御書を丹念に拝読し、大聖人の足跡を辿って行き、熟慮を重ねて結論を出したところ、大聖人の出世の本懐は、やはり熱原の法難と弘安二年の御本尊を顕された事だと思う。ただし広義で言えば竜の口以降、御本尊を御図顕された事だと認識している。

以下は、その根拠である。

身延入山後

大聖人は、身延入山以降は弟子達の育成を主眼におかれていた。御自身は矢面に出ず弟子達の闘争を見守っておられた。

御自身の滅後

常に釈尊滅後のことを言われていた。「法華経は滅後、別しては末法の為に説かれた」と強調されている。つまり御自身の滅後の事も常に念頭に置いておられた、と考えるのが自然だろう。

法難を重視された

大聖人は法難を重視された。「法華経に書かれている通りの難を受ける者こそ、法華経の行者の証明である」との仰せを何度もされている。そして、門下達にも「法華経の為に命を捨てよ」と言われている。

法難こそ法華経の行者の証明であり、大聖人が最も重視された事である。熱原の法難は、弟子達が主体の布教闘争で起こった最大規模の法難である。弟子達が自ら引き起こした難だからこそ、特に重要視されたのは間違いない。

聖人御難事では、大聖人が仏説の通り大難を受けていること。門下達に、難を受けて脅されても師子王の如く恐れてはならないこと。我等は現在は仏法のために、この大難に値ってはいても、後生は仏になれるのであると仰せのこと。熱原法難の受難者(農民信徒)に対して厳父のような峻厳な指導をされていること。

弟子達が自ら起こした最大規模の大難。農民信徒が主体、つまり知識階級ではなく民衆そのもの。大聖人は、弟子達が法華経に書かれている通りの大難を引き起こしたことを見て『本物の法華経の行者』と喜ばれたのではないだろうか。そしてこの大難を乗り越えて欲しかったとお考えだったのだろう。

立宗宣言から幾星霜(余は27年)ここまでの成果をあげた。これぞ『出世の本懐』であると感じられたのではないだろうか。

大御本尊は一般的な相貌

と同時に、この難をきっかけにして、御自身の滅後の、未来のまだ見ぬ多くの門下達(民衆が主体)の為に、標準的な相貌の御本尊を御図顕されたと推察する。それが弘安二年の御本尊だったのではないか。

同じ御本尊といっても、各門下達に与えられた御本尊を見ると少しづつ相貌が違う点。座配も違う。これは門下お一人お一人に対して最もイメージしやすい(=仏界を湧現しやすい)ように配慮されたものと推察する。

しかし、まだ生まれていない未来の門下達(万年の外・未来までも)には『一般的な相貌』がベストと判断されたのではないだろうか。それが弘安二年の御本尊の相貌ではないかと推察する。