御書に御真筆が無いからという理由で、その御書を研鑽しようとする事に対して「日蓮思想をきちんと語ろうとする意志なんてない」と揚げ足を取っている者がいるが、これには全く同意できない。

いま真筆が見つからないだけで、将来において発見される可能性もある。三大秘法抄などがそうである。三大秘法抄は偽書説が濃厚と言われ続けてきたが、近年の解析によると真書の可能性が高いという結果が出たのである。或いは、立正観抄に関しても、かつては偽作説が優勢だったが、古写本の調査が行われ、それが日進の直筆であることが証明される事によって真撰説が優勢になっている。このように、今は偽書と言われてる対象でも将来的には真書として認められる可能性も充分に考えられるだろう。

真筆が現時点で存在しなかったとしても、大聖人の仏法思想が他の御書と矛盾なく読み取れれば何の問題もない。むしろ進んで研鑽の対象にすべきであろう。

真筆のみに拘る輩は、大聖人の仏法思想を限定的なものばかり集めるが故に逆に矮小化してるのである。それは偏った大聖人像を勝手に作り上げる結果になるのである。真筆が無いという理由だけでバッサリと切り捨てる姿勢は非常に傲慢という他ない。

真筆でさえ、膨大な御書の中の部分なのである。いや現存の御書さえも大聖人の思想を全て物語ってるとは言えない。歴史の中で不幸にも消失してしまった御手紙も多くあるだろう。或いは直接お弟子達に指導された内容も多いだろう。これが重要である。しかし、それらは文字にして残っていない。従って弟子、なかんずく高弟の行動こそが大聖人の思想の全貌を理解するに於いて重要なのである。一番身近にいて常随給仕された日興上人の行動こそが。


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