産湯相承事という御書に関して。
内容を簡単に説明すると。大聖人の出産に関しての記載がある御書である。大聖人の御母上が出産の前夜に夢を見られたそうである。富士山の頂きに登って、その時に見渡した周囲の景色は、ただの風景ではなく過去・現在・未来を明らかにするようなものであったらしい。そこに梵天・帝釈・四大天王等の諸天善神が集まって、本地は久遠元初の自受用報身如来が、垂迹の姿を顕し、上行菩薩の御身として凡夫の中に誕生される夢を見られたそうである。
この先も、神秘的な展開が続くのだが、この御書を拝読すると、どうも違和感を覚えるのだ。他の御書から共通して読み取れる大聖人の仏法思想と違うものを感じる。どうも神格化させようとする意図を感じるのだが。「日蓮は日本国東夷東条安房国、海辺の旃陀羅が子なり」と『東夷』の漁師の子として生まれたことを堂々と主張された大聖人の言葉と同じとは思えないのだ。また、大聖人の御母上が出産前の時点でここまで明確な仏法用語を理解していたというのも大いに違和感がある。

日興上人への口伝とは到底思えない。これをそのまま大聖人の言葉として受け止めるのは無理がある。後世において、宗門が創作した物語としか思えないのである。(本因妙抄や百六箇抄は内容的には創作では無いと思うが。ただし一部では加筆で創作部分もあると推測する。)

唯授一人血脈相承で法主に無謬性を与え。大御本尊が全ての『御本尊の大本』と説き、そこを本門の戒壇と位置づけ、全ては一大秘法たる本門の本尊に集約されると説く。信徒は、このような教義を無条件に受け入れなきゃならない。この辺が信徒が『おすがり信仰』に陥りやすくなる要員だろう。

大聖人の仏法を信奉する人が、特定の宗教組織によって縛られる構図、これに強い違和感を覚える。大聖人の仏法はそのようなものではない。


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