ここ最近は、御書の十大部と呼ばれる重書などを読み直している。読むたびに大聖人のスケールの大きさに感嘆せざるを得ない。

例えば、観心本尊抄に「本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百塵点已前の仏なり因位も又是くの如し」「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」と仰せである。本門の釈尊は五百塵点劫より前に仏であり因も果も同時に含まれている。凡夫の我々の己心にも、釈尊と同じ無始無終の無作三身の仏界が湧現すると仰せなのである。ただし、これが「久遠元初の自受用身」という(大石寺系教学)用語につながるかどうかは別とする。

これが大聖人の仏法思想なのである。このように御書から大聖人の仏法思想を一つ一つ学び取ることが重要だと考える。

真筆が現存してない為に偽書説が至る所で湧き上がっている。その対策としては、御書を隅から隅まで命に刻むように読み込むしか無いだろう。そうして大聖人の仏法思想を命に刻み付けるのだ。一人一人が教学を確立する以外にない。そうすれば、偽書と言われる文章に大聖人の仏法思想が込められているか判断することができよう。そのような人達ならば、創価や宗門やその他の教団の教義に妄信するようなことは無いだろう。


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