想学談林「運ちゃん氏」のブログの紹介記事を書いたが、彼の記事でいつも気になっているポイントがある。

日蓮を呼び捨てに、弟子達に師を付ける

それは、日蓮を呼び捨てにして、弟子達に「師」と敬称を付け「日昭師」などと呼んでいる有様である。まるで弟子の方が偉いと言わんばかりである。

五老僧の邪義を擁護

五老僧の邪義を擁護する姿勢は根本的に間違っている。五老僧は天台沙門と名乗ったり、仮名交じりのお手紙を、すき返したり、本迹一致と主張したり、師匠の心を踏みにじっている。日蓮大聖人は「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」と仰せである。どこまでも教義に厳格であられた。五老僧の行いを大聖人は深く悲しんでおられるだろう。

その五老僧を擁護する「運ちゃん氏」の姿勢は全くおかしなモノだ。彼の言い分を要約すると「弟子達が各々勝手な解釈をして己義を構えても全然OKだよ」と主張しているのである。

世界一、法の正邪に厳格

大聖人は「南無妙法蓮華経の良薬をば彼れ等が口には入るべき」と薬に譬えられた。間違った薬を飲んで不幸に陥り苦しんでいる衆生を救う為に人生をかけて闘争されたのだ。運ちゃん氏は、その点は一切スルーして自分の都合の良い部分だけを切り取ってるのである。

もしも大聖人が「釈尊の弟子達が、それぞれ勝手な解釈しても全然OKである。真言も念仏も禅も、それぞれに良さがあるね」などと仰る事があっただろうか?そんな事は有り得ない。大聖人は、世界一、法の正邪に厳格であられた方である。立宗宣言から御遷化まで邪義を徹底的に破折された御精神を片時たりとも忘れてはならない。

禅宗にも心惹かれる

もっとも運ちゃん氏は、五老僧の邪義を擁護する事などまだ軽いぐらいで、あろうことか禅宗にも心惹かれているようで、「『拈華微笑、以心伝心、見性成仏』という禅宗の考え方にも一日の長がある」などと言い放っている。

もはや彼に宗教の正邪・教えの浅深など全く関心が無いように見える。この調子でいくと、そのうち真言や念仏をも讃嘆しそうな気配である。(既に、法然のインスピレーションに一目置いてる事をつぶやいてる)

己の命と引き換えに日蓮仏法を守る

大聖人を念仏の暴徒達から己の命と引き換えに守った工藤吉隆や鏡忍房日暁。主人から大聖人の仏法を捨てるか地位を捨てるかの選択を迫られても、捨てなかった四条金吾や池上兄弟達。熱原の法難で首を刎ねられても大聖人の仏法を捨てなかった信徒達。彼の姿勢はこのような先人達の生き方を侮辱してるのである。

もっとも彼なら平気で「禅も経文以外からの素晴らしい教えもあるだろうし、仏教それぞれの宗派に良さがある。どれが優れてるとか劣ってるとか、そんなことで命を懸けるのはナンセンスだ」と言い出しそうである。

ただの資料好きに成り下がる

もはや単なる資料が大好きな仏教学者の走りと何ら変わらない。こんな姿になるぐらいなら、彼の奥さんの『無疑日信の信心』の方が生命の次元で見れば遥かに貴いと言える。自分の活動が人を救うと信じて日々頑張ってるのだから。利他の菩薩の生命である。彼は残りの生涯を文献を読み漁り我見に溺れる日々で終わるのだろうか。悲しいことである。


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