創価学会と日蓮仏法と活動

雅彦と申します。元バリ活の自分が創価学会や宗門、日蓮仏法について思う事を書いていきます。長年、創価学会が唯一正しいと信じ込んできました。非活になり先入観なしに考えられるようになりました。信仰とは何か?組織とは何か?どう関わるべきか?全てを総括したいと思います。書きたいテーマが山ほどありますので、随時更新していく予定です。気になる記事があれば、お気軽にコメントして下さい、答えられる範囲で回答致します。

ジョージ・オーウェルの名作『動物農場』は世界的に有名である。旧ソ連共産党の腐敗を風刺した作品であることは周知の事実だが。今回、久しぶりに読み返してみた。すると、現代に於ける宗教組織にも通じるものがあると感じた。深く印象に残った箇所をピックアップしてみたい。

動物達は奴隷のように働いた。しかし働きながら彼らは幸福だった。自分たちのやっている全ての事は自分たち自身と、後から生まれてくる子孫たちの為であって、決して、のらくらしながら他人の者を盗む人間ども一味の為では無いことが充分にわかっていたので、彼らは、どのような労苦も犠牲も惜しまなかった。
(打ち出しノルマをこなすのは本当に厳しい、だけど「福運を積む」為に、身を粉にして組織活動に勤しむ。これが『幸福の軌道』なのだと信じさせられている)
「わしがもっと働けばいいのだ」「ナポレオンはいつも正しい」というこの二つの合言葉が、彼にとっては、全ての難問題に対する充分な回答であるように思われたのだった。彼は雄鶏と打ち合わせて、朝30分ではなく45分早く起こして貰うことにした。そして余暇(といっても、今では大した余暇も無くなってしまったが)にはいつも一人で石切り場に行き、割れた石を一荷分集めて誰にも手伝って貰わないで風車建設用地まで引っ張って行くのだった。
(地元組織から活動家がどんどん減っている。新聞配達などの人員がいない。自分が更なる負担を引き受けるしかない。これが『自分の使命』なのだと言い聞かせる。)
スクィーラー(豚の宣伝係)は演説する時には、いつも頬からポロポロ涙を流しながら、ナポレオンの英知と心の優しさと、あらゆる所の全ての動物達、とりわけ、他の農場で、いまだに無知と隷属の状態に甘んじている不幸な動物達に寄せている深い愛情について語るのだった。見事に出来上がったり、幸運に見舞われたりする事は、何でも全てナポレオンのおかげにするのが通例となった。
(ありとあらゆる会合で、幹部達が『偶像』を、これでもかとばかり賛美する。「先生は全てお見通しなのです!」「先生!ありがとうございます!」と賛美する甲高い声のトーンが特徴的だ)
農場は、今や繁栄の一途を辿り、組織も改善された。その敷地も、ビルキントン氏から買い入れた牧草地二つ分だけ広くさえなっていた。風車も、とうとう首尾よく完成し、農場には、専用の脱穀機と干し草用のエレベーターが備え付けられた。色々な新しい建物が増築された。
(本部組織も大きくなって、立派な建物が次々と増築されていった)
どういうわけか、動物たち自身は、前と比べてちっとも豊かにならないのに―――といっても、勿論豚と犬とは別だが―――農場は前より豊かになっているようだった。それというのも、一つには、豚や犬の数が非常に多いせいかもしれなかった。なにも、これらの動物達が彼らなりの働きをしなかった、というのではない。スクィーラー(豚の宣伝係)が飽きもせずに説明したところによれば、「農場を監督し、組織することは、どこまでいってもキリのない仕事だった。こうした仕事の大部分は、無知な他の動物達には、とてもわかりっこないような種類のものである。例えば、我々豚達は毎日『とじ込み文書』『報告書』『議事録』『覚え書き』などというまるで謎のような難しいものと取り組んで、大変な労力を払わなければならないのである。」とスクィーラーはみんなに説明した。
(本部の偉い人達は、先生のお膝元で、一般会員達とは違う特別な役目を負っている。だから特別待遇でも良いのだ。一般会員は彼らに『おまかせ』する。)
しかし、そうは言っても、豚も犬も、自分達が働いて食物の一かけらさえ生産するわけでは無かった。しかも、彼らの数は大変多く、食欲はいつも旺盛だった。
(中央の宗教貴族達を養うのは大変である)
他の動物達はどうか、といえば、彼らの生活は、彼らの知る限りでは、昔と変わらなかった。たいていは腹が空いており、藁の上で眠り、池の水を飲み、畑で働いた。冬は寒さに苦しみ、夏はハエに悩まされた。

昔と比べて生活事情が良くなっているのか否か、はっきりと見極めようとしたが、思い出せなかった。現在の生活と比べてみる基準が全くなかったし、いつも決まって「全てが次第に良くなっている事をハッキリ示している」スクィーラーの数字の表の他には、根拠にする資料も何一つないのだった。動物達にとって、これは解けない難問だった。ともかく今はそんなことをじっくり考えているような暇は殆ど無かった。
(出てくる数字は大本営発表の数字だけ。客観評価できる資料は殆ど無し。次から次へと下りてくる打ち出し目標によって、一般会員には考える暇を与えない。こうやって本部執行部に対する疑問を起こさせない)


この小説は、現代に於いても通じる、不朽の名作といえるだろう。ジブリアニメで有名な宮崎駿監督は「現代は、あの農場よりはソフィスティケイトされているような気もするけど、基本構造は、全然変わっていない。豚じゃなくて別のものに入れ替わっているだけ」と非常に鋭い指摘をされている。現代に於ける宗教組織でも酷似した構図ではないだろうか。


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仏法はアナッタン(パーリ語・anattā)、アナートマン(梵語・अनात्मन・anātman)を説いたとされる。中国に伝来したとき、これを無我すなわち我が無いと翻訳された。このため仏法は自己を否定するものという誤解が生じてしまった。ところが原始仏典には「自己を求めよ」「自己を護れ」「自己を愛せよ」などと積極的に「自己の実現」「自己の完成」を説いていて『無我』という表現は見当たらない。

「我」も「自己」もアッタン(パーリ語・attan)又はアートマン(梵語・आत्मन्・Ātman)と言う。これに否定を意味する接頭辞anを付与したのがアナッタン・アナートマンになる。つまり『無我』ではなく『非我』(何かが我なのではない)と訳されるべきなのだ。何か実体的なものを自己として想定し、それに執着することを戒めた言葉なのだ。

何かに執着し、何かにとらわれた自己にではなく、『法(梵語・धर्म・dhárma)に則って生きる自己』に目覚めさせようとしたのが仏法であった。


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以前の記事で査問などの証拠が出てきていないと指摘したが、ついに公に世に出てきた。埼玉の(元)創価会員の篠澤協司氏のホームページ『創価学会埼玉県審査会及び創価学会監正審査会との文書往復の全記録』を参照されたい。ここに詳しい経緯と、創価組織から送付された書類、篠澤氏から提出した書類が全て載っている。

なお、篠澤氏はTwitterでハメル准将というハンドルネームで活動されている。こちらでも詳しい経緯が載っている。

経緯を簡単に辿ると、池田名誉会長の平和思想をベースに検討した結果、安保法案は間違っているとの結論に達したこと。安保法案に反対の意向を創価組織に明言したこと。以後、公明党の支援を一切しないことを明言したこと。その影響で、正役職の地区部長の役職を解任されたこと。某三人組と行動を連携したこと。ネット上で創価執行部を批判したこと。ついに副役職も解任されたこと。反乱分子(『反創価学会』)として扱われたこと。地元組織から何度も事情聴取されたこと。自主退会を暗に促されたがキッパリと拒否したこと。これらにより最終的には除名処分を受けたとのことである。

思考停止をやめた結果

最後の感想で篠澤氏はこう述懐している「ことの発端は、思考停止をやめただけです。正しい基準のもと、自分の頭で考え始めただけでした。」これは極めて重要だろう。かつては創価組織からの上意下達の打ち出しをこなすだけの『ものを考えない人』であった。そこから覚醒した。創価中央組織は目覚めた人が多くなれば困る。容易に会員をコントロールできなくなるからだ。故に、そのような人の発言・行動に圧力をかけ除こうとする。

独善的で閉鎖的な組織

創価組織は、いつも『対話が大事』『対話の団体』だと対話を強調しているが、組織の中で、異なる意見を言う人を片っ端から査問し排除するようでは「言ってる事とやってる事が違う」ではないか。これでは独善的で閉鎖的な組織運営だという他ない。

同志(同じ組織で同じ教義の者)の意見すら徹底排除するような組織が、どうやって外部の人達・考え方や信奉する宗教の違う人達と対話が出来るというのか。「一丈のほりを・こへぬもの 十丈・二十丈のほりを・こふべきか」と仰せの通りである。協調など出来るはずもない。これのどこが『開かれた組織』なのだろうか。

組織の打ち出しに疑問を持ち、反対意見を挙げる人を片っ端から反乱分子(『反創価学会』)とみなし排除していく。このような実態を見ると、かつてのキリスト教カトリックの異端審問を想起するのは私だけだろうか。

本来ならば、問題意識をもって、堂々と改善提案をする人達こそ大切にすべきではないのか。そのような人達を排除していけば、従順に従うだけのイエスマンしか残らないではないか。そんな画一的な組織に何の魅力があるのだろう。



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『気軽に語ろう』渡辺氏だが、この輩は、思い込みが激しくどうしようもない愚か者である。何の根拠もなく日興遺誡置文を偽作扱いしているのだ。

決めつけの記事
「私はこの二十六箇条の置文が日興の著作だとは考えていません。基本的にこれらは北山本門寺等の日興門流に伝わってきた寺内文書である」
と言い切っているが、

「日興遺誡置文が日興上人の著述では無い」と主張したいのならば、
では「いつ(正確な日付)」・「誰が」・「何のため」に作ったのか、
その証明をしなければならない。

(*これは彼自身が日頃から主張している『必要条件』なのだ
「もしそうだとしたら、一体、誰が何の目的で相伝書と言われるような重要な文書に加筆」したのだろうか?
と『誰が』『何の目的で』と、血気盛んに追及しているではないか)

だが、この輩は一切、何も証明できていない。
ただ自分が思い込んでいるだけなのである。
客観的に証明できるものを一切提示していないのだ。

ロクに調べもせず、証拠も出せず、ただ思い込みの妄想の記事を垂れ流すだけ、
もはや小学生の作文レベルの文章と言う他ない。恥ずかしい輩である。
これが通用するなら、文献学者など必要なくなる。

大聖人が源信を一定評価されたことの考察をしてみる。
源信とは平安中期の天台宗の僧であり、恵心僧都と尊称で呼ばれることもある。さて、この源信は、有名な『往生要集』を著したことで知られる。あの法然が浄土門に帰入する契機となったのが、この往生要集であるとされる。

大聖人は守護国家論の中で「源信僧都は永観二年甲申の冬十一月往生要集を造り寛弘二年丙午の冬十月の比・一乗要決を作る其の中間二十余年なり権を先にし実を後にする」と仰せである。更に「慧心の意は往生要集を造つて末代の愚機を調えて法華経に入れんが為なり」と、源信の本意は、往生要集で末代の愚かな機根を整えて、『一乗要決』にて法華経の正法に導き入れようとした為と仰せである。

ちなみに一乗要決には「全く自宗他宗の偏党を捨て、専ら権智実智の深奥を探るに、遂に一乗は真実の理、五乗は方便の説なるを得るなり。既に今生の蒙を開く、何ぞ夕死の恨みを遺さんや」「大乗は二乗、三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗は即ち第一義乗なり、誓願一仏乗なり」とあり、法華経の一乗思想が強調されている。ここに慧心の本意が何であったかを顕しており、自宗・他宗の偏った考えを捨てたならば、浄土の法門を捨てるべきだという結論である。そして一仏乗が真実の理と心得る時、専ら法華経に依るのが当然との事である。

後に、源信を厳しく糾弾しておられる箇所もある。「日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。」(撰時抄)。身は天台宗の権少僧都にありながら、43歳で往生要集3巻を作り、念仏に身を売った。念仏を薦める往生要集が、念仏無間の道へ僧侶や民衆を追いやった罪は大きい。

(仏法発祥の地)インドの仏法には元来、草木成仏という概念が無かったらしい。では「草木成仏は、釈尊の説法に依拠しているのか否か」を考察してみたい。

涅槃経に説かれる『一切衆生悉有仏性』の意味するところは、「あらゆる生き物には仏性があり、仏になる可能性を具えている」ということである。ここで、『一切衆生』というのは『生きとし生けるもの』を意味しており、その中には草木瓦礫は含まれないようである。草や木はインドでは、瓦礫や壁・土塊と同様に感覚がないものとされていた(鳩摩羅什は知がないと訳している)『知』もなく『感覚』もない草木に成仏は無理な事だとされてきた。

更に文法的に詳細に見ていきたい。サンスクリット語で『生きとし生けるもの』を意味するサットバ(sattva・सत्त्व)を鳩摩羅什は衆生と漢訳したが、玄奘は草木瓦礫などの非情と対立させて有情と訳した。これは草木に精神がないとするインドの考え方を反映した訳である。なお、非情に該当するサンスクリット語は見当たらないようである。

仏法が中国に伝わり、天台宗で『草木国土悉皆成仏』という思想が起こってきた。天台大師は法華経の法理を、一念三千として体系化した。この一念三千の法理こそ、有情・非情を含めて三千の諸法が一念に収まることを明らかにしたものである。摩訶止観にて「一色一香も中道に非ざること無し」と説いている。妙楽大師はそれを更に明確に表現された。止観輔行伝弘決で「然るに亦倶に色香中道を許せども無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」と無情の色香等にも仏性がそなわっているという草木成仏の義を述べている。金剛錍論では「一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果ありて、縁了を具足せり」とあり、草木にも仏性があると、明確に述べている。止観輔行伝弘決には身、事理、土、真俗、因果等の十義に約して根拠を挙げている。

であるならば、大聖人の御図顕された御本尊、言うまでも無く『非情』である紙に認められた文字曼荼羅、草木成仏は何に依拠しているのだろうか。日々考察を続けている。勿論、草木成仏口決や木絵二像開眼之事などの関連御書は数えきれないほど繰り返し拝読した。

仏法発祥の地インドに於いて、草木成仏の概念が無かったとするならば、釈尊の説いた仏法には草木成仏が説かれなかった事になる。では草木成仏の法理は『天台宗の独自教義』として考えるべきなのだろうか。或いは、インドの仏法にも草木成仏の概念が存在している可能性を模索すべきだろうか。

ではインドに於いて仏像を崇拝の対象としていた事はどう解釈すべきだろうか。或いは、仏舎利(釈尊の遺骨)を崇拝していたのはどうだろうか。これらは、仏像や仏舎利に仏性があるのを信じていたのでは無かったのだろうか。

これは私にとって非常に難しいテーマであるので、結論を軽々に下すのではなく、今後も研鑽を進めて考察し続けていきたい。


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植木氏によると、法華経のタイトルである、サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra)を正しく訳すと『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』になるようだ。

今まで、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』の蓮華とは『如蓮華在水』で菩薩のあり方を象徴しているという解釈がなされてきたが、これは明らかに間違いとのこと。

インドで蓮は最もめでたい花とされており、法華経には青睡蓮・紅蓮華・白睡蓮・白蓮華という四種類の花が出てくるが、白蓮華は必ず最後にくる。白蓮華は純白なので、蓮華の中で最勝とみなされている。正しい教えと白蓮華は、最も優れているという点で共通している。

ちなみに岩本氏は、法華経のタイトルを、欧米流の訳し方に倣って、同格の『の』によって『正しい教えの白蓮』と訳すべきだと主張していたが、それはサンスクリット文法、英文法、国文法のいずれに照らしても間違いであるとのこと。

漢語では、薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧(サダルマ・フンダリキャ・ソタラン)と当てられ、鳩摩羅什はこれを『妙法蓮華経』と翻訳した。羅什は白蓮華に込められた『最も勝れた』という比喩的意味を充分に汲み取って訳しているのである。


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対談『法華経の智慧』の中で、戸田会長が亡くなった年の元日に、最後の『新年の講義』をしたエピソードが語られている。寿量品の三妙合論(本因の妙・本果の妙・本国土の妙)がテーマだったらしい。体は相当衰弱していたが、その声は力強く訴えた。その中で、戸田会長が特に強調したのは『日蓮大聖人が本因の仏であられる事』だったという。真実の仏とは、娑婆世界という『現実の世界』以外にはいらっしゃらないという事である。

仏とは単なる架空の存在ではない。たしかに『架空の仏』は方便としては説かれてはいる。しかし『真実の仏』とは五濁悪世の中におられる。最も苦しんでいる衆生の中に分け入って、人々の苦しさ悲しさに同苦し、救っていく。それが仏である。傲慢な権力者からは弾圧され、増上慢の連中からは迫害され、救うべき衆生からも(無知・無理解から)憎まれ、悪口罵詈・杖木瓦石される。その大難の中にこそ仏はいらっしゃる。どこか安楽な別世界で、悟り澄ましているのが仏ではない。

大聖人こそ、まさしく末法における仏という見解である。

今の創価教学は宮田氏をアドバイザーに据え、様々な教義変更を模索してるようだが、まさかこの見解を変えるということは無いと思いたい。


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植木訳を手掛かりに、法華経研鑽を進めているが、植木氏の解説を読めば読むほど、岩本訳の曖昧さが目立ってくる。文法上で不正確な訳が多い。そのような個所が数多く指摘されている。その中には意味合いが大きく違ってくるものもある。

例えば、信解品で「また、自身の栄耀栄華を息子が疎んじていることを知っていましたし、」と訳されているが、『息子が疎んじていること』などサンスクリット語の原文にはどこにも記載されていない。

或いは、「お前は、[この財産の]すべてを完全に知るべきである」と訳すべき文章が、岩本訳では、「おまえはこのすべてを受け取ってもらいたい」となっている。原文には『受け取る』などといった意味は無いし、この段階で「(財産を)受け取ってもらいたい」と、長者(資産家)が発言するのは早すぎる。この段階では、財産の全てについて知悉するように言っているだけで、長者(資産家)が財産を贈与するのは、この後の国王や、親戚縁者、町や村の人々を邸宅に招いた時のことである。また、この文章は日本語としてもおかしい。「おまえは」を主語にするのなら、述語は「受け取るべきだ」とするべきだし、「受け取ってもらいたい」を述語にするのなら、主語は「私は」とすべきで、目的語を「おまえに」とするべきである。

他にも薬草喩品で、
「横になる寝台や、坐る座席にあっても、私には、怠惰が存在することは決してないのだ」と訳すべき文章が、岩本訳では「ひとたび説教の座に坐れば、まことに余に怠惰の気持ちの生ずることはない」となっている。原本には『ひとたび』に相当する語は用いられていない。『説教の座』と訳された語も、原文では「横になる寝台や、坐る座席」となっている。岩本訳では、怠惰の気持ちが生じないのは、説教の座に坐った時だけというニュアンスになってしまう。原文は、寝台で横になっている時も、椅子に坐っている時も、すなわちどんな時にも怠惰であることは無いと言っているのであって、岩本訳は適切ではない。

これらは、ほんの一例であって、岩本訳では文法的に不正確・曖昧な個所が多すぎて、研鑽のテキストとして用いるのは疑問である。

サンスクリット語の文法を厳密に検証している植木氏の訳が一番信用できる。


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創価は御書を用いているが、部分的に、自分達に都合の良い解釈をしている所が散見される。特に酷い事例を具体的に挙げる。

聖教新聞。2018年6月5日付け。寸鉄にて。
「仏法は皆師より習ひ伝へ給へり」御書。偉大な広布の師のもとで進む誉れ

実は、これと全く同じ意味合いの文章が、2007年10月14日付けの寸鉄に記載されていたのである。

御聖訓『仏法は皆師より習い伝へり』。師匠の指導通りに戦い進む門下たれ。

この寸鉄の文章を読む限り、「大聖人は『仏法は皆、師匠から習い伝わっている』と仰せである。だからこそ創価の『偉大な師匠』の指導通りに戦い進みなさい。それが誉れである。」と解釈するのが普通だろう。

この文章は妙密上人御消息の一節を引用している。しかし、妙密上人御消息を丁寧に拝読してみれば、意味が全く逆であることがわかる。
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この前段で、諸宗の元祖達が法華経を根本第一として読んでいない為に、『法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す』と厳しく断じておられる。しかし諸宗の弟子達は「我が師は法華経の心を得給へり」と思い込んでいる。そして、これらの誤った諸宗の弘教した仏法(他人の弘めさせ給ふ仏法)は皆師匠より習ひ伝へ給わったものであると仰せなのである。

一方、大聖人は、仏の御心が御身に入ったからこそ法華経の教え通りに題目を唱え、人にも勧めておられ、曲がった心が無い。聖人というのは、師匠がなくても自ら悟った人をいうのである。仏典には「我が修行には師匠の助けがない」と説かれており、天台大師と伝教大師がこれに該当し、当然ながら、日蓮大聖人も聖人に該当する。
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このような大意である。

あろうことか、大聖人の御見解と正反対の解釈をしているのだ。御書の一節を引用して、自分達の組織に都合良く解釈して、自分たちの正当性を主張する為に利用している。余りにも酷いと言わざるを得ない。これが創価の『切文教学』なのである。

創価の会員の方々には、御書の部分的な『切文教学』を学ぶのでは無く、御書全体を丁寧に拝読することを切に願う。いい加減な解釈をすれば、大聖人の御意思と全く正反対の解釈をしてしまう危険性がある。



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