私は創価の会員の人達も、宗門の人達も、顕正会の人達も、皆等しく同志達と思っている。
それぞれが大聖人を信じ、広宣流布を願っているのだ。
ところが、純粋な信仰心の上に組織主義なるものが覆っていて、大きな障壁となっているのである。

創価は、この信心をするために、機関誌の購読、財務の負担、各種チケットの負担、機関誌の配達、選挙の応援、選挙活動、集金活動、信濃町詣で、等々、こんなものが信仰に必須とされているのである。会員の純粋な信仰心が組織活動に向けられるように利用されてるとしか思えない。

宗門は、お寺にいって僧侶の有難い説法を聞く、寺を中心とした各地区での集会、各種供養代、総登山に頻繁に行く、御法主上人への絶対的信仰、こんなものが信仰に必要とされているのである。

顕正会は浅井先生への絶対忠誠、強引な終末論的な勧誘、街頭での演説、過酷なノルマ、顕正新聞のノルマ、「法戦」のノルマ。こんなものが信仰に必要とされているのだ。

どの組織を見ても、純粋な信仰を貫く上で、逆に阻害になるような要素しか無い。

これらの組織は、大聖人の御書の一節を用いて、自分達の正当性を主張し、組織活動に向けられるように解釈してるのだ。

そしてお互いが敵だと教え込まされるのだ。自分たちの組織こそが正義だと主張し、引き入れることが救済だと信じて疑わないのだ。同じ日蓮仏法を信奉する者達が分断されている現実。まさに悲劇である。これが組織というものが持っている本質なのだろうか。人間というものは組織に依存し、偶像を崇拝しないと安心できないのだろうか。

同じ日蓮仏法の信者同志、仲良くすることはできないのだろうか。一人一人が目覚めて、組織に依存した『おすがり信仰』から脱却し、自分自身の信仰を取り戻すことはできないのか。


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