今の創価が信奉しているのは、実質的に、もはや大聖人の仏法よりも、ラッピングされデコレーションされた池田哲学の方ではないだろうか。人間革命に描かれる池田大作は、常に庶民側に立って末端会員の為に奔走する理想の信仰者なのである。
創価の会員が本尊としているのは曼荼羅御本尊なのか、それとも偶像化された池田大作なのか。創価の会員に聞けば「曼荼羅本尊に決まっている」と答えるだろうが、実際には、人間革命で偶像化・理想化された池田・戸田・牧口の『永遠の師匠』という偶像が本尊になっているのではないだろうか。いつの間にか本尊の中身がすり替わっていないだろうか。
偶像化された池田大作を本尊とする点においては、某三人組系の方々や、宿坊の連中も本質的には同じなのである。違いは現執行部を是とするか非とするかの認識である。
しかし、果たして、それは悪影響をもたらすのだろうか。
一般会員は、理想化された『永遠の師匠』を信心のお手本にして「池田先生のようになりたい」「池田先生のように会員を大切にしよう」「池田先生のように職場で頑張り、地域のお手本になれるように頑張ろう」「いまの状況で池田先生ならどう動くか」皆はそう考えて行動するのである。そうすることによって人格が練磨され、生命が浄化されているとすれば、悪影響どころか逆に良い影響をもたらしているといえるだろう。
一般世間でも偶像を本尊とする人は多い。例えば、アイドルの熱心なヲタが数多く存在する。彼らはアイドルという偶像を本尊としているのである。この人たちは、アイドルから元気を貰うことによって日々の生活の活力となっている。日々の生活を頑張って、そうしてアイドルに貢ぎ続けるのである。ホストに嵌ってる人も同様の傾向であろう。
或いは歴史上の偉人に憧れて生き方の手本とする人もいる。これも実像ではなく(偉人伝などの情報に基づく)偶像であろう。或いは世界的なスポーツ選手や芸術家に憧れて熱狂的なファンになる人もいる。メディアから得られる情報は限定されているので詳しい実像はわからない。その対象はやはり偶像なのである。
結局のところ、偶像を本尊とする事が悪影響をもたらすのではなく、その本尊の浅深・高低によって影響が変わって来る。というのが正確な所なのだろう。
しかし、現実の創価の活動内容が、選挙の応援、多部購読・新聞推進・新聞配達、重い財務負担、書籍負担、イベント負担、このような内容が大半では理想と現実の乖離があり過ぎる。せっかく高い理想の『永遠の師匠』像を掲げているのに残念である。
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創価の会員が本尊としているのは曼荼羅御本尊なのか、それとも偶像化された池田大作なのか。創価の会員に聞けば「曼荼羅本尊に決まっている」と答えるだろうが、実際には、人間革命で偶像化・理想化された池田・戸田・牧口の『永遠の師匠』という偶像が本尊になっているのではないだろうか。いつの間にか本尊の中身がすり替わっていないだろうか。
偶像化された池田大作を本尊とする点においては、某三人組系の方々や、宿坊の連中も本質的には同じなのである。違いは現執行部を是とするか非とするかの認識である。
しかし、果たして、それは悪影響をもたらすのだろうか。
一般会員は、理想化された『永遠の師匠』を信心のお手本にして「池田先生のようになりたい」「池田先生のように会員を大切にしよう」「池田先生のように職場で頑張り、地域のお手本になれるように頑張ろう」「いまの状況で池田先生ならどう動くか」皆はそう考えて行動するのである。そうすることによって人格が練磨され、生命が浄化されているとすれば、悪影響どころか逆に良い影響をもたらしているといえるだろう。
一般世間でも偶像を本尊とする人は多い。例えば、アイドルの熱心なヲタが数多く存在する。彼らはアイドルという偶像を本尊としているのである。この人たちは、アイドルから元気を貰うことによって日々の生活の活力となっている。日々の生活を頑張って、そうしてアイドルに貢ぎ続けるのである。ホストに嵌ってる人も同様の傾向であろう。
或いは歴史上の偉人に憧れて生き方の手本とする人もいる。これも実像ではなく(偉人伝などの情報に基づく)偶像であろう。或いは世界的なスポーツ選手や芸術家に憧れて熱狂的なファンになる人もいる。メディアから得られる情報は限定されているので詳しい実像はわからない。その対象はやはり偶像なのである。
結局のところ、偶像を本尊とする事が悪影響をもたらすのではなく、その本尊の浅深・高低によって影響が変わって来る。というのが正確な所なのだろう。
しかし、現実の創価の活動内容が、選挙の応援、多部購読・新聞推進・新聞配達、重い財務負担、書籍負担、イベント負担、このような内容が大半では理想と現実の乖離があり過ぎる。せっかく高い理想の『永遠の師匠』像を掲げているのに残念である。
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コメント
コメント一覧 (2)
御本尊についての討論は、わたしの経験上、終わりがありません。正直なところ疲れるだけです。違う見解に出会っても、以前のように決着をつけようなどと決闘者の気持ちにはなりません。好きなように考え、好きなように行動すればいいんじゃないのと太っ腹の寛容心に満たされます。わたしも少しは成長したんですね。
ゴミ虫・毒虫・便所コオロギ・詐欺師・ペテン師・道化師・危険分子・痴呆・白痴・ごきぶり・女郎・べんじょ虫・毒殺魔王……。
これらの汚い言葉は、どこに掲載された言葉でしょうか。聖なる教えと題した新聞の活字となった言葉です。聖なる教えとはジョーク的反語? 青年部は、このような言葉を信仰の対話語として、宗門や反逆者を恨み、憎み、蔑んできました。
創価が仕組んだヘイト教育は、人権問題を扱い提言するような、人間や組織がすることではありません。このようなプロパガンダを、平気で利用する創価の体質を、わたしは決して許すことができません。
世界平和を言う前に、足許の宗門との戦争を解決したらどうなのでしょう。先生と法主の代理戦争の犠牲になりたい人は、池田神話の信奉者であることに誇りを持っているのでしょうか。神話的にエピソードを作りあげる――カリスマ性とはまわりの人間が作りあげる虚構です。
不当な権力への抵抗者とのイメージは、正義とカリスマ性確立の絶対条件であり、古今の偉人の共通性格です。先生は十分偉大な指導者なのに、必要がない誇大宣伝が行われている。そう考えるわたしが間違っているのでしょうか。それを尊敬する先輩に話したら、あなたは弟子ではないと叱られました。
弟子でなかったら信仰者としても不適格なのかしら。弟子とか師弟不二などと、人間性の可能性を限定するレッテルを、自分で剥がすのはとても大変!
レッテルは、執着と訳したり☆彡
>世界平和を言う前に、足許の宗門との戦争を解決したらどうなのでしょう
アンナさんの仰る通りですね。もともと創価も宗門も同じ教義解釈なのだから対立してることがおかしいのです。共に広宣流布を願っているのですから、お互いに組織改善して仲良くやれば良いと思いますね。
創価のヘイト教育・プロパガンダに関しては、”ただただ醜い”の一言でしょう。一度創価に『仏敵』扱いされたら二度と人間扱いされない程に徹底的に攻撃されますよね。そのような環境下で育った会員の人達が客観的な視点で物事を見ることは非常に難しいでしょう。何とか目覚めて欲しいものですが