「気楽に語ろう創価学会非活のブログ」の渡辺氏や、想学談林「運ちゃん氏」など、元学会員のバリ活だった人が、日蓮を信仰の対象から外し、我見に陥っている様を見ると哀れでならない。

創価の歴史、宗門の歴史を検証

その原因を考察してみた。今まで創価の教えを絶対的なものとして信じ込んできた。非活になって客観的に考察するようになり、今まで思考停止状態であったことに気付き、反省して全ての固定観念を取り払おうとした。その結果、今まで教え込まされてきた創価の歴史、宗門の歴史の裏が見えてきた。ここまでは必要な事だと思う。

日蓮滅後の弟子達の分裂を調査

そして彼らの調査の矛先は日蓮や弟子達にまで及ぶ。日蓮滅後の弟子達の分裂、日興門流の分裂、唯授一人血脈相承を作り出し法主絶対信仰に誘導したり、真筆がどんどん失われていく一方で偽書説が至る所で出てきた事、そういう歴史を見たからだろう。

日蓮を矮小化してしまう

彼らの現代人的な思考では、雨乞いの祈祷の件や、大地震や自界叛逆難、他国侵逼難といった経文による実証(現証)が、信じられないのだろう。

『人間・日蓮』を探求したのは良いが、その結果、日蓮を哲学者・思想家としての範疇で捉えてしまい、却って矮小化してしまったのである。

弟子達の方が優れているという錯覚

彼らは大乗非仏説を信じている。つまり、釈尊は大乗を説いておらず、後世の弟子達が造ったというスタンスである。つまり「釈尊よりも弟子達の方が偉い」という考えなのである。この思考がそのまま日蓮と六老僧の関係にも適用されている。だから五老僧を平気で擁護するのである。

教えの浅深・正邪に無関心

五老僧の擁護どころか、道元も法華経を用いたからという理由で賛美したり、日蓮すら『法華経至上主義』だと批判したり、ここまで狂ってしまったのである。

もはや彼らに教えの浅深・正邪はどうでも良く、「仏法は弟子達それぞれが各々の解釈で紡いでいくもの」という主張をしているのである。我見もここまで来ると恐ろしくなってくる。

釈尊が遺した言葉『自灯明・法灯明』を都合良く解釈して利用してるが、これは自分勝手な我説を以て信仰の対象とせよ、ということでは決してない。正しい法を根本として、自己を確立し、自分で何が正しいかを見定める事を説いてるのである。

また大聖人も「心の師となるとも心を師とせざれ 」と我見を厳しく戒められておられる。

信心を失う哀れな姿

こんな姿になるならバリ活の頃の方がマシだった。組織の打ち出しのまま妄信していたが『大聖人への信』は純粋だったのだ。取るに足らない中途半端な知識を仕入れたばかりに、一番大事な大聖人への信を失ったのである。これほど悲しいことは無い。


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