今、自分のやっている活動が本当に正しいのか。時には、立ち止まって考えてみることが大事だろう。組織主義に陥っていないか。『おすがり信仰』に成り下がっていないか。変な方向に走ってないか。相手の迷惑になっていないか。相手は嫌がっているのではないか。自分の活動がその地域に貢献しているか。等々。純粋な信仰心だけでは組織の打ち出しのまま盲従してしまうリスクが高い。常に自分を客観視し評価する習慣をつけるのが大切なのだろう。
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雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。
コメント
コメント一覧 (4)
管理人さんは、学会式の勤行をしているのですか?
勤行って、その人の状況とかで多少、やり方が変わるのはありでしょうか?
大聖人ご存命の頃は、決まった形式はなかったとも聞いています。
私の場合は、方便品の十如是までと寿量品の長行を一通りしてます。
あみさんの御指摘の通り、大聖人の時代はハッキリとした形式は決まってませんでした。ですから「こういう形式でなければダメ」というものは無いと思います。
昔、精神病の人がお題目となえると悪化するとの指導がありました。
今でもそうですか?
又障碍者・性的マイノリティー・外見・貧富等はすべて過去世の謗法として偏見をもっている感じを受けるのですがいかが思われますか?
出っ歯は口で誹謗したからとか口蓋裂もしかり・・差別意識ありすぎではないでしょうか・・最近こんなこと考えてます。モヤモヤ・・・・
コメントありがとうございます。
>昔、精神病の人がお題目となえると悪化するとの指導がありました。
私はそのような指導を存じません。
>又障碍者・性的マイノリティー・外見・貧富等はすべて過去世の謗法として偏見をもっている感じを受けるのですがいかが思われますか?
これらを「すべて過去世の謗法」として一括りにするのはどうかと思います。ただし、容姿や貧富に関しては十二因縁等々で、過去世からの善業と悪業によって果として生じると仏法では説かれていますね。