『広布の大河に君ありて』ブログに関して、思う所を述べてみる。管理人は『王者の剣』さん。現役のバリ活の壮年部の方である。

人柄がにじみ出ている。

兵庫県の山間部が拠点であるらしい。自分の地域を宝城として、会員の激励に走り回っている。常に感謝を忘れず、何があっても自分に原因がある事として受け止める。人格的に素晴らしい方であろう。人生の全てを創価学会に捧げてきたのだろう。金も無く何も無くても、創価の為に尽くしてきた事を誇りに思っておられる。まさに『心の財』である。

創価組織=正義ありきの発想

だが一方で「今の組織の打ち出し・活動が間違ってる箇所もあるのでは無いか」とは思わないのだろうか。全てを『無疑日信の信心』で受け止めた結果、単なる現状容認になってしまっている。

一方、学会活動に批判的な意見を持つ人の投稿は全て排除しているようだ。学会員の人が創価の疑問点の指摘をすると「結果として同志を分断し、迷わせ、信心を食い破る師子身中の虫となる」らしい。これでは余りにも排他的である。結局は一方的な思い込みが激しい人でしかなかったようだ。ブログの中でも対話を大事にして欲しかった。残念である。

このような人達は、仮に創価の悪い所が見えても目をつぶってしまう傾向にある。「池田先生の作られた本部組織だから間違いがあるハズがない」と『無疑日信の信心』で現状を肯定してしまうのだ。改善の方向に運動を持っていこうとしないのだ、これが創価が組織改善できない原因であろう。

しかし、学会員にはこのような人が多いのだ。一人一人は人が良い素晴らしい人なのだが、ひとたび創価の問題点を指摘しようものなら、人が変わったかのように排他的な姿勢になる。いわゆる『創価シャッター』と言われる現象であろうか。このブログの人が典型的である。

綺麗な表面のみをアピール

頻繁に「組織の中で戦いきって宿命転換できました」「人と会えて励まし合う喜び」などをアピールしているが、どうも「綺麗な場面」しか書いてないように思えるのだ。この人は地元の責任者のようだが、選挙活動や財務の推進などは部員さんにどのように訴えてるのだろうか。もしも「選挙支援活動のどこが広宣流布なんですか?御書の何処に書いてあるんでしょうか?」と部員さんに強く反発されたら、どう説得するつもりなのだろうか。

「法戦をやりきれば本当の功徳が得られます」などと『集票マシーン』のような行為を功徳に結び付けて賛美するのだろうが、そんな稚拙な説明で納得できるような人はもはや皆無だろう。このネット時代にそんな非論理的な説明は通用しない。不祥事を起こした議員が目立ち、安保法案や共謀罪に妥協して賛成したり、与党に居続けたいが為に変節を繰り返している公明党を擁護することは明らかに苦しい。

純粋だが客観視できない

この人は純真で組織の言う事をそのまま鵜呑みにするタイプだろう。もしも第二次創宗問題で宗門側に行っていたら、今頃は、法華講員として「大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、および御歴代上人、そして現在は第六十八世御法主であられる日如上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されています。ゆえに日如上人猊下の御指南を仰ぐべきなのです。この一貫した仏法の正しき流れを、些かなりとも違えてはならならないと確信しております」と主張してたであろう。

純粋であるということは素晴らしいが、それだけでは屹立した信仰者であるとは言えまい。常に客観視できる思考を持つという事がいかに大切かを教えてくれる方である。


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