御書を拝すると大聖人が祈雨の結果を非常に重視されていたことがわかる。天台・伝教が行った祈雨。法然の祈雨。極楽寺良寛の祈雨。仏法の正邪の証明材料として重視されていた。大聖人御自身が良寛と祈雨対決を申し出て、負けたら弟子になるとまで言われた。御自身の積み上げてきたもの全生涯をかけた勝負だった。つまり祈雨の結果が仏法の正邪を決める要素であったのだ。

祈雨の勝負を仕掛けるという事は、御自身の宗教的生命を賭すものであり、御自身の祈りが天候をも左右できるという絶対の確信がなければ到底行える事ではない。

このあたりは現代人の我々は軽視してる傾向にあるのではないだろうか。あの有名な「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」(種種御振舞御書)という御文も雨乞いの祈祷に関してなのである。

現代人から見れば、祈祷によって天候に影響があるという考えは非科学的だと思うだろうが、果たしてそうバッサリと切り捨てていいのだろうか。仏法の『依正不二』の法理によれば、環境世界と自己の生命は一体のものであり、自身の一念が世界をも動かし得るもの説かれる。透徹した一念の祈りが、法界、自然、大宇宙に及ぼす影響を今の科学で観測・証明できていないだけではないだろうか。

次元は違うが、重力波というのは、かつては存在が疑問視されていたのだが、その存在が近年になって証明された。理論的には、身近な人間同士が腕を組んでぐるぐる回転するだけでも時空のゆがみは発生し、重力波を発生させているのだが、余りにも小さすぎて観測ができないのである。今の物理学のレベルでは観測の手法すら思いつかない。しかし100年後には超精密な観測手法が開発されて、波形をキャッチできる製品が製造されている可能性は否定できない。

人間の祈りが環境に及ぼす影響というのは、現代の科学では観測ができてないというだけで、無という結論を出すのは早計だろう。


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