液晶モニターやプロジェクトマッピングの映像で顕された御本尊に効果はあるのか。仏界を湧現できるのか。対鏡と考えれば当然あるだろう。草木成仏の原理から非情のそれらにも一念三千が宿る。私達の己心にこそ御本尊が存在する。「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」と仰せの通りであろう。

御真筆本尊と同じ、正しい相貌であれば、法主の書写も、紙への複写も、板本尊への模刻も、各種モニターへの透過も同じ効果をもたらすだろう。

そもそも、木版の板御本尊は大聖人は一度も御図顕されていない。後の世に大石寺系などが板本尊へ模刻したのだ。厳密に大聖人のスタイルを踏襲するなら板本尊さえも許容できなくなる。しかし、それでは宗祖の意図を汲み取れていないだろう。様々な素材を用いても宗祖の意思に反していないだろう。

御本尊が見れない状況でも

投獄された門下達は御本尊を見れない状況下にあっても仏界を湧現できたのである。

また、佐渡以前の門下達はどうだったのだろうか。御本尊がまだ御図顕されていなかった時期である。その時期でも、もちろん仏界を湧現できたのは間違いがない。

また、海外のメンバー(創価・宗門を問わず)で御本尊下付がされていないメンバーがいる。あるいは何かの事情で御本尊を拝謁できない状況にある場合も存在する。そのような人達でも仏界を湧現できなければ逆におかしいのである。

題目によって己心の仏性を

法華初心成仏抄に「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ」と仰せのように、題目によって己心の仏性が呼び起こされるのである。

絵画や壁画から

また別の観点から考察してみたい。ダビンチやミケランジェロの絵画を液晶モニターで見ても感動するものである。心が動かされるものである。心が感応している状態であろう。

敦煌の壁画に法華経の『三車火宅の譬え』を描いたものがある。これも見る人の仏性を引き出す作用があるのかも知れない。莫高窟23窟南壁虚空会の壁画のように、荘厳なる虚空絵の儀式をビジュアル化した壁画が存在するが、それを見ると仏性を湧現できるのかも知れない。

文字曼荼羅がベスト

大聖人は仏性を引き出す対鏡として、文字曼荼羅がベストだと御判断されたのであろう。「梵音声の一相は 不可見無対色なれば書く可らず作る可らず」と仰せのように、仏像や絵画では『仏に備わる三十二相』の内、三十一相までは作り描くことが出来たとしても、梵音声は描く事も作る事も出来ないので、生身の仏と同じにはならない。


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