長年の疑問を記事にしてみる。

陳と隋の行く末

古代中国の天台大師の時代。天台大師に帰依した王。陳の皇帝、宣帝と後主(叔宝)。南三北七の宗派を対論させて、天台が法華第一を論証し、後主も三拝し帰依している。正法に帰依しているのに、その後、陳国が滅んでいるのである。しかも陳国は天台の祖国である。

時代は進み、統一王朝・隋の時代も国主(文帝と煬帝)が天台大師に帰依しているのに国家が滅んでいるのである。日本とは比べ物にならないほどの大帝国が滅んでいるのである。

もしも天台を弾圧して正法を滅ぼしたのならば「還著於本人として亡国の結果を招いた」と理解できるが、史実は全く逆なのである。これは一体どういうことであろうか。どう捉えていけば良いのであろうか。正法を用いているのにもかかわらず大国が滅びてしまっているのである。これは非常に重要ではないだろうか。

ちなみに大聖人は『貞観政要』を常に座右に置かれ、御自身が書写された真筆が北山本門寺に現存している。また、佐渡の流刑地にあっても檀徒に対して送るように依頼されている。さて、この貞観政要の中には隋の煬帝が暴虐な君主であり、臣下の忠言を聞かず、その結果、隋の国は滅亡したと書かれてある。当然ながら大聖人も御存知だったはずだ。

義農の世・唐虞の国

日蓮仏法が隅々にまで広宣流布して、その結果が平和と繁栄の世の中になると信じている人々は多い。果たして、どのような世界になるのだろうか。『世は義農の世と成り、国は唐虞の国と為らん』『四表の静謐』との言葉はあるが。どうも、いま一つイメージが湧いて来ない。

かつて、正法が広まった時代をイメージし参考にするのが妥当だろう。具体的には、天台大師の正法の時代と伝教大師の正法の時代であろう。

平安の治世

伝教大師は、南都六宗と公場対決を遂げ、そのことごとくを帰伏せしめた。大聖人は、桓武天皇が賢王であり、伝教大師を用いたから、以降は平安の治世になったと仰せである。

確かに平安の治世は長く続いた。平安時代は、死刑制度が停止されていた。日本の歴史的に見ても、それまでにない安定した平和的な時代であった。災害・飢饉・疫病も比較的少なく安定していた。この平安時代こそ「正法を用いて平和な時代がもたらされた世界」の一つの成功のモデルとして認識して良いだろう。

その平安時代の『太平の世』の終わりの原因を、大聖人はこう仰せである。天台座主である慈覚大師・智証大師が大日経と法華経と比較して理同事勝と定めたこと。しかし、当時はまだ明確に法華経と大日経の勝劣がついていなかったが故に世もすぐには滅びなかった。「其の時又一類の学者有りて堅く此の法門を諍論せし上座主も両方を兼ねて事いまだきれざりしかば世も忽にほろびず有りけるか」しかし、後の天台座主の明雲によって完全に真言が法華経より勝ってしまったのである。「天台座主明雲・伝教大師の止観院の法華経の三部を捨てて慈覚大師の総持院の大日経の三部に付き給う、天台山は名計りにて真言の山になり法華経の所領は大日経の地となる」

大聖人は、源平合戦で平家が滅んだ原因、承久の乱で天皇方が敗れ流罪に処された原因は真言の祈祷だと指摘されている。正法を用いず誤った法を用いたからである。

立正安国論では、正法を用いず邪法を用いるが故に、三災七難が起き、ついには自界叛逆難・他国侵逼難が起こると仰せである。

安易な結論を出さず研鑽を続ける

長年、天台時代の国主の末路に着眼した人は誰もいない。日蓮仏法の信者でも誰も考えたことがない。だから自分で考えるしかない。御書を丹念に読み返し、大聖人の足跡を追うことによって何か考察のヒントが得られれば良いのだが、今後も考察し続けていきたい。



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