願兼於業と宿業に関して。昔から、思う所があった。今回、整理してみる。

三世の善業・悪業こそ公平

自分は仏教で説かれる業の概念は正確で公平なものであると確信している。この業の因果律が無ければ、『何をやってもあり』になってしまうからだ。善業・悪業を否定すると、その人生で何をしてもやった者勝ちになってしまう。どれだけ悪いことしても、それが表にバレなければ勝ち。他人を騙しても搾取しても明らかにならなければ勝利。裏で悪いことをして、人を蹴落としたり、或いは殺しても表に出なければ勝利。人類の歴史上、そんな事は無数にあるだろう。そのような行いをしてきた人々が死後、自分の積んだ悪業によって苦しまなければ、公平とは言えない。善業も全く同じである。誰が見てなくても評価しなくても業が必ず善果にならなければ公平とは言えない。同生天・同名天として説かれるのが仏法の公平性であろう。

願兼於業の解釈

一方、願兼於業の解釈が難しくて悩む所がある。本来は悪業は無いのだが、妙法の偉大な功力を証明する為に願って業を兼ねて生れてくる。と説かれる。

少し思索を進めてみると、過去世に悪業を積み重ねた人(いわば純粋な悪業)と、願兼於業の人(願って業を兼ねた人)との区別がつかなくなるのではないだろうか?例えば、重い病気の人が「自分のこの病気は悪業が原因なのだろうか?それとも願兼於業なのだろうか?」と考えた。一方は大悪人で悪業を積んだ過去世であり、一方は善業で何不自由ないのに、あえて願って業を兼ねて生れて来た。つまり天地ほど過去世が違ってくるのである。

仮に、過去世が大悪人で悪業を積んだのであれば、大聖人の仏法により転重軽受できるチャンスがある。(宿命転換という用語は御書に無いので触れないでおく)

しかし、一方で、例えば大病した人が頑張ってる姿は感動を与えるものである。仏法の力で乗り越えた姿は説得力があり、人の心を打つものがある。これも否定はできない。


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