って良いだろう。残念ながら現在は文化祭は行われなくなったようだ。海外SGIでは文化祭は実施されているらしいが。
やれ「日顕宗が」、やれ「ニセ本尊が」、「極悪を徹底的に責めれば極善に通じる」
こんな不毛な創宗戦争でお互いに潰し合しを延々とやってるうちは
そのような芸術が花開くことはないのだろう。
教学そっちのけで、選挙活動や新聞推進ばかりに躍起にやっている人たちに
芸術の志など期待しても無駄なのだろうか。
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コメント
コメント一覧 (5)
こんにちは。
婦人部にハブられ無視されているわたしに、年上婦人部から相談がありました。ヒエラルキーの最下位にいるわたしにです。
「大御本尊は本ものなのか、偽ものなのか」という単刀直入の素朴な質問です。なんと答えたらよいものか、考えているとは思えない人が思いつきで聞いてきたような感じですので、少し厳しい回答をしてしまいました。
♡せっかく質問していただいたのですが、大御本尊が本ものか、偽ものか、といった議論に参加するつもりはありません。結論が出ない問題を議論しても不毛です。それより、御本尊はなんでも同じと、創価の公式見解があるのですから、そんなことをいちいち、気にかけることはありませんよ。創価流に言えば、血脈が流れていると思えば流れているのですから、なにも問題ありません。
もしも偽ものだとしたら、今まで積み上げ、深めてきた信仰歴と経験は無駄になります。創価の発展に、大御本尊は全く寄与しなかったと躊躇なく断言できます。
戸田先生は、戦後の再出発に際し、大御本尊に謗法を懺悔し広宣流布を誓いました。広宣流布とは法を護ることを意味します。その護法の功徳力によって、創価は発展したのです。護法の功徳力は言い換えれば、広宣流布への誓願力です。
生活革命、人間革命、折伏の原動力となった信仰の喜びに、大御本尊の影響は全くなかったと言い切る人は、会員ではありません。幸せになる、問題を解決する、病を克服する、あの人に必ず弘教すると、大御本尊に誓ったのです。悩み深き会員も、その功徳力と誓願力によって人生が開かれたのではないでしょうか。涙なくして語れない草創の労苦は、大御本尊とともにあったのです。
自分の影を踏みつけて荒らすような、自分の過去を否定する人、つまり、自己否定の人は、心が濁り、頭も狂っています。正常な精神の持ち主は、自分の過去を否定することに、耐えられない苦痛が伴います。信仰の根本への疑いは、それまでの人生を否定することでもあり、自己否定と同じことです。
一閻浮提総与への懐疑を議論する人も同様です。誰がなんと否定しようと御本尊は無作三身です。
『久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云』
「はたらかさずつくろわず」という根本の仏を、どうして否定できるのでしょうか?
受持しないと働くことも、否定して繕うことも不可能なのです。
無作の三身は久遠の仏と御教授されています。久遠の仏を受持の対象にしない弟子を、師敵対の悪と定義しても間違いだとは思いません。
もしも偽ものなら、会員に嘘を教えた歴代の会長の莫大な罪は、どのように償われるのでしょうか?
仏は方便は説いても、真正の嘘は説きません。真実のみを説く人を仏と言います。このようなルールは仏弟子にも適用されます。嘘を教えた仏弟子は、地獄三昧の旅を味わうことになります。厳密に言えば、偽ものと主張する会員は師敵対です。師敵対が正しいというのなら、師弟不二は存在しません。
大御本尊への深い信仰によって絶望の淵に沈んでいた人々が蘇生しました。宗教の使命は、人々に蘇生への確信を与え、実現への道筋を示すことです。
『妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり』
この金言は、宗教全般に広く認められているマキシムです。復活とは蘇生と同義であり、心のなかに新しい生き方と目的を植え付けることです。
立派な大人は立派な仕事、社会貢献をしてこそ、社会に認められます。同じように、筋道の通った主張、自分の考えを自分の言葉で語る人が信頼を得て、ひいては信仰の実証を示すことができるのではないでしょうか。何事も熟慮し、相手への配慮やアドバイスを考えてこそ、大聖人が言われる菩薩の一分の姿勢なのではないでしょうか。
妙法は、言い換えれば、実践哲学。仏壇に飾っておくものではありません。そのことを理解されていない会員の方が、残念なことに、多くいらっしゃいます。
妙法とは、実利的でありながら、人生の恒久的な真理を表わすものです。一瞬に総体を包含し、実践のなかに苦難の喜びを見るのが仏道修行です。何も考えない会員、行動に移さない会員が結局、創価を私利私欲の名聞名利の方向へ導く会員なのではないですか?
船の操舵手は会員一人ひとりなのです。民衆の支持がなくなれば、どんな優れた人物でも、法でも、経典でも忘れ去られてしまう。
自律しない会員が多すぎます。そういう人にとって、信仰はどんな役目を果たしているのか、わたしはときどき、疑問に思うことがあります。功徳をもらうためなのでしょうか。自分で選択し、自分の足で歩む。自分で考え、自分で動き、自分で結果を作る、それが信仰です。単純明快です。信仰は自由を実現するための意志表示であることをよく考えてみるべきです。
功徳なんて、道路の片隅に祀られているお地蔵さまを拝んでもあります。お地蔵さまを、よくご覧なさい。石でできたお地蔵さまでも、優しく手を合わせ、あなたを拝んでいるではありませんか。あなたの仏性を拝んでいるんですよ。深い信仰心を賛嘆している姿なのですよ。
キリスト教にも、イスラム教にも功徳があります。功徳は宗教の本質ではないために、どこにでもあるのです。現世利益は、宗教の本質ではないということです。会員のなかには、御書に説かれる現世安穏を、現世利益と勘違いし理解していらっしゃる方がおられます。考え方によっては、現世利益の反対の意味でもある現世安穏を、理解しない会員の安易さが、創価の大切なものを失わせる軽佻さにも繋がっていることを、深く考える必要があるのではないでしょうか。
その他大勢の、世間の流れに任すだけの烏合の衆であってはなりませんよ。宝塔品の儀式から退座した一闡提の不信者は、特別な人たちではないのですから。まわりに同化して個性を持たず、創造的でない人。智慧の鍛錬を怠り、怠惰な日常をおくる人。自律心に欠け、欲望の制御を自覚しない人。そんな人は、創価のなかにも塵の数ほどいます。会員であっても、そんな輩と友だちになってはいけません。自分の人生が狂ってしまいます。
ヒステリー婦人部にならないようにお互い注意しましょうね。
アンナさんの大御本尊に関する御見解はよくわかりました。私も現時点で真偽の議論の検証を進める気はありません。宗門側が進んで調査に協力すれば良いだけだと思います。
>筋道の通った主張、自分の考えを自分の言葉で語る人が信頼を得て、ひいては信仰の実証を示すことができるのではないでしょうか。何事も熟慮し、相手への配慮やアドバイスを考えてこそ、大聖人が言われる菩薩の一分の姿勢なのではないでしょうか。
仰る通りです。これぞ日蓮仏法の信仰者の目指すべき実践の姿だと思います。