宗門の歴史を地道に調べているが、分裂あり、蓮蔵坊紛争等あり、稚児法主あり、要法寺系の影響あり、等々。とにかく紆余曲折な経緯があってややこしい。とてもじゃないが『富士の清流』などと呼べたものでは無いことは確かであろう。こんなことは本来、歴史学者や文献学者や資料好きな連中に任せておけば良いのだが、なぜ自分で調べる必要があるかというと、宗門の資料が大聖人の言葉や思想を正しく伝えてるかどうか疑問視されるものが数多くあるからである。典型的なのは産湯相承事など、まさに疑わしいものの代表で、こういうのを鵜呑みにして、大聖人の言葉として拝するわけにはいかない。だからといって逆に全部を偽所扱いするのも極端である。例えば御義口伝は大聖人の仏法思想が凝縮されたものだろうと推測される。

要するに、大聖人の言葉・仏法思想を正しく伝えている部分と、宗門が保身の為に、後の世に創作したり加筆された疑いが濃厚な部分が混在していると思われるのである。二箇相承や日興跡条々事などの諸資料の真偽など。

大御本尊の真偽問題も宗門側が調査に協力しない現在では永遠に解決しない可能性もある。宗門が根拠としている資料はどれも文献学的には認められていないのである。宗門側の信徒は「疑いなく信じるのが大事、信心によって導かれる」などと主張するが、このような大事な事は客観的な資料を元に慎重に考察を進めることが必要だと思われる。

結局は、現在明らかになっている文献学的な見地を元に、自分自身で一つ一つの資料を確認しながら判断していくしかない。というのが現状であろう。

私は、日興上人が大聖人の仏法思想を最も正しく受け継いでいると認識している。「日興上人御自身が確かに書いたと判断して間違いないだろう」というものを確認する事が肝要だと考える。この時点では『富士の清流』だったのだろう。ただし、それ以降が非常に不透明で解釈が難しい時代へと突入していったように思える。

それでも私は一人の日蓮仏法の信者として大聖人の御言葉を純粋に求めたい。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村