日蓮本仏を否定する我説を延々と繰り返してる連中がいるが、御書を隅々まで丁寧に拝すると明らかである。

末法には「法華経もせんなし」

「上野殿御返事」(末法要法御書)に「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但ただ南無妙法蓮華経なるべし」と仰せのように、釈迦の仏法が末法に通用しないのだから大聖人の仏法が必要なのである。末法に於いて、法華経を弘める大聖人が仏であるのは疑いようが無い。つまり、大聖人が『本仏』なのは言うまでもない。

主師親の三徳

大聖人は、『主師親の三徳』を備えた存在こそが仏であるとの認識であられた(一代五時鶏図、釈迦一代五時継図)。下山御消息にも「一身に三徳を備へ給へる仏」と書かれている。

開目抄や撰時抄や真言諸宗違目や一谷入道御書を読めば、大聖人が『主師親の三徳』を備えた存在であられることがわかる。御自分のことをハッキリと書いておられる。もしも仏は釈尊のみで、御自身は仏では無いと思っておられたならば、何の為に御自身に『主師親の三徳』があることを強調されたのだろうか。明らかに不必要な強調ではないだろうか。開目抄で冒頭から「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」と『主師親の三徳』の重要性を強調されて、後段の章で「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」と言い切っておられるが、これも全く不必要な強調になってしまうだろう。佐渡の命懸けの状況下で、(度重なる法難の為に)疑いが生じている門下達に対して確信を与える目的の御書なのに、そんな意味のない強調をされるはずが無い。

南無日蓮聖人

また撰時抄では「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計(ばか)りにてやあらんずらん」と、大聖人御自身を帰依(南無)の対象として位置付けている事を明言されている。

日蓮を以て正と為すなり

法華取要抄には「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや、答えて曰く(中略)在世の衆生は傍なり滅後を以て之を論ずれば正法一千年像法一千年は傍なり、末法を以て正と為す末法の中には日蓮を以て正と為すなり」と仰せられている。つまり、法華経は末法の大聖人の為に説かれた、と仰せなのである。末法に於いて法華経を弘める人は仏であるのは言うまでも無い。

御自身と不軽菩薩との一致・符号を強調

大聖人は佐渡流罪以後、御自身と不軽菩薩との一致・符号を強調しておられる。それは、末法の教主・本仏として南無妙法蓮華経の大法を弘める御自覚があったからに他ならない。「彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」(顕仏未来記)

釈尊の仏法は月、大聖人の仏法は太陽

諌暁八幡抄で「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり」と仰せである。これは、釈尊の仏法を月に、大聖人の仏法を太陽に譬えられ、月に勝ると仰せなのである。釈尊の仏法が法華経謗法の者を救済できないのに対して、末法の仏法は不軽菩薩と同様に逆縁の功徳によって正法を誹謗する『一乗の強敵』をも救うことが出来る仏法であることを宣言されている。また、釈尊の法華経が在世八年の間しか衆生を利益する力を持ち得なかったのに対して、大聖人の仏法は末法万年の衆生を照らす仏法であることを示されている。

法主聖人

また、滝泉寺申状では「法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り君の為民の為神の為仏の為災難を対治せらる可きの由・勘え申す」と御自身のことを『法主聖人』と明言されている。本来、仏法上『法主』という言葉は、中阿含経第49大空経に「世尊を法の本と為し、世尊を法主と為す。法は世尊に由る」と記され、同じく雑阿含経第1に「世尊を法主と為し、導と為し、覆と為す」と記されている通り、世尊・教主を指す言葉である。つまり、御自身が末法の教主として自覚されていた事を明確に示唆している。

上行菩薩の存在そのものが仏

「日蓮聖人は上行菩薩の再誕であって、末法の本仏では無い」と主張する者が多いが、そもそも上行菩薩の存在そのものが仏なのである。これは別記事にも書いた通り。当時の時代背景による制約も知らずに、大聖人が仏法上の自らのことを明言することが難しいという背景も考慮せずに、思い込みが激しい者が何と多いことか。

本仏否定派の信仰心は

「日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない」等々と、未だにこんな不毛な主張を延々と繰り返す連中がいる。そんな解釈をすればするほど無駄な時間を費やしているに過ぎない。このような人達の多くが日蓮仏法を信仰の対象から外しているのは偶然だろうか。つまりは信仰心でも何でもなく単に知的好奇心を満たす為に主張しているに過ぎないのである。


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