創価学会は2014年に会則の変更を行った、宗門の大御本尊を『受持の対象にしない』と明言した。加えて、宗門の分身散体の教義を否定した。

かつて、戸田会長は
「これは(民衆の苦悩を救うために、日蓮大聖人様が建立し遺(のこ)されたのは)、弘安2年の10月12日の大御本尊様のただ1幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこを拝んでも絶対にだめなのです。弘安2年の10月12日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れていますから、絶対だめなのです。」(昭和30年8月24日『戸田城聖全集』第4巻343頁)
と明確に宣言した。

その大御本尊を『受持の対象としない』という。それでは一体、会員が日々拝んでいる御本尊は何なのだ。日寛師が大御本尊を元に分身散体として書写したものではないか。その根本の御本尊を『受持しない』とはどういう事なのだ。戸田会長の話から考えれば「法脈が切れている」ではないか。『永遠の師匠』の指導と矛盾してるではないか。創価学会はこの点を会員に丁寧に説明すべきである。

宗門の教義は大御本尊に信を取る分身散体の教義である。創価は、一般会員に日寛師書写本尊を複写配布して安置している。あるいは大誓堂安置の本尊は日昇師書写の御本尊を板御本尊に模刻したものである。大御本尊を受持しないと明言したのであるから、これらの教義に反してるのだが、創価指導部はこの自語相違を丁寧に説明しなければならない。

創価の主張が余りにも矛盾が過ぎるのである。自語相違が過ぎるのだ。分身散体の教義を否定しながら、自分達はその分身散体の原理を用いて書写された(日寛師や日昇師)本尊を使っているのだ。その大本の大御本尊を受持の対象にしないと言い放っている。こんな子供騙しの論理が通用するワケがない。

大御本尊を受持の対象から外し、分身散体の教義を否定するのであれば、創価は(宗門の書写御本尊を使用せずに)自分達の独自の本尊を用意しなければならないだろう。そうしなければ自語相違が一向に解決しないままである。

信仰者にとって本尊は核心部分である。その部分に変更があったのに、一般の会員の方々は何も分かっておらず、選挙支援活動や新聞推進に一生懸命になっている。こんな姿を見るのが悲しいのだ。一人一人が御本尊について熟慮しなければならない。


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